52.スイーツの力は偉大です
「まあ、とにかくお疲れー、づかちゃん」
「うん、ありがとう」
現在、黒田君と私は休憩室でお茶をしている。
オフィス内の休憩所は広いスペースが取られており、明るい空間の下、お洒落なテーブルと椅子が設置されている。またソファーもいくつか設置されていて、そこはやはり一番人気である。窓際に設置されていて、窓から町並みを見下ろせるのも人気の一つだ。下の方の階は手入れされた庭が見渡せるため、また違った景色を味わえるらしい。
お弁当を持ってきている人はこの休憩室でお昼を取ったり、自動販売機などもあるのでお茶を飲んだり、休憩だけ取ったりする人もいる。
私が連れてくるまで黒田君はこの休憩室に入った事はなかったらしく、きょろきょろと物珍しく見ていた。また女性社員は、社内でもほとんどこもりっきりで姿を見せない黒田君が現れたことで色めき立ったものだ。そう言えば、彼はアンニュイタイプの美形君でした。
今日はソファーをゲットできて、ラッキーだ。――まあ、定時の勤務時間が終わり、人っ子一人いないからゲットできたんですけどね。私ですか? これからまだまだ残業ですよ……。束の間の休憩です。
「何か色々あったね」
「ホント、あったねー」
私はこれまでの事を振り返って、大きくため息を吐いた。秘書一年目も環境と仕事に慣れるのが大変だったが、秘書二年目は違う意味で大変だった。
「はぁ。結局、私は社長の手の平でコロコロ転がされていただけだったのね……」
頭ではもう納得しているつもりだけど、やっぱり少しくらいは胸のつかえがある。
「結果だけ見ればそう見えるかもしれないけど、実際は全てを計算してやった事ではないと思うよ」
「と言うと?」
「社長はづかちゃんが想像しているほど余裕はなかっただろうって事」
まあ全然その素振りを見せないけどねと黒田君は肩をすくめた。
「そうなの?」
「多分ね。何せ、づかちゃんの事だしさ」
「どゆこと?」
「……それは俺の口から言う事ではないかな。それにさ、他の所ではづかちゃんが社長を振り回しているんだから差し引きゼロでしょ」
「は? 何それ? 記憶にございませんが?」
「づかちゃんの場合、本気で言っているから質が悪いよね」
社長、お気の毒にと黒田君はため息を吐いた。
私の方が振り回されていて、お気の毒よと声を大にして言いたい。
「あ。話を変えるけど、黒田君に聞きたい事があるの」
「ん、何?」
私のすぐ横に座る彼はいちごミルクの紙パックに差されたストローから顔を上げると、こちらに視線をやった。
いちごミルクが好きだなんて意外と可愛い所があるなぁ。いや、意外とじゃなくても可愛い所はあるが。
「実は菅原室長にね、言われたの。私、社長秘書として相応しいかどうか、監視されていたんだって……」
私はため息を吐きながらそう言った。
「へぇ。あの人ならやりそうだね。それで?」
あまり興味なさそうに彼はそう応える。
「黒田君、まさかと思うけど、あなたも私を監視していたって事……ないよね?」
「は?」
今度は目を見開いて私を見た。
「そもそもづかちゃんから俺に接触してきたじゃん」
「まあ、そうなんだけど。ほら、菅原室長とアイコンタクトしていた時、あったでしょう。だから何か事情を知っていたのかと思って」
「ああ。あれか」
ええ、自覚しております。わたくし、ただいま絶賛人間不信中ですよっ!
