55.ある日社長が風邪を引いたなら(三)
社長はおかゆを完食するとお腹が満足したのか、ふっと一息を吐いている。一方、私の方が手酷い精神的ダメージを負った。
私が口に運ぶ度に喉を熱っぽい瞳で見ているんだから、本当に血を吸われるのかと生命の危機すら感じ、恐怖に打ち震えましたよ。私は餌じゃありません、お気をしっかり持ってと何度口走りそうになった事か。肉食獣に狙われる草食動物さんの気持ちが初めて分かりました。明日から社長用にトマトジュースを常備しよう。
「さてと……」
私は椅子から立ち上がろうとすると、社長の手が伸びて私の腕を捕まえた。ぎゅっと掴まれた腕から社長の熱が伝わってきて、やはりまだ身体に熱があるのだなと感じる。
「どこに行く」
社長の声はいつもと変わらないが、心なしか雰囲気が不安げだ。……社長の風邪に影響されたのだろうか、何だか幻覚が見えてきた。
軽く頭を振る。
「お皿を片付けようと思いまして。あ、キッチンをお借りしています。あと、社長のお着替えの準備ですね。温かいタオルをご用意しますね」
「着替え? 着替えろと言うのか?」
気だるそうに言う社長。身体が辛いのは分かるけれど、汗をかいたみたいだし、お着替えはしないとね。
「汗だくみたいですから、そのままですと身体が冷えちゃいますよ。一度は着替えが必要だと思いますが」
「……そうか」
社長は納得したのか、そう言うと手を放した。
「じゃあ、すぐ準備してきますね」
そう言って立ち上がるとお皿と洗面器を持ってキッチンのシンクに向かった。まだ熱が高いみたいだし、あまり熱いお湯じゃない方がいいかな。
お湯を用意しつつ、お皿を洗っていると寝室から何やらガタっと鈍い音が聞こえた。……え? まさか立ち上がろうとして倒れたとかじゃないよね?
とりあえず身一つで足早に部屋に戻る。
「あの、社長? どうか――な、何なさっているんですか」
少し息の上がった社長は、左手はカットソーをつかみ、右手は箪笥に手を掛けてこちらを見ていた。足元にはズボンの残骸と思われるものが落ちている。かろうじて下を履き替えたといったところか。
「いや……着替えをしているだけだ」
熱く呼吸していると思われる社長は妙な色気を醸し出していて、焦りが立ちつつも慌てて駆け寄った。
「息が上がっているじゃないですか。無理なさらないで下さい。ベッドに戻りますよ。ほら、肩に掴まって」
「悪い」
社長の熱い手の平が肩に乗り、さらに風邪でかすれ声になっている熱い息が耳にかかると、ざわりと背筋に電気が走った。
ひぎゃわー。何か背中が猛烈に吹雪警報発令しているよっ!
「も、もう。無理なさって。着替えは私に任せて下されば良かったのに」
私は焦る気持ちを隠すようについ文句口調になってしまう。
「そういう訳にもいかないだろ……」
あら、意外と紳士だった、びっくり。お金持ち坊ちゃんはメイドさんに服をあれこれと世話してもらっているイメージだから。ああ、でも社長は一人暮らしが長いんだっけ。
「少しお待ち下さいね。お湯を取って参りますから。いいですか? これ以上は動いちゃだめですよ?」
「……ああ」
私は社長をベッドに座らせて子供を嗜めるようにそう言うと、社長は少し息を吐いた。もしかするとさっきよりも熱が上がっているのかもしれない。
「情けないな。もう少し体力があるつもりだったが」
あら。社長でも病気の時は弱気になるんですね。
何だかおかしくなって小さく笑ってしまう。すると社長がいつもより弱い視線だが、睨みをきかせてきた。
……あ、失礼致しました。
「社長はいつもお忙しくされていますからね。神様が一日ぐらいゆっくり休めとおっしゃっているんじゃないですか」
まあ、社長に付き合わされている私も結構忙しい身なんですけどねー。
社長はつい愚痴ってしまったと気付いたのか、ばつが悪そうに視線を逸らした。
あはは。いつもは優位に立つ社長をやり込めた気分だ。まあ、病人相手に私も大人げないわね。
「男性は女性に比べて熱や痛みに弱いそうですよ。だから社長は辛抱強いと思います。普通の男性は七度ちょっと出たくらいで俺は終わりだーみたいにアピールがすごいですから」
「……普通の男性とは?」
今度はなぜか強い光を灯して再び睨み付けてくる。
ああ、身内の事を一般人の代表にすべきじゃなかったわね。
「すみません。うちの家族の話なんですけどね。父や弟はいつもそうなんですよ。本当に大袈裟なんですから」
「……そうか」
「では、すぐ戻って来ますので」
「ああ、分かった」
そして私はタオルとお湯を取りに戻った。
「えーっとそれでは、コホン、お背中を拭かせて頂くので服を脱がせてもらいますね」
今の私は純粋なる介護者だ。気持ち、看護師だ。そう、麗しの白衣の天使様だ。……最後のは異論を認めよう。しかし断じて他意はないっ!
