56.ある日社長が風邪を引いたなら(終)
社長の家のキッチンはドラマに出てくるような、お洒落なカウンター型システムキッチンとなっている。広くて使い勝手が良くて、また明るく綺麗でまさにセレブ感にあふれているという感じだ。ただし、ほとんど汚れていない所を見るとあまり使われていないように思う。
優華さんが言うには、社長は毎日ではないようだが料理も自分でしているそうだ。けれど考えてみれば、夕方に会食が頻繁にあったりするから、そんなに家で食事する事もないのだろう。そう言えば私も同伴させられる事が多々あった……。
しかし料理を作りに来てくれる女性っていないのかな。私が見ている範囲では今、女性の影はないようには思うんだけど、社長のお眼鏡に適う女性とは一体どういう人だろうか。
社長はもてるからさぞかし選びたい放題のことでしょうね。やっぱりこのキッチンに似合うような上流家庭の上品で綺麗なご令嬢で――って、別にどうでもいいんですけど! 社長がどんなご令嬢を選ぼうともワタクシには全く与り知らぬところでございますよ……うん。
ああでも、そっか。料理人は男性が多いのに家庭のキッチンに立って料理している男性って、想像すると何だか格好いいよね。
「社長が料理している姿かぁ。……どうせサマになっているに違いない。ちっ」
社長に対し、理不尽と思いつつも小さな苛立ちを覚えて頭がすっかり冷えたところで、部屋へと戻ってそっと扉を閉めた。
額と首に当てたタオルを取り替えても社長は身じろぎ一つしないところを見ると、どうやらすっかり夢の中のようだ。
しっかりと眠れているようで良かった。できるだけ時間を無駄なくスケジュールを組めというから分単位で予定を入れ込んでいるけれど、社長はきちんと睡眠が取れているのかいつも心配だったのよね。予定次第だけど、少し緩く調整できるか見直してみようかな。
それにしても暇だ。いや、看病に暇などとは不謹慎かもしれない。だけど静かな空間だから余計に時間が長く感じるのだろう。どうしようかな、そう思った時、ふと優華さんから預かった荷物が目についた。
そう言えば私にもお昼を用意してくれているって言っていたわね。どんなお昼だろう。
包みを手にとって膝の上で広げてみると、お洒落な重箱に収められていたのはたくさんの具材が詰め込まれた、色とりどりのサンドイッチだった。食べやすいように一口サイズにされている。またお肉類やサラダや果物などが美しく華やかに添え合わせてあって、一人オードブルのようだ。看病しながらも手軽に、そして匂いがきつい物を避けた結果、サンドイッチが選ばれたのだろう。ご丁寧にフォーク類やおしぼりまで用意されている。
「わあ、美味しそう……」
思わずぽつりと呟いてしまった。だけど……。ちらりと眠っている社長を見る。
確かに匂いがきつい食べ物ではないけれど、眠っている人の横でガツガツ食べるわけにもいかないし、だからと言って社長を放り出してキッチンで頂くのも何だか気が引ける。
うん、そこまでお腹が空いていないし、今は止めておこう。
私は重箱の蓋を閉め、包み直して横のテーブルに置くと、お昼を食べていないはずなのになぜお腹が空いていないのかなと考えてみる。そしてふと思い当たった。
そっか、社長と一緒におかゆを食べたからだ。そうそう。私が毒味しながら社長にせっせとおかゆを食べさせたんだった。少々身の危険を感じたけど、端から見たらきっとひな鳥に餌を与えているみたいだったんだろうな。あはは。
……って、え? ちょっと待って。笑っている場合じゃない。考えてみれば、同じスプーンを使ってなかった? ――うっ、うわぁーっ!
思わず頭を抱えてしまう。今になって凄い事をやっていたのだと実感して顔に熱が上がってきた。しかし反面、そんな事を社長がよく許していたなと考えると今度は血の気がざあざあ引いてきた。もしかして抵抗があったのに、体力がなくて強く抗議できなかったとかだったらどうしよう。
ま、まあ、社長も高熱で夢うつつだっただろうし、気づいてないかもよ。私も今気付いたところだし。う、うん、人間ポジティブが大事です。前向きに行こう。現実逃避とか聞こえない聞こえない。
そう思い直して、再びタオルを替える。
初めに比べるとタオルの温もりも少し下がってきたような気がする。完全回復に二、三日はかかるだろうけれど、今は呼吸も落ち着いている。解熱剤無しでも熱が下がってきているのなら夜に高熱が出なければもうこれ以上は悪化しないかな。良かった。
ほっと一息を吐くと、こちらまで気が抜け、椅子の背もたれに身を任せる。
よくドラマで恋人未満の男性の看病についていた女性がベッドに伏せて眠ってしまうというシーンがあるけど、看病していて何のんきに寝ているんだなどと思っていました。だけど、これだけ薄暗いと眠くなるのは分かりますね。ましてドラマのシーンは夜の事が多いし。私は昼だけど正直眠いです。けど……。
社長の寝顔を見つめる。
こんなにまじまじ眺めた事は無かったけれど、やはりこうして間近に見ても社長の容貌は整っているなと思う。そして目を伏せていると社長の鋭い眼力が隠されて、いつもより少し甘い顔立ちにして優しく見える。
普段、この社長に休み構わず引っ張り回されて迷惑を被っているのよね。だけど今日も日曜日を潰されているはずなのに、看病するのは不思議と嫌ではない。部屋が静まりかえる中、ゆっくりとした時間が流れて社長の顔を見ていると何だか穏やかな気持ちになる。
こういう気持ち、何て言ったっけ。そう。確か、愛おし……。
「はぁっ!?」
ち、違うっ! 何考えているの!? 考えを振り払うように頭をぶんぶん振り回した。
「っ……」
社長が声ならぬ声を上げて、私は慌てて両手で口を塞ぐ。
騒いで病人を起こしてどうするの。と言うか今、何だか猛烈に顔が熱いから起きないで下さい、お願いします!