「俺が社長室にパソコンの不調で呼ばれる時は盗聴器捜査の時だからね。あの人はそれを普段から知っているから。まあ、隠語みたいなものかな」
「……そうだったんだ。あ、でもパソコンの不具合とかは? 黒田君、何となく察していたみたいだったよね?」
「ああ、そうだね。確かにそれは思った。づかちゃんの周りに不審者がいるようだという事はね」
「じゃ、じゃあ、私のペンに仕掛けられていた盗聴器の件は知っていた? 社長に何か言われなかった?」
社長は言った。室内に無いなら私が身に付けている物だろうと。黒田君だって気付いたはずだ。
そう言うと黒田君は素直に頷いた。
「それに関してはごめん。ただ社長からは口止めされていた。でもそれはづかちゃんを監視するという意味ではなかったよ。不審者をあぶり出すためだと言われていたから」
「そっか」
「そー。俺まで疑うなんて酷いな、づかちゃん」
「ごめんなさい……」
素直に謝ると、黒田君は苦笑した。
「いいよ。今回はづかちゃんも色々あった訳だし。まあ、俺はづかちゃんを裏切らないからこれからも信じて良いよ」
彼は片目を伏せて冗談っぽく笑うので、私は大きく頷いた。
「うん、分かった」
「うわぁ。素直だなー。これ、俺じゃなくても心配になるわ。やっぱりづかちゃん、もうちょっと人を疑ってかかっていいよ」
「心配しなくていいよ。私だって、人間だもん。今回、疑心暗鬼になる事なんていっぱいあったもの」
再びため息を吐くと、黒田君は私の頭に手を載せてよしよしと撫でる。
「大変だったねぇ」
「ありがと……。でも途中でもふもふ君に出会えたから、ちょっと癒やされた」
「もふもふ君? 犬?」
「違う違う。松宮君っていう子。ほら、あなたが監視カメラで盗撮していたっていう時の」
そう言うと彼は目を丸くした。
「すっごく語弊のある言い方、止めてくれる? びっくりしたよ、今」
「あはは、ごめんごめん」
「で、その彼が何?」
黒田君は面白くなさそうに言った。
「うん、松宮君ってね、真面目で正義感があって、行動力もある心が綺麗な子なんだ。社会に出たら黒い部分に触れる機会が出てくるかもしれないけれど、彼には社会に出ても変わらずにいてほしいなと思って」
「……へぇ。俺は?」
「ん?」
「俺じゃ、癒やされない?」
不満そうな表情に慌てて言いつのる。
「そ、そんな事、ないよ!? 黒田君も癒やされる。色々助けてもらったし」
「俺のどこが?」
「へ? ど、どこ?」
何その、私のドコが好きなの的な質問は。
「えっとえっと。か、顔かな」
「は?」
鷹見社長とは反対の男らしさを感じない中性的な感じが今の私には心が休まる、などと言ったらやっぱり失礼だろうな。婉曲させて言ってみよう。
「ス、スイーツ好きの私としては、その甘い顔立ちで癒やされるよ、うん」
黒田君は一瞬黙り込んだ。
しまった、地雷踏んだ! 普通、顔の事とか言われるの、嫌だよね。そう思ったけれど、彼はすぐに悪戯っぽく笑った。
「へえ? づかちゃん、俺の顔、好きなんだ?」
「え?」
「じゃあ、遠慮なくどうぞ」
そう言うと黒田君は身体を寄せて、そのお綺麗な顔をずず、ずいと近づけて来た。
「ちょちょっ、ちょっ。か、顔、顔近づけないで!」
慌てて胸を押し返す。
「好きなんでしょ?」
「う、うん、好きだよ。間違いなくイケメン様ですよ。否定しません」
そう言うと黒田君は身体を起こし、つまらなさそうにあっそと言ってそっぽを向いた。
「ご、ごめん。気に触った? 顔立ちのこと言われるの、嫌だったよね」
「まあ、気に触ったけど、それはづかちゃんの態度だからね」
「態度?」
「あっさり好きって言ったじゃん」
じっくり言えば良かったのだろうか。じっくりか……。
「うーん。黒田君の顔がぁー、好きだよぉー」
こぶしを入れて言ってみたら、黒田君はがくりと肩を落とした。
「何それ」
違ったらしい。とにかく話を少し変えよう。
「ま、まあ、それはともかくさ、ほらっ。黒田君って親族に外国人でもいるの?」
「え?」
「日本人と外国人の子供って、こう、甘い顔立ちになるでしょ。黒田君、そんな感じだから」
「ああ、うん、まあね。俺の祖父がイギリス人なんだ」
黒田君は全く興味なさげに、ストローに口を付ける。
「そうなんだね。あ。イギリス人って、もしやお祖父様、諜報員だったとか?」
「へえ。そうか。日本人のづかちゃんの祖先は忍者だったんだ?」
面倒くさそうにしらっと言われて素直に謝る。
「……ごめんなさいです。あ、で、でもさ。お祖父様もイケメンなんだろうねー」
「まあね。若い頃、もてたらしいよ」
「そうなんだ。黒田君ももてるよね」
「まあね。もてるね」
あれ、何だろ。当然という言い方が、む・か・つ・くーっ!
