白く、白い雪
外は、白銀の世界だった。
全ての物は白く染まり、凍って停止している。
一息吸う事に、肺が凍り付きそうになるのを魔力を全身に巡らせ流し続けることで防いだ。
上空を見れば、今も百近い踊り子たちがくるくると体を動かし、雪を降らせている。その顔は白く、笑い合っているような様子なのに笑い声が一つも聞こえないのが不気味だった。
館を出たグリフィスは直ぐにスルト班の残り二人と合流し、街の状況確認を急いだ。既に出ていた二人は大雪が下ろされ、屋外に出ていた者は凍り付いたが家の中にいた者はかろうじて無事だと言う。
「そうか……」
夜間であったため被害は少ないと見るべきなのだが、雪に押し潰され、あるいは全身が凍り付いて砕けた住民を目の当たりにし、グリフィスは唇を噛んだ。
入り口や窓が凍り付き、家の中に閉じ込められた住人達は何が起きているのかわからないながらも、家の中の物を燃やしなんとか暖を取っているようだ。
「……魔術式が、発動している?」
何件かの家を周り、グリフィスはスルト達と顔を見合わせた。
この冬の対策にと、各家に設置した魔術式。魔力が無ければ発動しないはずのそれらが、きちんと発動しているのだ。
「……元々、起動に僅かな魔力を込めれば、あとは館の本元の魔術式に連動し効果が発揮するものだが……」
時折平民にも、魔力持ちが生まれることはある。周った全ての家に、魔力持ちの平民がいるというのは、いくらなんでもおかしい。
住民たちの話によれば、特に何もしていない。いつも通り、というか、この異常事態に慌てて家族で暖炉に駆け寄って、火をつけたと、それだけだそうだ。
「魔力判定をしますか?」
「いや、今はそれどころではない。次の家を回るぞ」
疑問はあるが、優先すべき事は他にある、とグリフィス達は次の家へ向かった。
これは……グリフィス達の知らぬこと、そしてこの場にいないエルザ本人も意図していない事だったが、無事だった彼らは日中、例の料理対決、お祭り騒ぎにてラダー商会の料理を食べた者たちだった。
餃子の皮にはラグの粉が使用されており、粉には微力だが魔力が籠っている。もちろん魔力を体内に留めておくには常に食べ続けなければならないが、まだ消化されず胃や腸内に残っているそれらだけでも、起動の為の魔力量としては十分だったと、全てはただの偶然である。
事前に領主側が貧富の差関係なしにどの家にも等しく効果のある魔術式を設置したこと、ラダー商会に勝とうとルシタリア商会が己に有利な料理勝負に変更したこと、マーサが攫われて追いかけてきたエルザがラグの粉を使った事、それらが偶然重なっただけのことで、何か一つでも不足していれば、街は一つの抵抗も出来ず全滅していただろうと、それは誰も、知らないことだ。
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領主の晩餐に招かれていたテオ・ルシタリアは食事が終わり男性陣である領主と謎の男、スレイマン(シモンとテオは名を覚えているが)が隣の談話室に移ってしまい、領主夫人ローゼリアと二人きりになっていた。
女性同士ということで気兼ねなくおしゃべりをしましょうと言い出したローゼリアは、しかし夫の領主が席を外すと、これまでの領主夫人らしいどこか派手な雰囲気が消え、始終無言で淡々と、食後の甘い飲み物を口にするだけだった。
それであるからテオはこちらが不作法だったか、あるいは相手にされていないのかと萎縮した。けれど、もはや領主一家に媚びを売る必要はなく、己が今後全力で取引する相手はエルザという少女なのだと、そう思えば沈黙も苦ではなく、周囲に気を配る事が出来た。
そして、ちらりと視界の端に見えた光景に席を立ち、窓際へ寄ったテオは驚きに目を見開いた。
「街が、凍る」
上空には薄布の煌びやかな衣装を纏った、明らかに人間種ではない存在が多数浮かび、そのしなやかな四肢を使い踊っている。