「分かった」
そして社長のシャツを背中から何とか脱がせたわけだが、思わずその背中をまじまじと見つめてしまう。
ヤバイ。社長は細マッチョだった! そう言えばこの社長の億ション、共有施設にフィットネス施設も完備されていたっけ。もしかして普段からそこを利用しているのかな。いやー、それにしても背中から見ても何とも良い具合に引き締まった肉体をしている事が分かる。ちょっとくらい触っ――。
「……おい。寒気がするんだが」
「はっ」
私は無意識に伸ばしていた手を慌てて引っ込めた。
し、失礼致しました! それ、風邪のせいでも冷気のせいでもなくて、完全に私のせいですね! はー、無意識ってコワー。
気を取り直して、タオルを浸して絞ると、ぽんぽんと手で温度を確認する。熱さはこれくらいなら大丈夫だよね。
そして社長の首筋にそっと当てた。
「えっと、熱さは大丈夫ですか?」
「……ああ」
私は首から肩、背中へとタオルを流していく。社長はふっと吐息をもらした。
き、気持ちいいのかな。
けれど社長は何も言わず、私も無言で手を動かすので、静かな部屋の中でタオルを浸す音と時計の音だけがやけに響いて聞こえる。
……えー、何だかすごい沈黙なんですけど。えーっと、会話会話。何か話さなくちゃ。普段、社長と何の話をしていたかな。うーん。まずいな。こういう時って全く思いつかない。空気が重いよ、息苦しい。会話の神様、助けて!
と、とりあえず社長のご趣味は何ですかと聞いてみようか。……って、何それ、お見合いですか。そもそも風邪を引いて弱っている病人相手に何の会話だ。
一人焦っていると。
「木津川君」
不意に社長から声がかかった。思わずびくりとして手を止めてしまう。
「は、はいぃ!? な、何でしょうか」
「もう一つ、タオルあるか? 前を拭きたいんだが」
「あ。は、はい」
私はタオルをお湯に浸してしっかり絞ると手渡した。
「ありがとう」
そう言って社長は胸元を拭いている。
確かに前は社長と向かい合わせだから、どうしようと思っていたから助かったかも。だけど、ちょっと胸元見てみたかったのは内緒だ。――当然嘘ですよ嘘。
あ、そう言えば……。
「社長、今日はどうして私に電話を下さらなかったのですか?」
「え?」
社長は顔だけこちらに向ける。いつもの精彩を欠いた熱っぽい瞳でこちらを見つめる社長にどきりとして、タオルを温め直すフリをして素早く顔を背けた。
「えーっと、ほら。いつも日曜日とか構わずに、出て来いと電話してくるじゃありませんか」
「……私用で悪いと思ったからだ」
だからなぜその優しさを日常に使わないのよ?
