車輪の騎士アゼル
短い話。
領主の家、マーサさんの様子です。
乱暴に物をひっくり返す音がして、車輪の騎士アゼルはすぐさまマーサの部屋に飛び込んだ。
香木で出来た豪華な調度品や神殿の巫女が何年もかけて織られたという見事な模様の絨毯はひっちゃかめっちゃかに荒らされており、その中心には怒りで顔を真っ赤にした、この領地の主人の息子が、一人の少女に鞭を振り上げようと立っている。
「グリフィス様! お止めください!」
アゼルは素早くマーサを庇うように割って入り、嫡子グリフィスに怒りをおさめるよう懇願するが、若いグリフィスはそれさえも気に入らないようで、標的をアゼルに変え、その手の鞭を振り下ろした。
「どいつもこいつも! この僕をばかにして!! 何が聖女だ! 何が救世主だ! こんな小娘! ただの田舎娘じゃないか!!」
「お止めください! 若様!! アゼル様にまで……どうか! 罰するなら私だけで!!」
バシバシとアゼルが打たれ、その皮膚から赤い血が飛び散るとマーサが悲鳴を上げた。
あぁ、自分などの為に悲しませてしまったとアゼルは鞭で打たれる痛みよりも、マーサの涙を見る方が辛く、胸が張り裂けそうになった。
領主様と、アゼルの育ての親であり領地を守る騎士団の団長であるロビンの命令により、アゼルはドゥゼ村からこの少女を攫った。
アゼルは生まれた時から一緒にいる翼の生えた獅子がいた。
それであるから、ロビンに拾われ騎士としての教育を受け、今では空を飛べる貴重な騎士、車輪の騎士の二つ名を頂くまでとなった。
だが、自分が攫ってきた少女がこのような目に合うとは知らされていなかった。
「お、お前は!! 僕のものになるんだ! お、お父様がそう決めたのに!! なんで、なんでいう事を聞かない!!!」
幼いころから母ローゼリアに甘やかされて育てられた嫡男グリフィスは、勉強は出来るし頭は悪くないが、傲慢で癇癪もちだった。
何でも自分には手に入ると思っており、去年、冬の踊り子たちに大いに気に入られ、領地に例年以上の大雪という幸いを齎した少女を妻にすれば、自分は最も尊敬される領主になると信じて疑わないのだ。
興奮し暴力が酷くなるグリフィスは騒動を聞きつけたローゼリアの侍女たちに宥められ、母の部屋に連れていかれた。
ローゼリアに愚痴を言い、アゼルの出過ぎた真似を告げ口にしに行くのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アゼル様……私なんかを庇って……」
マーサはすぐさまアゼルの身を案じ、その傷を見ようと自分の服が汚れるのも厭わずに触れようとする。
情けない姿を見せてしまったと、アゼルは自分の弱さに泣きたい気持ちでいっぱいだ。すぐに立ち上がり血をぬぐおうとするが手酷く打たれたので、立てそうにない。
体は鍛えているつもりだが、あれで魔女の血を引く家の子。その憎悪は力を増幅させて相手を打ちのめすのだろう。
アゼルはゆっくりと息を吐き、腹に力を込めて立ち上がる。
こんな怪我はなんでもない、というように平静を務めて微笑む。
「団長の訓練の方がずっと酷い」
「でも」
「貴方の強さに比べれば、私など弱く頼りないでしょうが、どうか貴方を守らせて欲しい」
これは正直な気持ちだった。
村から攫った自分が何を言うのか、そんな資格などあるものかとマーサが罵ってこないかと恐れたが、目の前の優しい人は困った顔をするばかりで、アゼルを責める様子などみじんもない。
「私は……強くなんて。私は臆病者です」
「村の為に、グリフィス様の妻になることを承諾された、その心を讃えぬ者などいない」
「……アゼル様は私を誤解してるわ」
誤解などするものか、とアゼルは首を振った。
あの卑怯なグリフィスは、去年の大雪でドゥゼ村が大量の死者を出したのは、マーサの所為だと詰ったのだ。
元をただせば、冬の踊り子たちを制御できなかったのは領主側の失態であり、マーサ自身あれほどの踊り子たちを呼び寄せられるなどとは知らなかった。
だというのに、マーサは気の毒にも自分の所為だと思い込み、グリフィスが自分と結婚すれば村へ支援をするという言葉を信じ、結婚を承諾した。
卑怯者め、と、アゼルは主人の息子に対して思ってはならぬ感情を抱く。
いや、ただの取引だけであるのなら、ここまでグリフィスを憎みはしなかった。
あの卑怯者はマーサが自分に逆らえぬとわかっているから、酷い態度を取り、母や父に満足に構ってもらえぬうっぷんを、暴力という形でマーサにぶつけた。
出来る限り、アゼルはマーサの傍にいて、その非道な振る舞いからマーサを守ろうとしている。けれど、近頃ではそんなアゼルに気付いたグリフィスが母ローゼリアに言いつけてアゼルに小間使いのような仕事を与え、あちこちに追い払うようになった。
そういう時は出来るだけ、話の分かる自分の騎士仲間にマーサの事を頼むようにしているが、服の内側に隠れて見えぬ場所を、時々マーサが抑えているのを見る。
「どうして、若様はあれほどお怒りになるのかしら……私は逆らったりしていないつもりなのに、不作法なところがあるなら教えて欲しいのだけど……」
マーサは辛そうに顔を伏せる。
確かに彼女は従順だ。
グリフィスにも嫌な顔一つせず微笑みかけ、自分勝手な話しかしないのにきちんと耳を傾けている。
それでもグリフィスはマーサが自分のいう事を聞かないと癇癪を起す。
「……私には解りかねる」
答えながら、それは嘘だった。
アゼルはグリフィスがなぜマーサに執着し、理不尽に怒鳴りつけるのか理解できる部分があった。
あんな愚か者の気持ちなどわかりたくはないが、だが、同じく、この美しく優しい心の娘に惹かれている者として、どうしようもなく苦しい思いを抱く、それが理解できた。
「あぁ、きっと、おじいちゃんや皆は心配してるわね。ワカイアたちは変わりないかしら……」
マーサは遠くを見る。
その目はいつも優しく誰にでも向けられるが、その心は遠くにあるのだ。
彼女が心から愛する存在は別にある。
マーサに惹かれれば惹かれる者ほど、それを痛感するのだ。
どんな罵倒も、どんな暴力も、きっと彼女の心には響かない。
彼女は自分が大切なものをもう決めているひとなのだ。
そのために強くあれる、その心が美しいと思っているのに、その心が自分には向けられないと、だからこそ理解することが狂おしい。
アゼルは彼女を攫った自分を恥じている。
けれど、だからと言ってもう一度獅子にまたがり、彼女を抱き上げて、村にそっと連れて行こうとは思わない。
ここに彼女がいれば、グリフィスのような卑怯者から彼女を守り、彼女の為に傷付く騎士として、彼女の瞳に己が映るのだから。
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