街は白く、キラキラと月明りで輝く雪が覆っていた。そう、月だ。月が出ている。あれが冬の踊り子たちだと、即座にテオは理解した。
「奥様!! 空に……!! すぐに部屋の奥へ!!」
ここは窓に近い。あの雪は良くない物だとテオは察した。それで、無礼とは思いながら、ローゼリアの手首を掴み部屋の奥へ移動しようとした、そのテオの手を逆に掴み、領主夫人は静かに首を振る。
「わらわと居る其方は安全じゃ。騒ぐでない」
その声は、それまで聞いていたローゼリアの声ではなかった。
氷のように冷たく、そして威厳のある声だ。
「……予定より、ふむ、少し早いかな? だがまぁ、子供というのは親の予想を悉く外すものと聞いておる」
彼女はテオに話すのではなく、独り言のように呟いた。その時に、ストン、と腑に落ちるものがテオの中に振ってきて、思わず口を開いてしまった。
「氷の魔女、か?」
言って、しまったと思う。
氷の魔女ラングダはいつでもテオの身を害する事が出来る。ここで正しいのは、状況を何もわからずただ傍に黙ってついている事だった。
ちらり、とラングダの目がテオに向けられた。冬の泉のように冷たく透き通るその瞳には感情らしいものは見えず、ただ、物音がしたのでそちらに顔を向けた、という程度の気安さしか感じられない。
だが、テオの瞳に様々な理解の色を見て取ったのか、ラングダは少し考えるように目を細め、そして「よくわかったな」とだけ言った。
だが、なぜわかったのか説明しろ、という意味であることはテオにはわかる。
言ってしまった物は仕方ない。テオはぐっと、腹に力を籠め、氷の魔女の進める椅子に座った。
「我がルシタリア商会は常に、相手の弱点を探る為情報収集に努めています。我が商会がこの街で最も優れた商会となるために、領主の後ろ盾を得るだけではただの傀儡。それゆえ、領主一族の醜聞も、集めておりました」
醜聞、とはっきり言えば、魔女は面白そうに笑う。笑うと何か小動物のような愛らしさがあったが、相手は人間種よりはるかに高位の存在だ。油断は出来ぬ、と今度は言葉選びを間違えないように、テオは必死に思考を巡らせる。
「領主夫人、ローゼリア様は後妻。けれど、彼女は子供の頃からの許嫁だった。それが、領主様は突然、領地内の村の娘を妻とされた。しかし、先妻殿は亡くなり、ローゼリア様は後妻として迎えられ、以後は豪遊され、子育てには無関心の困った方と我々……平民には思われております」
贅沢三昧の領主夫人の評判は、あまり良くはなかった。だが、同情的な声があったのも事実。どこぞの村娘に突然、愛する人を奪われ放って置かれた。それなら、たとえその後、妻に収まったとしても夫へのかつての恨みや当てつけから、買い物三昧をして困らせてやろうと、女の抵抗ではないかと。
ラダー商会のラダーは、これに付けこみ、己の妻を送り込んでローゼリアをお得意様としたが、テオはこの散財には違和感を覚えていた。
金の使い方に、面白さがない。
購入はする。ラダー商会が誇る、高級品のあれこれを、新作が出た、新商品だ、高価なものだ、とそれらを買いはする。だが、それだけなのだ。
テオは商人だ。それであるから、金持ち連中の相手を多くしているし、王都での貴族や富豪の生活というものを見てきた。それで共通する点は、彼らは富を他人に見せつける事で、その心を満足させるのだ。
ローゼリア夫人があれこれと品を揃えたのなら、見せびらかすものだろう。だが、買ったまま、彼女はそれっきりだ。女性が表へ出ることは希とはいえ、機会がないわけではないし、今回の料理勝負にもまるで姿を見せなかった。
嫌がらせで金を使うことが目的なのだから、それも当然だとも見れる。だが、テオは集める情報を合わせて彼女の「無関心さ」に気付いた。
「先程の貴方の発言で、腑に落ちました。貴方は人ではない。この雪の主人、領主一家に関わりのある人ならざる存在といえば、それは、氷の魔女ラングダでしょう」
「半分は思い付き、であるな。まぁよい。其方は賢い娘じゃの」
