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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 番外編 ―
53/57

53.ある日社長が風邪を引いたなら(一)

「最近ね。私、ちょっとおかしくなっているの」

「ん? なあに、晴子さん」


 目の前できょとんとこちらを見る早紀子さんに、私はため息を吐いた。

 本日は早紀子さんとカフェだ。店内はBGMがかかっていて人々の話し声も緩和されるから、ゆっくり話をすることができる。


「社長がね、いつもスイーツをくれるんだけど」

「あら、良かったわね」

「うん……。そうなんだけど」


 私は意味もなく、カップにスプーンを入れてクルクルかき回す。


「お口に合わないとか?」


 小首を傾げる早紀子さんに私は首を横に振った。


「ううん。毎回美味しく頂いております」

「じゃあ、何が問題なの?」

「ん……」


 私はスプーンを外し、カップをテーブルに置くと、言葉を選びながら話す。


「あのね。スイーツをもらえる時って、すっごく胸が高ぶるのね」

「ええ、単純ね」

「うん、でもね。でも。……最近、何も無い時でも社長を見ただけで、こう、胸が熱くなるって言うか」

「……え?」


 早紀子さんは目を大きく開き、形の良い眉を上げた。


「わ、私、やっぱりヤバイよね? 私、ハプスブルク家の犬みたいに条件反射しているよね?」

「まあ、それは随分高貴そうな犬だこと。……って何言わせるの! パブロフの犬よ、パブロフ。って、それは――」

「やっぱり私は犬なんだー、私は犬だー、条件反射の犬だー。条件反射の実験されてるー」


 頭を抱えて唸る私に構わず早紀子さんは声を張り上げた。


「店員さーん! 赤飯一つお願いしまーす!」

「……は?」


 私は顔を上げると、手をぴーんと真っ直ぐに挙げている早紀子さんを見る。


「ここカフェだよ? 赤飯はないと思うけど」


 そして店員さんも寄ってきて困った顔をしていますよ、早紀子さん。


「それもそうね。じゃあ、おはぎかあんみつあります?」

「あんみつならございますが……」

「では、それを一つ追加でお願い致します」

「承知致しました」


 店員さんがオーダーを聞いて戻って行く。


「早紀子さん?」

「私のおごりよ!」

「何で?」

「おめでたいなーって思って」

「めでたい……。って何が?」

「やだ。もう。まだ気付いてないの。あなたのそれ、ずばり恋よ!」


 早紀子さんはびしりと私の前に指を突きつけた。

 一瞬目を見開いた後、私はカップに注がれた紅茶に視線を落とし、持ち上げると一口こくりと飲んだ。


「……別に濃くないよ?」


 首を振る私に早紀子さんはがくりと肩を落とす。


「え、何。晴子さんのそれ、滑り覚悟のジョーク? わざと? 本気で天然?」


 ジョークも何も……。


「もうっ。じれったいわね。イライラするったら!」

「ご、ごめんなさい!?」


 何だかお怒りモードだ。とりあえず謝っておく。


「晴子さん、分かってないでしょ! あなたのその社長さんに対する気持ちは『恋』だって言っているの!」

「こい、こい…………恋っ!?」

「そうよ! こ――」

「やっだー。もう、早紀子さんったら冗談がキツイー」

「…………」

「私の上司ですよ? 社長様ですよ? 大財閥の御曹司様ですよ? 無い無いーっ」


 目の前で豪快に手を振る私に早紀子さんはハァとため息を吐いている。


「あのね。晴子さん。恋はね、頭でするものじゃないのよ。ここ、ここでするのよ!」


 早紀子さんは自分の胸を手の平でとんとんと叩く。


「恋というものは落ちるの! ギャップでがくんと落ちるものなの! ジェットコースターと一緒よ。落ちる時、怖いだの楽しいだの、頭で判断してから心臓がどきどきする訳じゃないでしょ。それなの。頭で考えるものじゃないわ。恋は心が感じるの!」


 やばい。何だか妙な恋愛論が始まった。


「そう、恋は脊髄反射なのよ!」


 だから何、そのB級音楽の歌詞みたいなのは……。


「でもね、恋しているのかどうか、考えるのは頭だ――」

「デモもダッテもない! 頭じゃなくて、この心に従いなさい。ここよ、ここ! いいわね!」


 私の言葉を遮って胸を再び激しく叩く早紀子さんに、ただただ圧倒されて頷く私だった。




 本日は日曜日。


「……おかしい。鳴らない」


 私は机に置いた携帯を睨み続ける。

 いつもならそろそろ電話の一つもかかってくるのだが。お相手はもちろん恋人ではない。悲しいことに社長だ。いつも休みに入っても午前中には電話の一つもかかってきて呼び出されるのだけれど、なぜか今日は物音一つしない。


