白亜の大神官
「うん、あぁ、よかった。君の前だからちゃんと口が利けるようになるか心配だったんだけど、うん、僕の方がまだ強いままみたいだね」
モーリアス・モーティマーの体から、彼とはまるで違う男の声が発せられた。これまでの真面目な模範生のようだった雰囲気が変貌し、この世の全ての軽薄さを集めて人の形にしたらこうなるという見本のような声と雰囲気だった。
「やぁ、久しぶりだね。裏切りの聖女、エルジュベートの子、えぇっと、今はスレイマンっていう名前で呼ばれたいんだっけ?」
自分の声がきちんと出ていることに満足し、神殿派の頂点に立つ男は相対する黒衣の男に向かい、長年の親友に会った以上の親しみを込めて笑顔を浮かべる。
だが数年ぶりに会う男は、そんな彼に憎しみの色しか見せず、今にも掴みかかって来そうな憎悪が見て取れた。
これは、握手を求めるのは止めておいたほうがよさそうだと判じ、白亜の大神官ラザレフは肩を竦めながら、観察を継続する。
「ねぇ、君はどうしてあの森から出てきてしまったんだい?」
まず問うのは純粋な疑問。
スレイマン・イブリーズは傲慢で尊大だが、愚か者ではない。
それであるから、魔王の魂が己に封じられていること、王都での謀反が失敗に終わったのであれば、自分は敗北したということをあれほどはっきりと突きつけられたのであれば、その野望を粉々に打ち砕かれたのであれば、二度と人間の世に出てこようなどという気にはならないはずだ。
あの謀反に全てをかけていたはずだ。それが無残に、悉く、何一つ得ることができなかったのだから、もはやあの男が何かを望むなど、あるわけがない。
「わかっていることだろう?魔王の魂を持つ者は、可能な限り生き続けるだけの存在でなければならない」
聖女が代々、魔王の魂を持つ子を産む。結界を持続させるために人生を費やした聖女の最大にして最後の仕事である。
しかしスレイマンの母、エルジュベートは歴代の聖女のように産んだ我が子を塔に渡すことを拒んだ。
神官たちの目を欺き、別の赤ん坊を塔へ上げて、実の子は川へ流しなんとか生き延びさせた。
それから十年、神官達は欺かれた。魔力量の測定、魔族たちへの影響など事が発覚する要素は多くあり、それを隠し通すのは並大抵のことではなかったはずだが、しかし、エルジュベートはやってのけた。
そうして、そのままその子供がひっそり生きていればもしかしたら誰も真実に気付かなかったかもしれない。
いや、それは無理だっただろう。
その子供は望まずにはいられなかった。己を捨てた母の愛を、富を、名声を、己の人生に栄光を得たいと、望み、港街の孤児は才能だけで王都の魔術学園に入学した。
そして彼の圧倒的な魔力、才能、その存在は瞬く間に知れ渡り、塔の子供は身代わりだったと、聖女の裏切りを神殿は知った。
「君の代わりに塔で過ごした僕だけど、まぁ、恨みはないよ。でも、君は今すぐ喉を潰し、両手両足を斬りおとし、その異端審問官に連れられて再び聖なる森で朽ちるべきなんだけどなぁ」
「俺が俺の人生を望んで何が悪い」
懐かしい記憶を呼び起こしながら、目の前の男に言えば、傲慢な男は自分の生で人生を変えられた存在なんぞ気に掛けることもせず、フンと鼻を鳴らす。
こういう男だ。これだからいけない。
スレイマン・イブリーズという男は他人を不幸にすることしかできない。自分の事しか考えていないし、他人が自分と同じ命があり、意思があるなど考えもしないのだ。
そもそも、魔王の魂なんてものを持つ者が、人並の人生などで満足するわけがない。
自分の力を誇示することばかり考える男は自分を笑った貴族がいる、というそれだけで、小国の騎士団や軍を滅ぼし、捕えた王族を家臣たちの目の前で裸にして鞭打った。
性根から歪んでいる男が望む人生など、人間種にとって害悪以外の何だというのだ。
「君らしく生きようとすることは我々にとって悪夢だ。都合が悪すぎるものなんだ。だから誰も君の幸福を望まないし、君の幸福など我々にとっては価値がない」
だから邪魔をするし、それを悪だと顔を顰める。なるほどこの男からしたら理不尽だろう、納得いかないだろう。しかし、けれど、だけれど、この男が人生を謳歌することは、我々からしたって、納得のいかない理不尽さなのだ。
魔王の魂は脆弱な肉体の、命が短い人間種の内に閉じ込められ続け、魂が繰り返し繰り返し封じられる度に、その魔性を弱められねばならない。
だから、この男は人間種として、その義務を果たすのならば生きた屍であるべきなのだ。
「君がそんなことを考えたのは、例の結界を張り直した聖女様の影響かい?」
あの謀反を阻止したことで、ラザレフはスレイマンの心を完膚なきまでに叩きのめしたつもりでいた。お前の望んだ幸せは一つも叶わぬと、目の前で聖女を焼き殺しありありと突きつけたはずだ。
それなのに、まるで堪えていないように、目の前にいる男はなんだ。
「不思議だよね、どういうわけか君の傍にはいつも聖女がいる。エルジュベート、マイア、ユリアーナ……多くの聖女を魔女とし火刑台に登らせておいて、全く君も懲りないなぁ」
ラザレフが嫌味を言えば、スレイマンの瞳に憎悪の炎が揺らめく。
椅子から立ち上がり、今すぐラザレフに殴りかかりたいという様子だが、殴られて痛みがあるのは体の持ち主である異端審問官であり、ラザレフには何の影響もない。
「あれは関係ない。たまたま拾っただけの愚かなガキだ。世話をさせるために傍に置いているだけだ」
言い切るスレイマンに、ラザレフはハハハと声を出して笑った。
「なんだい、庇うのかい?随分と入れ込んでるじゃあないか」
なるほど、あんなに幼ければ物事の分別もつかないだろう。幼過ぎてスレイマンという男の印象が強烈でそして絶対的な庇護者であるのなら、なるほど、頼りにしてくるのだろう。スレイマンからしたら、幼い純粋な子供に頼られていて、まるで自分が正しい者でもあるかのような、そんな勘違いをしているに違いない。
「でも、ねぇ?」
ラザレフは気の毒そうな表情をあえて作り、考えるように首を傾けた。
「その子にとって、君でなければならない理由は?君を魔王として求めていないのなら、彼女が欲しているのはきっと些細なことんだろうね。それを与えられるのは、君だけじゃあないはずだよ?」
スレイマンにとってその子は唯一の存在になるかもしれないけれど、その子にとってはどうだろう。
「僕はね、君のような男が誰かに幸せを与えられるなんて、到底思えないよ」
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