そう思いながら私は社長の肩に指をかけると、社長は明らかに身体を硬直させた。慌てて指を離す。
「あ、すみません。私の指、冷たかったですか」
「いや……悪い。大丈夫だ」
そうは言うものの、指が冷たかったのだろう。私は桶の中のお湯に手を付けて温める。うーん、さっきより少し温度が下がったのかな。早くしないとね。
「木津川君?」
「え?」
拭くのを止めた私を不思議に思ったのだろう、社長は振り返った。熱で少し潤む瞳が普段の色気三割増しに見える。
「ひぃっ」
やめて、見返り美人かっ! 直視しちゃったじゃない。社長の流し目は何だか恐すぎる程の色気ですよ。こちらまで悪寒発熱、発症しそうです。
思わず変な声を出した私に社長は訝しそうに眉をひそめた。
「い、いえ。失礼致しました。指が冷たいかと思って温めていました」
「ああ……。気にするな。こっちの話だ」
何だかお互いあまり会話が成立していないようだ。よく分からないけど早く終わらせよう。私は無駄口叩かず、ひたすら目の前の事に集中する。
後少しだファイト、晴子。
自分で自分を応援していると、ふと大変な事に気付いた。――か、下半身はどうしたら!? どうしたらいいですか!?
手がかすかに震え、額から冷や汗がつうと流れる。
いくら、ただいま女優な私でもそこまで純粋な介護者を演じきれないですよ。いや、違う。私が邪な訳ではなくて、社長だって絶対に嫌だろうし、お互い気まずい思いをするだけだから。
そ、そうだよね。それにさっきズボンのお着替えも終わったわけだし、社長も着替えまで手伝わせる訳にはいかないと言っていたよね。……あ、あれ? そもそも上半身も着替えだけで良くなかった? 小さい頃、弟が熱の時にやっていたからついやっちゃったけど。
そうだわ。やらなくて良かったんだわ。だから今回は許してもらっていいかな。いいよね。うん、誰に聞いてもいいと言うに決まっている。うん、いいよいいよ。
私はそう結論づけると、すみません、社長、未来の奥様にやって頂いて下さいと心の中で手を合わせた。
あー、何かどっと疲れた……。
そして社長のお着替えを再び手伝って水分を摂らせた後、社長をベッドへと横にさせる。
「それでは、もう少しお休み下さいね」
「木津川君、この後、君は……」
病気の時って妙に気弱になるものだよね。普段は一線を画している社長もそうなのかと思うと、不思議と身近な存在に思えてくる。でも今日は素直すぎて本当に調子狂うわ……。いつもなら病人を一人置いて帰るなんて真似はしませんよと口走りそうなところだけれど。
「優華さんが夕方、お見えになるそうです。それまでお世話させて頂きますね」
こんな風に、つい優しく接してあげたくなっちゃうじゃない。こんな柔らかな声、自分で言っていて何だか照れくさいです。
「そうか……。悪いな」
社長はそう言うと、安心したように柔らかな笑みを浮かべたのは気のせいだろうか。……まさかまさか、幻覚だ幻覚。
否定を兼ねて、頭をぶんぶん振る。
「いいえ。ゆっくりお休み下さい」
「……ありがとう。そうさせてもらう」
社長は動いて疲れていたのか、そう言うが早いか安心したようにすぐに瞼を伏せた。
ほーんと、社長ってば無防備よね。部下の私にこんな状態を見せていいのかー? 他人に隙を見せるだなんて、人の上に立つ人間たる者良くないぞーと思いつつ、頬が緩んでいる私もちょっと熱にやられているのかもしれない。……あれ? そう言えば私も風邪の時の姿を見られているんだったっけ。
――づかちゃん、社長に行かないでーとか言って首に抱きついちゃって。
うわぁぁ!?
不意に黒田君の言葉を思い出して、頭が突沸する。
お、落ち着け私。だ、大丈夫。うん、大丈夫よ。病人のご乱心はよくある事だから。……とにかく私も少し頭を冷やそう。
そう思って社長の濡れタオルを一度替えると、音を立てないように立ち上がる。また戻って来るから扉は開けておこうか。いちいち扉の開閉をしていたら社長も落ち着かないだろうし。
そして先ほど社長が脱いだ部屋着を片付けると、私はキッチンへと向かった。