私は顔で笑みを作って、手で拳を作った。
「ああ、そういえば、俺も言いたい事があったんだ。づかちゃんが熱を出した時の事で」
「あ、うん、その節は本当にお世話になったわ。ありがとう。今度一緒に夕食でも行こうね。お礼するね」
「二人で?」
「うん」
「じゃあ、いいや」
「酷っ。せめてもう少し遠回しな言い方で断ってよ……」
傷ついたわー。胸を押さえて見せた。
「ああ、違う違う。食事は行くよ! 言いたい事があったけど止めるって意味」
「あ、何だ。でも言いたい事って何? 気になるわ。言ってよ。黒田君と私の仲でしょ」
黒田君はどんな仲なんだかとため息を吐きながら続けた。
「聞いたら後悔すると思うけどいいの?」
「何それ?」
何だか怖いな……。ホラー話は嫌ですよ。夜眠れなくなってしまう。
「だから聞いたら後悔する話」
「それって、知っておいた方がいい話?」
「知らない方がいい場合もある」
「じゃあ、止めてお――」
「でも無知は時に人を傷つける」
「えぇっ!?」
そんなに重要なもの? だったら聞くわよ、聞きますよ。女は度胸だ。
「じゃあ、聞くわよ。言ってみて」
「うん。ただ後悔しても知らないからね。自己責任と言うことで」
「どっちなのよぉぉ」
「じゃあ、言うけどあのね――」
もうじれったかったのか、黒田君は構わず話し出そうとする。
「待って待って! 心の準備」
私は大きく深呼吸した後、息を整えた。
「はい、どうぞ」
「うん。づかちゃんが熱を出した時さ、社長の主治医さんに来てもらったんだよね」
私は頷く。病院に行った記憶は無かったし、おそらくそうなんだろうなと思っていた。社長の気配も感じたし。――あ、あれ? もしかして。
「お、奥の部屋に入った?」
実家に帰る前だったし、黒田君が来ることになっていたから、一応綺麗にはしておいたけど。でも自分の意識が無い時に人に入られるのはちょっと恥ずかしかったなぁ。洗濯物を部屋干ししていたし。……あっ!? そ、そうだ、部屋干ししていたぁーっ!
そんな思惑を読まれたのか、黒田君は手を振った。
「あ、大丈夫。部屋干ししている洗濯物なんて見ていない」
しっかり見てるじゃんかー! ――はっ。という事は社長も!? うわぁぁっ。やっぱり聞きたくなかったー。
上気する頬を手で押さえるが、黒田君は全然興味なさそうに手を横に振って見せた。
「気にしない気にしない。俺、従姉妹いるし」
「何のフォローにもなってなーい!」
「ああ、そっか。じゃあ、もう一つフォロー」
果てしなく嫌な予感がするのはなぜか。
「社長も妹さんがいるんだし?」
ぎゃあぁぁ! 余計に質悪いーっ!
耳を塞いで顔を伏せた。
「はっ、そうか。前の仕返しなのか。そうなんだ、前の仕返しなのね!?」
顔を上げると、楽しそうに笑う黒田君を睨みつける。
「あはは、冗談冗談。づかちゃん、熱出して倒れているのに、そんなの気にしている状況じゃなかったって」
「そ、そうだよね」
しかし、そんなのと言われると、また何だか虚しくなる女心の不思議。
「うん。あ、社長は知らないけどね」
「社長もそうに決まっています!」
「何なら社長に聞いてみたら?」
絶対に聞くものですかっ! 自意識過剰みたいじゃないですか。と言うか、絶対に冷笑されるわ!
「で? それで終わりなのね?」
「これからこれから」
「まだあるのー」
思わず情けない声が出てしまう。
「先生が言うには、ただの風邪だから安静にしていれば大丈夫との事で、づかちゃん、実家に帰る予定だったし、家まで送る事になったんだ」
「ああ、うん」
「ところで少し遡るんだけど、づかちゃんが倒れて社長を呼んだ時、気付いていたよね?」
「んー? あの時は夢うつつって感じかな」
私は首を傾げた。
「あっそ。でも俺が支えていたのにづかちゃんは社長が現れた途端、社長に腕を伸ばして抱きついたんだよね。ちょっとむかついた」
「へっ!? そ、そんなの知らないよ!」
熱が出てぼんやりしていたから、本当に無意識だったんだもの。
「抱きついたの!」
「そ、そうですか、すみません」
とりあえず謝ってしまう。
「おまけにべったり離れなくてさ」
「う、嘘でしょ?」
私が社長に? べったりと? ち、血の気が引いてきた。
「本当だよ。だから社長がづかちゃんを実家に送って行こうと思っていたけど離れないから運転できなくて、社長の実家から車呼んで行ったんだ」
「う、嘘だよね」
「いや、本当」
「ねえ、嘘だよね」
「いや、本当」
うわぁぁぁーっ。頭を抱える。
「づかちゃんの実家に着いてからもさ、お父さんが受け取ろうとしたのに全く離れようとしないから、社長がづかちゃんの部屋まで運んだんだよ。いやー、お父さんの絶望顔が気の毒でさ。づかちゃんをベッドに寝かせてからも、づかちゃん、社長に行かないでーとか言って首に抱きついちゃって。社長の困惑顔が見物だったよ。社長ってああいう顔もするんだね。俺、笑いをこらえるの、必死だったよ」
危うく窒息するところだったと黒田君は続けた。
ぎゃあぁぁぁーっ。聞きたくなーいっ。耳を押さえる。
「ね、ねえ、お願い。お願いします」
涙目で黒田君に懇願する。
「何?」
「お願いだから、嘘だと言って!」
「あ、無理。本当だから」
「お願いだから、嘘だと言って!」
「無理無理。本当だから」
「嘘でもいいから嘘だと言って!」
「づかちゃん、嘘はこりごりでしょ?」
真実だって時に人を傷つけるって前に言ったじゃない!
