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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 番外編 ―
54/57

54.ある日社長が風邪を引いたなら(二)

 勝手知ったる他人の家。何度となくお邪魔しているお家だ。いや、呼び出しを食らう場所である。

 合い鍵を預かっているものの通常なら絶対に鍵を開けて入らないのだが、今日は寝込んでいるだろうから仕方がないでしょう。しかし初めて社長に無断で入る訳だから緊張しないはずがない。


 ここまで来たら仕方がない。女は度胸だ。一息吐いて鍵を取り出しそっと回すと、かちゃりと小さな音が聞こえて思わず肩をすくめてしまう。だが、ノブを捻ってゆっくりと扉を開放する。そして抜き足差し足忍び足で部屋へと足を踏み入れた。

 後ろ手で閉めたドアは自動的に再び音を立てて鍵がかかり、その音に思わず怯えたことはまあ言わずもがなという事で。


 社長は一人暮らしで、モデルルームみたいに無駄なものがなく、物も整理整頓されていてまるで生活感がないシンプル極まった部屋だ。だから人の温もりを感じられない、どこかひんやりとした冷たい印象があるのだが、今日は生活音すらなく、それに輪をかけている。


 おそらく寝室で眠っているのだろうけれど、今まで寝室には入った事はないんだよね。私がここに来る時には既に身支度を整えていて、隙の無い社長しか見たことがない。普段は一体どんな部屋着を着ているんだろう。


 セレブと言えばガウン!? ワ、ワイン片手にガウンとかだったらどうしよう。いや別にどうすることもないんだけど。と言うか、そもそも風邪で寝ているんだし、ワインはなかったね、ワインは。


 意外と和装だったりして。浴衣とか甚平、作務衣とか。浴衣の袖口に手を入れている姿の社長を想像してみると、うん、浴衣とか似合いそうね。……ふ、ふーんだっ、男前は何でも似合っていいですねっ。


 うー、それにしても余所様の寝室に、眠っているだろうからとは言え部屋の主に断りもなく入るだなんて、まして上司の寝室だなんて改めて考えるとまたまた緊張して変な汗が出てきた。後で始末書とか書かされたりしないだろうか。そうなったら優華さんに取りなしてもらおう。


「この、部屋よね」


 私は寝室へと続く扉の前で呼吸を整えるために息を吐いた。そしていざ出陣とばかりにタオル他片手に開かずの扉に手をかける。

 失礼いたしまぁす、と小さく呟いてゆっくり扉を開けてみた。


 部屋はひっそりと静まりかえっており、カーテンが閉め切られていて薄暗い。とは言え、見えない暗さではないので、開けた時と同じくらいゆっくりの動作で扉を閉める。起こしたくないものね。


 大きなベッドは部屋の中央に置かれ、必要最低限と思われる家具がお飾り程度に配置されているが、ほとんどガランとした印象だ。居間の印象と同じく、シンプルでお洒落と言えばお洒落。何もないと言えば何もない、と言ったところか。


 私はベッド横に配置された机に水の入った洗面器などを、極力音を立てないようにそっと置いた。


 さてさて、社長の様子は。……ん? 待ってよ。

 セレブと言えば、寝ている時は一切服を着ないとかいう全裸健康法なるものが流行っているよね。ま、まさか社長、全裸とかじゃないよね。いや、マジやめて。それだけは勘弁して。ヨレヨレのジャージでもクマの着ぐるみでも腹巻きステテコ姿でもなんでもいいからお願いします、マッパだけは勘弁してー。


 強い祈りを込めながら、恐る恐る大きなベッドの中央で眠る社長の顔を見ようと近づいたその瞬間。


「きゃあ!?」


 突然強い力で腕を掴まれ、ベッドに引っ張りこまれた。体勢を崩してベッドに乗り上がる。


「その声は……木津川君、か?」


 くぐもった声で疑わしそうに尋ねてくる社長。

 はは、よく分かりましたね。社長の前では『きゃあ』なんて可愛い声を出したことがなかったのに。はー、それにしてもびっくりした。


「はい、起こしてしまいましたか。申し訳ありません」

「いや……こちらも悪かった」


 社長はすぐに手を放してくれたので、乗り上がったベッドから下りた。そして起き上がって来ようとする社長をやんわりと取りなす。

 すみません。よくよく考えたら、賊みたいな現れ方をしてしまいましたね。


「どうしてここに?」

「優華さんからご連絡がありまして」

「優華が。……そうか。迷惑かけて悪かった」


 社長はしっかりと受け答えしているが、やはり辛そうに見える。いつもは相手を目力で射貫かんとする鋭い瞳にも今日はどことなく力がなくて、気だるそうだ。


「いえ。迷惑だなんて……」


 あれ? そう言えば私って、休み潰されているのに迷惑じゃないのかな? ――ああ、そっか。これは仕事じゃないからだね。しかし、それはともかく私こそ迷惑じゃないのかな。あ……そうだわ。臥せっている自分の姿を妹である優華さん以上に、部下の私には見られたくなかったんじゃないかと今になって血の気が引いてくる。