願い虚しく、社長は一度身じろぎすると目を覚まし、気だるそうな表情で焦点を合わせるかのように数回瞬きした。
「す、すみません。起こしてしまいました」
「いや。もう目が覚めかけていた」
社長は肘をついて自力で身体を起こそうとするので、私は額に置いたタオルを取ると、手伝ってベッドの端に身体をもたれかけさせた。社長は目を伏せて一つ息を吐くと額に張り付いた前髪を煩わしそうにかき上げる。そして開いたその瞳にはいつもの強い光が戻っていた。
えーっと。変わり身早くないですか? もう少し弱っていて頂いていても良いのですけど……。と言うか、あ、あれ? 待って。社長ってこんなに男っぽかった?
つい先ほどまでの様子とのギャップに、どくんと一際大きく胸が高鳴る音が耳元すぐ近くで聞こえた気がした。
――恋というものは落ちるの! ギャップでがくんと落ちるものなの!
早紀子さんの言葉が思い出される。
は? だから違うってば。早紀子さん、違うよ違うったら。社長は社長なんですよ!?
「もう大丈夫だ。世話をかけたな」
「あ。しゃ、社長……」
いつものきりっと引き締まった表情と低く落ち着いた社長の声で我に返る。
うわぁぁっ、恥ずかしすぎる! こんな社長を掴まえて、愛おし以下略とか考えていたなんて穴があったら入りたいです。ギャップとか、すみません。むしろ謝罪します。土下座撤回させて下さい。
「木津川君?」
すっかりのぼせ上がって頭の中がぐるぐる状態の私を見て、社長は眉をひそめた。
すみませんすみません。全ての気持ちを忘れますから許して下さい。
そう言いたいが、胸がドクドク高鳴るばかりで声が出ない。
「顔が赤いがどうした。まさか俺の風邪がうつったのか?」
そう言うと社長の腕が私の額へと伸びる。そして社長の大きな手が私の片目に被さるように当てられた。社長の手の温もりが伝わる。
「…………は?」
「どうした? 君もこうやってくれただろ」
社長はにやりと笑うが、朝と状況が全く違う。私はシラフですよ!
「……あの、社長?」
「本当に熱いな。大丈夫か?」
ね、ねえ、社長。大丈夫とか言っているけど、本当は社長の方がまだ熱ありますよね? 今、ほろ酔い気分ですよね? だ、だってまだ妙に熱を帯びた色気がありますよ!?
社長の熱に当てられて、こちらまでくらくらしている私に構わず、社長は額から手を離すとその手で私の肩を引き寄せる。
「悪いな。風邪……俺に戻していいぞ」
「え、も、戻すって」
社長は緩やかな動きで指の甲を頬に滑らせ、顎へと潜り込ませた。ぞくりと肌が粟立つ。
「あ、あのっ!?」
「木津川君、――」
「っ!?」
艶やかな笑みを浮かべて低く掠れた社長の言葉に激しく動揺していると、社長は私の顎を持ち上げてその端整な顔を近づけた。
「え、ちょっ、ま」
ね、熱に浮かされた、とっ殿、ご乱心ナリ!?
あ、で、でも大丈夫。分かっていますよ! こ、これって定番のあれですよね、あれ。絶対そう。口づけ一秒前とかに誰かがごきげんようとか言って、部屋に乗り込んで来て阻止されるパター……ん!? 唇が熱……んんんっ!?