にこり、と氷の魔女が微笑んだ。及第点、らしい。
「……本物のローゼリア様は?」
「とうに死んでおる。あれは、息子なぞ産むのではなかったな。必ず迎えに来るというクリストファの言葉だけを信じ、大きくなった腹を親族の胡乱な目に晒しながら生きるは苦しかっただろうに、生まれた子が息子であり領主の血を引いているからこそ、己の身動きが取れなくなった。子がなければ自由にどこへでも行けたものを」
信じていた婚約者に棄てられたと、失意の底でローゼリアは亡くなったらしい。
「まぁ、クリストファは最初からミシュレの生まれ変わりを殺すつもりでいたから、己の恋人に娘を産ませたくはなかった、などと言いながら、ローゼリアの皮を被ったわらわを口説いてきたなぁ」
「ミシュレ……?」
「我が娘じゃ。6代前のザークベルムにくれぐれもよろしく頼むと言って託したのに、僅か数年で殺された憐れな娘だ」
気の毒に、と繰り返すラングダの声には、やはり違和感がある。
この人外の存在は、おそらくだが、人とは心の在り方が違う。だから、ローゼリアのことも、ミシュレのことも、テオたちが思うのと同じような意味で憐れに思ってはいない。ただ、こういう状況、そういう時ならば、そのように思うものなのだろうという知識があるらしく、それで、そう、振る舞っているだけだと、そう考えればしっくりと来た。
「つまり、これは正当な報復だと?」
「そうじゃ。其方、本当に賢いのう」
魔女には心がない。ただ、人間であれば「そう感じるだろう」「そう考えるだろう」「そう思うだろう」という、長く生きた知識から行動するのか。
「我が娘、ミシュレにとって世界とはわらわと、そしてザークベルムの家の中だけだった。生まれ直すにはここしかなかった。そしてわらわとザークベルムの約束もあった。ザークベルムは魔女の娘を『預かり』続けねばならぬのだ。人並の幸福になるまでな」
「貴方は、子供を産むことが幸せだと考え、それを区切りとした、のですね?」
「人間種の努めであろう? 女は子を産むものだ」
そういう考えが一般的だと、魔女は考えている。それは、確かにそうだとテオも認めた。けれど、子を産むことだけが幸せではないと考えているテオであり、それに頷くのには抵抗があった。が、今はそれは関係ないと頭を振る。
「クリストファの姉、ルシアと名付けられたミシュレの生まれ変わりは子を孕んだ。産まれた子をおぞましいと思ってクリストファは殺そうとしたが、ルシアを慕っていたロビンとかいう騎士が己の子を身代わりにして誤魔化したな。ルシアも、産むならあぁいう男の子にすればよかったものを。まぁ、子はわらわが精霊の獅子を与えロビンの元で良き青年に育ったようじゃが」
その子供は、ミシュレの子であるのだからラングダにとっては孫のような存在らしい。
テオは車輪の騎士アゼルの思わぬ出自を知って驚くが、そうなると、いよいよこの街は危ない。
ザークベルム家はもう、用済みになったのだから。
「どうか、街をお救いください。魔女様」
「うん?」
「この雪は、貴方様の悪意ではないはず。それなら、貴方様がお命じになれば、冬の踊り子たちは貴方の娘様との同調を止めて、雪を止めてくださるのではありませんか」
雪を降らせているのはミシュレの悪意だ。
ラングダはただ見に来ただけ。そう、彼女は己の娘が何度も生まれ変わっていることに、きっと興味はなかった。ただ、自分が拾った子供の、末路がそろそろ決まりそうだから、一番近い場所で、ただ見に来たのだ。
ローゼリアとして浪費をしたのは、「多分、恨んでるだろうし、女だからこういう復讐をするだろう」と考え、息子と不仲を演じたのは、息子の所為で自由になれなかったのだから、きっと恨んでいるのだろう、とそう、判じただけだ。
「なぜじゃ。これは道理であるぞ?」
「貴方様からお預かりした娘様を、ザークベルム家が害した事はザークベルムの人間の罪でございます。街に住む者たちは関わり合いの無い事でございます」