「あの。私こそご迷惑ならすぐにお暇しますけど」

「いや、いてくれると……助かる」

「そうですか。分かりました」


 少しためらいがちにそう言う社長に安心半分、戸惑い半分だ。でも、少しぐらい頼られているのかなーなんて思わず頬が緩んでしまうではないですか。


「えー。えーっと、社長、それでは少し失礼致しますね」


 額にそっと手を当てると、社長は抵抗する気力も無いのか、私の行動を咎めることなくされるがままになっている。……うん、やはり熱がありそうだ。頬もほんのり紅い。

 そう考えていると、社長は額に置いた私の手を取って自分の頬に当てた。


「……冷たいな」


 社長はほっと息を吐く。手の平からも掴まれた腕からも社長の熱が伝わって、こちらまで体温が上昇しそうだ。


「しゃっ、社長が熱いんですよ」


 私は冷えタオルじゃありません。放してーっ。

 しかし病人相手に強く振り解く訳にもいかず、社長の気が済むまでそのままにしておく。


 ……あ。優華さんから預かった荷物の中に体温計があるんだから、最初からそれで測ってもらえばよかったんじゃない。社長がこんな状態のせいか、こちらまで何だか調子が狂います。


「あ、あの。社長、体温計で測りますね」

「……ああ」


 社長はそう言うと、ようやく手を放してくれた。私は荷物から体温計を取り出すと、社長の脇に入れてもらう。


「朝から何か口にしました?」

「いや」

「薬は飲みました?」

「いや。できるだけ服用しないよう言われた」

「そうですか。今、何か食べられそうですか?」

「いや」

「そうですか。じゃあ、水分だけでも摂りましょうか」

「ああ」


 今日の社長は素直だなと思わずにこにこしながら枕元のランプを付けると、社長が身体を起こすのを手伝う。そして背中とベッドの間に枕を入れた。ホテルのようなとても大きな枕だ。


「はい、もたれていいですよ」

「ありがとう」


 きゃー、素直な社長、何かいいねっ。いつもこうだといいのに。……いや、やっぱりいいや。それはそれで何か企んでそうで恐いわ。


 私はコップにお茶を用意してストローを挿そうとしたら、止められた。吸い上げるのも辛いのかもしれない。それならばと思ってコップを軽く支えながら飲ませようとすると、さすがにそれは大丈夫だと断られた。

 何だ、つまらないの。じゃあ、せめてと思って社長の額の汗を冷たいタオルで拭うと、礼を言ってコップを返してきた。


「今、何時だ?」

「十一時を過ぎたところですね」


 机にある時計を確認していたら、ピピと体温計の音が鳴るのが聞こえた。取り出してもらって確認すると三十八度二分だ。うん、結構あるなぁ。それでなくても男性はひと月で体温変化がほとんどないから女性より熱に弱いと聞いたことがある。

 テーブルに置かれた解熱剤と思われる薬袋を見ると三十八度五分以上で服用と書かれている。微妙な体温だ。


「辛くないですか? お薬飲まなくて大丈夫ですか?」

「ああ」


 熱で頭もぼんやりしているだろうし、ここは早く横になってもらう方がいいだろう。


「それではお昼まで、もう少しお眠りになりますか?」

「ああ、そうさせてもらう」


 服が汗で濡れていないか確認しながら、私は再び枕を外して社長が横になるのを手伝う。あ、そう言えば、普通のカットソーでした。社長はカットソー派だったのですね。


「木津川君、今日の君の予定は?」

「ご心配なく。ございませんよ」


 むしろ家で社長からの連絡、待機状態でしたからね。


「そうか。悪い」


 と言うか、そういう気遣いは普段お願いしますよ。……と、今日は言わないでおこう。私は病人には優しいのだ。いや病人にも優しいのだ。


「こちらの事は気になさらないで、お眠り下さい」

「ありがとう」


 社長はそう言うと辛かったのだろう、すぐ目を伏せた。確か熱を効率的に下げる部分は脇の下や首回りなのよね。でも脇の下に手を潜り込ませるのはハードルが高すぎるから首回りを冷やそうか。あと、顔が火照っているようだから一応額にも載せよう。


 そして冷えタオルを載せると、社長は楽に呼吸しているように見える。少しは楽になっているかな。しかし、何だか不思議な感じだ。いつも一分の隙すら見せない社長がこんな無防備な寝顔を見せているだなんて。何だか可愛い。……のは気のせいだ、うん。

