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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
8/57

08.天才システムエンジニア、黒田蓮

「失礼致します……わっ」


 初めて入るこの部屋の様相に圧倒された。まず目に入るのが正面の複数のモニターだ。そのモニターを前に、座り心地の良さそうな大きな椅子、きっと人間工学に基づいた云々の高級椅子に違いない、多分……に座っている彼が一人でこの会社の全てシステムを構成していると言う。


 私ならどこから見て良いのか目移りしそうだし、しかも文字列がいっぱいで解読不能と言うか、頭と目が痛くなりそうだ。


 視線を動かしてみると辺りには何やらよく分からない色々な機材が置かれている。さらに壁際には本棚が置かれていて、専門書か何か分からないが、難しそうな本が並び立てられている。そしてその横には大きなソファーベッドが置かれていた。


 見るからに高品質で気持ち良さそうだ。疲れた時に休むのだろうか。いいな、秘書室にも一台下さい。しかしこれが秘書室にあったら仕事にならないわね。自制している彼の精神力は素晴らしいの一言に尽きます。


 部屋は完全に音を遮る防音壁を採用しているのか、一応窓はあるものの外の音が一切聞こえて来ない。空調すら従来の物と比べるとごく静かな音だ。部屋にはひたすら彼がキーボードをすごい速さで叩く音だけが響く。


 そう言えば、社長から聞いた話によると寝泊まりすることも多いので宿泊できるように寝室他、洗面所にトイレ、シャワールームなど生活に必要な物が全てこの部屋に備え付けられているそうだ。ここは完全にパソコン部屋と言う感じなので、あの扉の奥の部屋がそうなのかもしれない。


 以前、優華さんが通う学園で生活をしていた時に出会った少年、世界で活躍する音楽一家のサラブレッドであるバイオリニストの江角奏多君の待遇を彷彿とさせる。天才にはそれに応じた環境を整えてあげる事でさらに能力を引き出そうという意図なのだろう。


 ここで仕事するのは彼一人だけのせいか、監視カメラを数人でチェックする部屋にも入った事があるが、そことはまた異なった無機質な雰囲気がある。人嫌いだという彼は部屋まで人を寄せ付けない空気にしているようにすら思える。


 それにしてもこの部屋は寒いな。熱を発生する色々な機材を置いている為に冷房をきかせているのだろうか。パソコンとか熱い空気が出るもんね。


「何」


 彼はこちらに振り向きもせず、そう言った。


「え」

「何か用があるんだろ。突っ立っていられると邪魔なんだけど」


 何と! 社長にすら忘れ去られるくらい空気の一部と化して、存在を気取られない優秀すぎる秘書ですよ? その私の気配を読み取るとは一体どこぞの者か!


 少々感動して言葉を失っていると、彼は面倒くさそうに言った。


「用が無いなら帰ってくれる? 気が散るんだけど」

「あ、あります!」


 私は慌てて言った。そう言うと彼は少しだけ椅子を回してこちらを見た。その顔には見覚えが……。


「あー、あなた。この間の人!」


 女性社員にぶつかって書類を広げたのに謝罪もせずに去った青年だ。何だ、彼だったのか。社長の様な冷たき容貌に眼鏡を掛けた男性でも現れるのかと思った。ふっと肩の力が抜ける。


 その彼というと眉をひそめてこちらを見たが、すぐに無言のまま椅子を回転させてモニターに視線を戻した。


「すみませーん。用事があるんですけど」


 返事が無い。


「すみませーん。用事があるんですけど」


 返事が無い。


「すみませーん。用事があるんですけど。……返事が無い。ただのウォーキング・デッドのようだ」

「うるさいな。誰がゾンビだよ!」


 手を止めて振り返ると苛々した様子で、けれど彼はツッコミを入れつつ振り返った。なかなか律儀な子である。


「あら。君が人間で良かったわ。私、モブ気質だからゾンビを前にまず真っ先にやられちゃうタイプだからね。でもね、あれって先にゾンビになった方が、気持ちが楽になると思わない? ずっと恐怖から逃げ回るのは精神的に良くないと思うんだよね。どうせヒーローとかヒロインしか生き残れないなら、モブは早い段階でゾンビにジョブチェンジした方が絶対いいわよね?」