 何? 何の罠? 私が意気揚々遊びに出かけようとした瞬間に奈落へ突き落とす作戦なのか? そんな罠にはまりたくないがために、買い物一つ出られやしないじゃないか。どうしてくれるんだ、せっかくの休み。


 そんな事を考えていると、携帯が鳴り出す。


 キター! ほらね。私を油断させる為の作戦だったのね。やれやれ、危うくぬか喜びさせられるところだったわ。本当に社長ってば悪い男ですね。しかしまあ、いつも通りでほっとした。

 ……ん? いや、なぜそこでほっとするのか。駄目でしょ、この社畜根性。我ながら情けない。


 私が一喜一憂していると、携帯が早く出なさいよと言わんばかりに延々と鳴り続けているので、私は慌てて電話を取る。本当は日曜日なのだから取らなくてもいい権利があるハズですけどね。


「おはようございます、社長」

「晴子様? おはようございます。優華です」

「……え?」


 携帯を耳から離して画面を見ると確かに優華さんの表示。それに会社用の電話ではなくて、私用の電話の方を取っていた。


「晴子様?」


 優華さんの小さな声が聞こえて慌てて耳に当てる。


「ああ、ごめんなさい。優華さん、どうなさったの? 珍しいわね」

「ええ、実は晴子様にお願いがございまして、もう晴子様のお部屋の前に来ているのですけど」

「は、はいぃっ!?」


 部屋の前に来ているですって!? 私は慌てて玄関に駆け寄るとドアを開いた。


「おはようございます、晴子様」


 目の前にそう言ってにこやかに笑う美少女の声は耳に当てていた電話からも流れていた。



「狭い所ですけど、よろしければどうぞ」

「ありがとうございます。朝から突然の訪問、申し訳ございません」

「いいえ。優華さんなら大歓迎よ」


 お茶を用意した私は優華さんの前に差し出す。彼女は居心地が悪そうにきょろきょろ辺りを見回していた。優華さんのお家に比べるまでもなくすごく狭いし、おしゃれ感も高級感もゼロだからなぁ。寮だけでも質のいい調度品でいっぱいだったものね。


「えー、えーっと。社長様方のお写真、また増えました? まるで見張られているみた……で、ではなく。相変わらず、と、とても素敵なお部屋ですわねっ。晴子様そのものを表しているみたいな? 強くて優しくて包み込むようなイメージのお部屋……みたいなそうじゃないような? もごもご」


 優華さん、もごもごって口で言っていますよ……。いいのですよ。部屋中、色んな会社社長の写真でいっぱいですからね。松宮君にお前は熱血刑事かと言われたけれど、あながち間違いではないでしょう。


「でも今日はどうなさったの?」

「ええ、実はご相談が……。と言いますか、お願いがございまして」

「お願い?」

「ええ。あの、お兄様が、兄が今日、風邪で寝込んでおりまして」

「お兄様……しゃ、社長が!?」


 道理で電話が掛かってこないはずだ。あ。そう言えば、何でもない振りをしていたけど、一昨日少し具合が悪そうだったかもしれない。もっと気遣うべきだった……。


「はい。それで兄から人を寄越してほしいと頼まれたのですが、あいにくと執事、メイド、料理長方々、今日は全て出払っておりまして。わたくしが行けばいいのですが、兄にはお前じゃ役に立たないから、だったら来なくていいなどと言われてしまいました」

「それは優華さんに風邪を移したくないからでしょう」


 ああ見えて、優華さんには弱いから。


「そうかもしれません。ただ、兄は一人暮らし歴も長いですし、自分の身の回りのことは何でも一人でできます。ですから人を寄越して欲しいなどと言ったことはなかったのですが、今日は多分身体が余程辛いのだと思います。今朝、かかりつけの先生に診て頂いて、ただの風邪だから心配はないと言われたそうなのですが、やはり兄一人ですと心配で。だから……」

「私に行ってほしいと言う事ね」

「……ええ。こんな事をお願いできるのは晴子様だけなのです」


 本当にすみませんと優華さんは頭を下げる。


「いいのよ。優華さんたってのお願いだものね」

「それじゃあ!」


 優華さんは顔をぱっと明るくする。私は頷いた。


「ええ。お伺いします」

「ありがとうございますっ! 晴子様ならきっとそう言って下さると思っておりました! 兄も喜びますわ」


 キラキラ嬉しそうに瞳を輝かせる優華さん。口では何だかんだ言いながら兄である社長の事が心配なんだな。やっぱり優しい子だわ。まあ、私なぞが行ったところで、社長が喜ぶかどうかはさておきだが。