「酷い。何でそんな事言うのよ!」
「づかちゃんが聞きたいって言うから」
「うわぁぁぁ」
聞きたくなかった。忘れたい。記憶から消し去りたい。完膚無きまでに消去したい。……そうだ消去、行こう。そうだそうだ。
私はソファーから立ち上がる。
「づかちゃん? どうしたの?」
「ちょっとそこまで記憶喪失になって来る」
「は?」
「ちょっとそこの階段から落ちてくる。二度あることは三度ある。後、一回くらい記憶喪失になれるはずさー、ふふふふ」
「づかちゃん、壊れた!?」
「じゃあね。次は生まれ変わった私で会おう」
「何そのちょっと格好いいセリフ。じゃなくてー。ちょ、ちょっと待って。早まるなー!」
焦った様子の黒田君が私の腕を掴む。
「ええい、離せ離せ。女には負け戦だと分かっていても戦わないといけない時があるのよ!」
「全く意味分からないし! とりあえず落ち着けーっ!」
と、その時。休憩室の扉がかちゃりと開けられた。
「木津川君、ここに――何をしている?」
社長の冷たい声と鋭い瞳で見咎められ、肝が冷えてはっと我に返る。
「あ、社長、良い所に! 止めて下さい! づかちゃん、そこの階段から落ちて記憶喪失になるって言って聞かないんですよ」
「……は?」
今度は呆れたように見つめてくる。そしてため息を吐いた。
「仕事だ。馬鹿な事を言ってないで戻るぞ」
「…………はい」
「あ、づかちゃん。良かった。元に戻った? 社長、さすが猛獣使い!」
「誰が猛獣よ!」
「誰が猛獣使いだ……」
社長と共に抗議するも、黒田君は我関せず。
「じゃあ、そういう事で。後はよろしくお願いしますね。俺はこれで」
え、行っちゃうの!? 二人きりにしないでーという視線の訴えをあっさり却下され、づかちゃんのお守りは大変だと呟いて黒田君は去って行った。
き、気まずいよう……。
「……それで何だ? 忘れたい程、何か悩みでもあるのか?」
「うっ」
「いいから言ってみろ」
いつもより優しい声音だからと言って、あなたの事ですよとは言えません。でもあの後、社長はそんな事を気づかせる態度すらなかった所を見ると、社長にとって大した問題ではなかったのだろう。病人がする事だし。うん、そうだ、そうに違いない。そうに決めた。よし、立ち直ったぞ。――だから。
「今回は色々失態を見せてしまいまして、恥じていた所です」
と言うことまでにとどめておこう。
「ああ……」
社長はため息を吐いた。
「俺も今回は感情で動きすぎた。お互い様だ」
「え? 感情で動いていたのですか?」
冷静に動いていたように思ったけれど。
「我ながら柄じゃないぐらいにな。……それより、なぜそんなに離れている」
社長は三歩分くらい離れている私に気がついたようだ。
「え、いやー、えー。……こ、心の距離?」
首を傾げて答えると、社長の眉がぴくりと上がった。
何だか不機嫌そうだ。はい、地雷踏みました……。
社長はこちらを睨みつけて、いや、もしかしたら普通に見ているだけかもしれないが、少しして一つ息を吐いた。
「残念だ。せっかくこの後、甘い物を用意し――」
「ええ、鬼退治にでもお供しましょう」
しゅんと音を立てて、社長の元へと瞬間移動した。
社長はそんな私を見て、苦笑いする。
「いつの時代もスイーツの力は偉大だな」
「社長にもようやくお分かりになりましたか! そうなんです。スイーツの力は偉大なんです。スイーツ万歳!」
目をキラキラさせて声高らかに宣言する私に対して、社長はため息を落として呟いた。
「地獄までついてくると決めたのは、きび団子のせいじゃないだろうな……」
と。
(終)