テオは必死に頭を下げた。
街には己の母や、商会の者たちがいる。テオはこの街で本当の己を晒せなかったが、それでも、この街を好いていた。父が愛した街だ。王都を知るからこそ、自分の生まれた街の人々がどれ程暖かい心を持っているか知っている。
そんな彼らが、冷たい雪の中で凍り付いて死んでいくなど、黙って見ていられなかった。
「ならぬ。領主とは、そして管理者とは己の下にいる者の命の責任がある。己の不始末は己に寄り添う命全てに影響があるものだと、それは人間種も他の種族も変わらぬ絶対的な責任じゃ」
しかし、ラングダははっきりと、テオの願いを拒絶する。それには氷の魔女としての圧があった。太陽が毎朝上るように当然のことと、これはそういう類のものだとテオに知らせる。
「成程、良い事を言う。つまり、貴様の不始末で踊り子どもは燃え墜ちるのだ」
ガチャリ、と扉が開いた。そして聞こえる、コツンとした杖の音。
現れた黒髪の男の楽し気な声と共に、窓の外で絶叫が上がった。
「…………な、んだ!!?」
上空にいた踊り子たちの半数が、突然体を炎に包まれ、空を割るような断末魔の悲鳴を上げながら落ちていく。それは白い雪の上に落ちる前に燃え尽き、灰も残さなかった。
ガタン、と、椅子から立ち上がる音。そこで初めて、ラングダの顔に険しい、警戒する色が浮かんだ。
相対する男、スレイマンはにやにやと口元を歪めながら、杖と反対の手で掴み引き摺っている男、髪を掴まれ血まみれになった領主クリストファを乱暴に放り投げた。
「半分は残しておいてやった。感謝しろよ? 大事な娘を精霊どもから預かった魔女だからなぁ? 全滅なんぞ恥ずかしくて言い訳も立つまい?」
恩着せがましく言い放ちながら、スレイマンは軽く指を振り、上がりかけたラングダの腕を吹き飛ばす。
「抵抗するなよ、あぁ、でも、そうだな。貴様も半死半生にしてやらねば気の毒だ。必死に抵抗したがまるで及ばなかった、というのはわかりやすい方がいい」
「……其方、魔王か」
「先ほどまで楽しく食事をした仲というのに、気付いていなかったか?」
「なぜ其方がここにいる」
肩を抑えながら、ラングダは声を鋭くした。その吹き飛ばされた腕は血を撒き散らし、床に落ちているが、肩からは血が出ていない。断面さえ、黒いタールで塗りたくられたようになっていて、テオはこれが即座に魔女が自身で発動した治癒魔法なのだろうかと考える。
魔王?
何の、話をしているのかテオにはついていけない。
これまで圧倒的強者であり女王という振る舞いをしていた氷の魔女が、現れた片足の男の前では弱者のような怯えを見せている。
「テオ・ルシタリア。お前は屋敷の中にいるマーサを探し出し、エルザを夢から救い出せと伝えろ」
マーサって誰だ、と一瞬突っ込みたかった。
だが、思い当たる。確か、グリフィス様の花嫁としてこの館にいるはずの娘だ。
「マーナガルムの娘と、なぜ其方のような者が一緒におる」
「人生というのは何があるかわからんものだ」
「この道理を曲げようというのか?」
「この街がどうなろうと構わなかったが、事情があって守ってやっても良いか、というだけだ。それに――貴様を見たら、あのバカ娘が食料保存のための職員として雇うとか言い出しかねん。全く、氷の魔女の使う氷魔法程度、この俺が使えないと思うのか……」
スレイマンは呆れたように溜息を吐いた。その油断しきった態度は、氷の魔女をまるで脅威と感じていないと、心底見下した結果である。
テオは再度「行け」と促され、弾かれたように走り出した。
これ以上自分がここにいても、出来る事はない。
だがあの男がいれば、街は救われる、そういう気がしたので、それなら、己はあの男が「やれ」と言ったことをきちんと全うしなければならない。
遠ざかる部屋から女の悲鳴が聞こえたが、テオは構わず走り続けた。
Next
全てを台無しにする男、スレイマン