「それより社長はいつも私の休みを平気で奪うのに、どうして今日みたいな日こそ電話を掛けていらっしゃらないのかしら。ずっと待っていたのに」

「……え?」


 優華さんは少し目を見開いた。ん? 何か変な事を言っただろうか。


「いえ。とにかくね、任せて下さい」

「本当にありがとうございます。一応、食材や飲み物、体温計、冷却シートや薬などは一通り用意しましたが、もし他に何かご入り用の物がありましたら、後で請求して頂ければ」

「いえいえ、大丈夫よ、ありがとう」

「それでは兄の家までお送り致します」


 優華さんは立ち上がる。


「え? 車で? でもここから近いし、歩いてでも……」

「車の中に備品をご用意しておりますので。さあ、参りましょうか」


 彼女はにっこり笑って私を促した。



 車の中にて尋ねる。


「そう言えば今日、悠貴さんはどうなさったの?」

「本日は家の用事で出ております。これからの事で忙しくなさっているんですの」

「そう」


 悠貴さんは長男だし、優華さんと結婚して瀬野家に入らず、政治家の道を進むのかな。瀬野家にはまだ現役ばりばりの優華さんのお父様がいらっしゃるし、その息子の社長という跡取りもいるものね。婿入りしなくても問題はないだろう。


「夕方には戻って参りますので、その後一緒に兄のお見舞いに訪れようかと考えておりますの。その頃にはメイドさん方も戻っているかと思いますので」

「そうなのね。分かったわ」


 じゃあ、私はそれと入れ代わりにって事ね。


「それにしても屋敷の人間が全て出払っているという事の方が大変そうね。もしかして何かの行事?」


 全ての人員が駆り出されているってどんな状況なのか分かりかねるが、むしろ瀬野家の方が大変そうだ。うーん。だけど全て出払ってお家の方まで手に回らない状況とか、そういう事ってあり得るの?

 私は疑い深そうな瞳をしていたのだろうか、優華さんは焦ったような表情を浮かべて言った。


「えっ!? い、いえ! そ、それは大丈夫ですのことですわっ。お、お気遣いありがとうございます」


 うーむ。なぜか動揺して言葉が変な優華さんに少し眉を寄せて見つめていると。


「到着致しました」


 運転手さんから声がかかったので窓から覗き込むと大きな高級マンションの正面入り口に着いていた。うちから歩いて五分だから車に乗るのもおこがましいのだけど。と言うか、むしろ車だと遠回りになっていますけど。

 そして車を降りると、運転手さんが後ろのトランクからキャリーバッグを取り出してきた。何だか大層だなぁ。


「えーっと、これは何?」

「こちらが兄の物もろもろで、こちらが晴子様の物です」


 優華さんがキャリーバッグを開放して見えたのは二つの包み。下にある藍色の大きな包みが社長の物、上に乗っている朱の色の包みが私の物らしい。何だろう、この微妙なペアルック感は。


「え? 私の?」

「ええ、晴子様のお食事ですの。昼食をご用意しておりますわ。軽食で申し訳ないのですが」

「いえ、それはいいんだけど。あ、いえ、ありがたいのだけど」


 初めから私の食事が用意されているというのはどういうことでしょうか。ははっ、私に行かせる気満々でしたね、優華さん。なかなかの強かさですね……。いや、いいんですよ。

 そう考えていると、優華さんが私の両手を取って包み込んだ。


「晴子様、お願い致しますね。実は兄、心のこもった手作りのおかゆが大好きなのです。兄が幼き頃は、それはもうわたくしたち兄妹が一生懸命作ったおかゆを涙浮かべて食べて頂けたのですよ」


 へぇ、社長が? 感動で涙を浮かべて? ……ごめんなさい、今の社長からはまったく想像がつかないわ。


「ですので、できましたらおかゆを作っては頂けませんでしょうかっ!」

「い、いいですけど」


 何でそんな迫力なんですか。しかしおかゆが好きだなんて、社長、なかなか可愛いところがあるわね。


「ありがとうございます。それではわたくしはここで失礼させて頂きますわね」

「え? 今は社長のお顔を見て行かないの?」

「い、いえ。じ、実はわたくし、病弱ですの。ですから病原ウイルスが活性化している時には少し遠慮したく……」

「へっ……」


 あれ、そうだったっけ。私が優華さんだった時はそんな風に感じた事がなかったけど。食べ慣れていないだろうハンバーガーを食べても大丈夫だったし。でも中身が違うとやはり体調も変わるものかしら。と言うか、病原ウイルス活性時って、私だったら大丈夫なんかーいっ!


 ……まあ、いいや。社長だって風邪の自分に優華さんを近づかせたくなかった訳だし、そもそも自分が弱っている所を妹に見られるのも嫌かもしれない。


「分かりました。じゃあ、行って来ます」

「ありがとうございます。お願い致します!」


 そして私は優華さんに手を振ると、エントランスへと足を踏み入れた。

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