コンコン。
控えめなノックがあって扉を開き、誰かが部屋に入って来る気配を感じる。
「お兄様、ごきげんよう」
「貴之さん、こんばんは。お加減はいかがですか」
小さな声でそう挨拶するのは優華さんと悠貴さんのようだ。
「ああ。悠貴君もわざわざ悪いな。おかげさまで楽になった」
「そうですか。良かったです」
「あら。晴子様、眠っていらっしゃるの?」
優華さんはベッドの上で突っ伏している私に気付いた。
ええ、そうなんです。意識は浮上してきたけれど、まだ起き上がる気力はありません。何だろう、力が抜けて仕方がないのです。
「……ところで、優華。そのグラスは何だ」
社長がそう問うと、優華さんは慌てた様子で言った。
「あ、あら、お兄様、失礼ですわね! お兄様方のお邪魔にならないかしらと、ドアにグラスを付けて中を窺うなんてはしたない真似など、わたくしは断じてしておりませんでしたわっ!」
「ご丁寧に自供してどうするの、優華……」
悠貴さんからツッコミが入る。優華さんってば、本当に可愛いですね。
「まったく……」
「仕方ないではありませんか。タイミングを計りたかったのですもの。でも残念。晴子様はお眠りになっていたのですね」
「……だけだといいな」
社長はぼそりと呟いた。
「え? お兄様、何かおっしゃって? でも、うふふ。旦那様の看病に疲れた奥様みたいですわ。お可愛らしい。これぞ、ロマンスですわねっ!」
「優華、楽しそうだね……」
いや、それはちょっと違うような気がしますよ。言い訳しようと、ようやく身体が再起動したところで起き上がる。
うーん、良く寝たわー。って、いや、社長の看病の途中でのんきに寝ちゃったよ、どうする私。……とりあえず、すっとぼけたフリをしてみよう。
「あ、あら。私、いつの間に眠って」
「ごきげんよう、晴子様」
優しく後ろから掛かる声に振り返ると、やはり優華さんと悠貴さんの姿がそこにあった。
「あ、優華さんと悠貴さん。こんばんは」
「こんばんは、晴子さん」
「ありがとうございました、晴子様。お疲れのご様子、申し訳ございません。兄の看病、お代わり致しますわね」
「もうそんな時間なのね。いえいえ、どう致しまして。……あ」
私は社長に視線を向けた。
「社長、お身体の調子、いかがですか?」
「ああ、大丈夫だ。今日は本当に助かった。ありがとう」
「いえ。私こそ途中で居眠りしてしまいまして、申し訳ございませんでした。いやー、看病する人って、本当に寝るものなんですね」
ドラマの中だけだと思っていたなーと、あははと笑って誤魔化してみた。
「どうだろうな……」
「では、優華さんもお見えになった事ですし、そろそろ失礼しますね。お大事になさって下さいませ」
立ち上がり、頭を下げて寝室を出ようとすると、社長に呼び止められる。
「……木津川君」
「はい?」
「さっきの事だが」
「やだなー、社長。お礼だなんて、全然これっぽっちも気にしないで下さいな。そう言えば、最近、駅前にタルト専門店がオープンしたらしいんですよ! リベンジにはもってこいですね! やだ。食べたいなとか全然言ってないです、ハイ」
言ってる言ってると悠貴さんからツッコミが入った。
「……分かった」
「はい!」
「では、お兄様。わたくしたち、晴子様を玄関までお見送りして参りますわね」
「ああ」
「それでは社長、失礼致します。お大事にどうぞ」
「……ありがとう」
ぺこっと再び頭を下げて、今度こそ失礼した。
部屋に一人残された貴之はぽつりと呟く。
「目覚めたら記憶喪失でした。……ってか。オチは予想していたがな」
そして大きくため息を吐いて、再び落ちてきた前髪をうんざりしたようにかき上げたのだった。
←←ふりだしにモ・ド・ル。
(終)
って、そんなに都合良く記憶喪失になるかーいっ!
……今、猛烈に頬が熱い。本当に熱が出てるかも。きっと人から見たら心配されるレベルだろう。
「うー社長ーっ。私が風邪の時の仕返しにしては度が過ぎていますよ……」
唇を押さえると、社長宅の扉を背にずるずるとへたり込んだ私だった。
後日談)
「優華さん、そう言えば社長、お兄さんはおかゆは苦手だったみたいよ?」
「あら。どうしてかしら」
「何でも昔、暗殺……」
「え?」
きょとんとする優華さんに私は手を振って否定する。こんな事、優華さんに言ったらいたずらに心配を掛けるだけだものね。黙っていよう。
すると優華さんは、はっと表情を変えた。
「あら、大変! 晴子様にお伝えするのを忘れていましたわ」
「え! 何なに!」
まさか優華さんも暗殺者の話を知って――。
「お兄様のおかゆにチョコレートとニンニクを入れて頂くのを伝え忘れておりました」
「…………はい?」
「幼心にお兄様に早く良くなって頂きたくて、滋養強壮に良いと聞くチョコレートやニンニクを入れましたのよ。涙ながらにお兄様、召し上がって下さいましたわ」
「あー、うん。暗殺者は優華さんだったか。そりゃあ、おかゆがトラウマになるわね……」
社長にほんの少しだけ同情した私であった。
(終)
前作の37話・続以上の関係を越えるべきではないのではと悩み抜いた末、このオチとなりました。そして痺れを切らした社長が前作の『目覚めたら~37話』へと続く。という事でよろしくお願い致します。
(元々続編を書く予定はなかったので、前後となる形になって申し訳ございません)
最後になりましたが、これにて「かしこまりました、社長様」は完結とさせて頂きます。ここまでお付き合いして下さった皆様、本当にありがとうございました!