 私は変な考えを振り払おうと頭をぶんぶん振った。


 あっと。そろそろキッチン借りて、おかゆの準備しようかな。その前にもう一度タオルを入れ替えて、ついでに水も替えようか。

 私はそっと立ち上がった。



「……悪いが、人が作った物は食べる気にならない」


 社長は起きておかゆを目にして一瞬頬の血色が引いたかと思うと、開口一番にそう言った。


 おのれー! 私が時間をかけて折角作ってやったというのに、ワシの酒が、違った、おかゆが食べられないと言うのかぁぁっ。そもそも優華さん情報どうなっているの。社長は手作りのおかゆが好きじゃなかったのか。と言うか、人が作った物は食べる気にならないって、外食はいいんですか。あ、プロならいいのかな? でも優華さんのお家のメイドさんや料理長さんは留守中だと言うし……。うーん。ど素人が作っている私のおかゆよりインスタントの方がましですかね。


「インスタントの方がいいですか? 一応ありますよ」

「いや。それは食べたくない」


 社長は頑として首を振る。うーん、困ったな。わがまま坊ちゃんめ。


「でも何か食べないと体力つきませんよ」

「……じゃあ、目の前で食べてみてくれないか」


 はあぁっ!? いかにもマズそうだってこと!? ケンカ売っているんでしょうか、こんな病気の時まで。

 私の目と眉は自然とつり上がる。


「いや……悪い。そうじゃなくて、小さい頃、おかゆに異物を入れられた事があってそれ以来、おかゆは苦手なんだ」


 え……。何、それ。もしかして幼き頃にお家騒動に巻き込まれたとかなのだろうか。上流家庭の事情は分からないが、それ以来トラウマになったならば何だか切ない話だ。

 思わず子供の頃の社長が毒を与えられて、ベッドでのたうち回る姿を想像してしまって目に熱い物が浮かんだ。いくら今はこんな社長と言えど、幼き、しかも病気の子供に対して何たる非道な犯人! 子供に何の責任があるというの! 外道な犯人め、許せないわっ!


「……木津川君?」


 怪訝そうにかけてくる社長の声にはっと我に返り、私は怒りの眉を下げた。そうだ、私が毒味をすることで少しでもおかゆに対してのトラウマを軽減できるなら喜んで協力しよう。

 決意新たに私は頷いた。


「そういうことでしたら、分かりました」


 そしてスプーンを取ると一匙分すくった。息を吹いて冷ますと口の中に放り込む。そしてこくんと喉を鳴らして流し込んだ。うん、多分、普通に美味しいと思う。まあ、社長のお口に合うかどうかは自信がないけど。

 ……ん? あれ、それにしても優華さんは社長のこの事情、知らなかったのかな。

 そう思いながら社長を見る。


「これでいいで……あの、大丈夫ですか?」


 どこか虚ろな瞳で首元を見つめる社長に私は心配になって尋ねた。


「いや……。身体が元気なら、喉元に食いついていただろうなと考えていただけだ」


 何その怖いヴァンパイア的発想は。人の血を飲む人だったんですか? 風邪は社長まで中二病にしてしまったのか。風邪ってば恐ろしい子。


「馬鹿な事を言ってないで食べて下さい。はい、あーん」

「……子供みたいだな」


 社長は強く抵抗する気力はないようだが、さすがに気後れするのか、そう言った。


「いいんですよ。病気の時は子供でいても、甘えても」

「病気の時は木津川君も優しいんだな」

「あははは。やだなー、何をおっしゃっているんですか。私は二十四時間三百六十五日、年中無休で優しさをお届けしておりますよ」

「それは有料会員限定サービスなのか?」


 ……ぐぬぬぬ。風邪の時まで皮肉屋さんですね。元気が残っている良い兆候でしょうか。今日はそういう事にしておきましょうか。


「とにかく召し上がって下さい。はい、あーん」


 社長は若干ためらいながらも、今度は素直に口を開けた。

 あら、ちょっと可愛い。――だから無い無いっ。


「いかがですか?」

「……美味しい」

「良かった。じゃあ、もっと召し上がって下さいね」


 私は少し冷ましたおかゆをまた社長の口に運ぶが、社長は口を閉ざしてこちらを見つめている。


「え? もう食べないんですか?」

「そのおかゆ、さっきと違う場所から取っただろう」


 そりゃあ、そうですけど……。は?


「……え。もしや一回、一回するんですか」

「ああ、頼む」


 何この人、超面倒くさい! 病人だからって甘えんなっ!

 と早速、前言撤回しかけた私だった。

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