 あ。モブがゾンビにジョブチェンジって早口言葉みたいだなあ。

 一人感動していると、彼がうんざりした表情を浮かべるのが目に入った。


「……あのさ。本気でどうでもいいんだけど。用件は何? さっさと言ってくれる?」

「ああ、ごめんなさい。用件だったわね。その前に私は秘書課の木津川晴子です。よろしくお願い致します」

「あ、そ」


 興味なさそうに彼はそう言う。


「あなたのお名前は?」

「関係ないよ。用件は?」

「あなたのお名前は?」

「……用件は?」

「あなたのお名前は?」

「っ、用件は!」

「あなたのお名前は?」

「ようっ……畜生」


 彼は質問がエンドレスになると思ったのか、忌々しそうに社員証を見せてきた。うん、賢明な選択だ。しかし私は目を細めてみせた。


「ん? ごめんなさい。結構視力は良い方なんだけどね。最近、ブラック上司のせいで疲れ目が酷くてね、よく見えないわ。何て書いてあるのかしら?」

「っ! 黒田だ」

「ふむふむ、なるほど。社長とお揃いのブラック君ね」

「誰がブラック君だよ! と言うか、あんたの直属上司は社長か!? 社長をブラック呼ばわりするって……」


 彼の言葉を軽くスルーして。


「えーっと、黒田蓮君でしたか。うん、格好いいお名前ね」

「……見えてるじゃん」

「うん、今見えた」

「…………」

「よろしくね、黒田君」


 黒田君は大きくため息を吐いた。


「で。用件は」

「ああ、そうそう。うっかり忘れる所でした。ありがとう」

「……いや、忘れんなよ」


 私はぽんと手を打つと、表情をきりっと引き締めた。


「実はですね。あなたにかかる経費についてのご相談です。……初めてこのお部屋に入りましたけど、とても待遇が良いようですね。奥にも部屋があるみたいですし」


 部屋を見渡しながらそう言ってみる。すると彼はあからさまに嫌な表情を浮かべた。


「何だよ、あんたも文句あるの。社長には容認してもらっているよ」

「ええ、お聞きしております。ただ待遇の良いお部屋だなって思ったのは、あくまでも私個人の感想だけです。優れた技術や能力を発揮されて、結果を出される方はそれ相応の対価が必要だと思いますし」

「ふーん。じゃあ、何しに来たわけ?」

「はい。経理からの要望で確認しに参った次第であります!」


 びしりと敬礼してみる。彼は呆れた様子を見せた。


「それは分かったけど、何で秘書のあんたが?」

「はい。実は経理からの要望が、まあ何と社長にまで上がっておりまして、調査せざるを得ない状況になっております」

「……まあ、社長が容認している訳だからね」

「経費削減にご協力頂ける部分があるならお願い申し上げたいですし、無理なら経理を納得させる理由が必要ですので、一度ここを調査させて頂ければと思――」

「断る」


 私が言い切る前に彼は拒否して来た。


「はい?」

「悪いけどここは俺一人で忙しいんだ。あんたに付き合っている暇は無いよ」

「ああ、なるほど。その点は全くお構いなく。私が一人で調査致しますから。気にしない気にしない。では早速、お邪魔にならぬよう奥の部屋から」

「ちょっ!」


 扉に向かってとことこ歩いて行く私を彼は焦った様子で掴まえた。


「奥は居住区! 勝手に入るな」

「住み込みですか?」


 黒田君は諦めたようにため息を吐いた。


「そうだよ。生活をほとんどここに移しているから。奥は完全にプライベートな部屋。特に贅沢品を置いているつもりはないよ」

「まあっ! あなたって性格が淡白の様に見えて、実は仕事大好きっ子なのねぇ。素晴らしい。社畜の鑑だわ」


 しみじみとそう言った。


「誰が仕事大好きっ子だよ! 子供かよ。それに何が社畜の鑑だよ! 凡人のあんたと一緒にしてほしくないねっ」

「あら、あなたって意外にもテンションが高い人なのねぇ。人嫌いって聞いていたんだけど」

「あんたのせいだよ」

「まあ。そんな殺し文句言わないでくれる? 困るわ、私」

「殺し文句じゃないから! 勝手に脳内変換するな――っ」


 彼はそう言うとふと自分の言動に気付いたのか、がくりと肩を落としてため息を吐いた。


「協力する。するから、さっさと調査して帰ってくれ……」

「まあ。ご協力頂けるだなんて、ありがとうございます。誠心誠意、お願いしてみるものですね」

「誠心誠意の言葉に謝れ!」

「あら? 私、少しばかりご無理を言ってしまっていたのかしら。ごめんなさいね」

「少しじゃないからね。でもそれはもう、どうでもいい……」


 私はこうして黒田君のご厚意を得て調査する事と相成ったのだった。

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