51.かしこまりました、社長様
「……逃げたか」
扉の向こうに消えた菅原室長の姿を目で追って、ぼそりと呟く社長。そんな社長を見て一つ息を吐き、私もまた社長室を出ようと歩き出した。
「待て」
社長に腕を掴まれて引き留められる。振り返ると珍しく余裕のない社長の顔。いくらでも代えのきくこんな社長秘書に必死になることないのに。
「どうしたら許してくれる」
「許しません」
そう答えると社長は明らかに表情を凍り付かせた。
これまた珍しいものを見た。私でも社長を凍り付かせる事ができるのね。何だかおかしくなって頬が緩んでしまいそうになる自分を叱咤して顔を引き締める。
「社長は会社のトップの立場として、私に許されなきゃいけない事をしたと思っているのですか? もしそうなら私は社長を絶対に許しません」
私は続けて問う。
「社長はそうすべきだと思われたから、そうされたのではないのですか?」
よく考えてみれば社長として当たり前の事をしただけだ。社長室には秘書室と同様、監視カメラの類いはないし、私は社長が会議などで不在の時にでも社長室に入る事ができる唯一の人間だ。おまけに鷹見社長とも接触していた。私が明確なシロとは証明されず、他の社員がシロだったと調査結果が出た以上、一番黒に近いのは私だったのだから。
たくさんの社員を抱えるトップの人間として当然の処置だった。感情論だけで私をシロとするのは一経営者として許される事ではなかったはずだと今ならそう思える。そして社長秘書が信頼に値する人間かどうかを調査する事も。
「ああ、そうだ」
「だったら堂々となさって下さい。自分は間違っていないといつものように胸を張っていればいいんです。まあ……先ほどは色々ありすぎて爆発したと言いますか、さすがに私も取り乱しすぎましたが」
でも、おかげで頭が冷えました。
「しかし、それでも個人的にはそういう訳にはいかない」
苦虫を噛み潰したような表情をする社長に小首を傾げてみる。
「今は仕事中ですよ?」
「仕事中の君もプライベートの君も同じ人間で、心は一つだ。違うか?」
「……そうですね。だからこそ私も悔しいけど、憎めないんです」
先ほどの社長の謝罪の言葉は決してその場凌ぎの嘘ではなかった。
「会社の長としての立場と社長個人としての気持ちとが同時に一つの心に存在すると気付いてしまったから。悔しいけど分かってしまったから……。それに――」
盗聴器騒ぎの夜、私が眠るまでずっとメールの相手をしてくれましたよね。分かりますよ。たとえ相手の名前が黒田君と表示されていたとしても、口調が硬いんだもの。分からないはずはない。
けれどそれは言わないでおこう。社長は私を信じているから心配するなとか、何があっても社長を信じて待て、あと少しだから頑張れなんて熱い言葉、自分で言うのには多大な罪悪感と精神力を費やしただろうから。
「それに熱で倒れた私を先生に診せて下さった上に、実家に連れて帰って下さいましたよね」
「……聞いたのか」
社長は悪戯が失敗したような気まずそうな表情を浮かべた。
「いいえ。家族は何も」
口が軽い母も今回ばかりはぎゅっと口を閉じていた。母もやればできるね。
「でも分かりますよ。だって私が社長の手を間違えるはずないじゃありませんか」
たとえ熱に浮かされた夢うつつの中でも、ずっと握ってくれていた社長の手を間違えるはずがない。私が恐怖で身体が竦みそうになった辞職話で言葉が詰まったあの時も、社長は励ますように手を握っていてくれた。
これまで何度となくあった私が辛い時に、口数は少なくても気遣いを直接心に伝えてくれる社長の温かい手を間違えるはずがないのだ。
他にもね、社長の香りに包まれて、とても安心した事を覚えているんですよ。でもこれは言ってやんない。社長にとっては鉛の塊を抱えて運んでいるようなものだったんだろうし?
「だから完全に許した訳じゃないけれど、水に流します。こう見えても私はいい社会人ですからね。水に流す事にします」
そして社長に笑みを向けた。
「でもその代わり、社長も私がした失態は水に流して下さいね」
ちろっと悪戯っぽく舌を出すと社長は少しほっとした表情を浮かべ、そして微笑した。
「ありがとう、木津川君」
……これだから男前の笑顔はずるいと言うのよ。でもこれだけは言っておかなくちゃ。
「ただし、次はありませんよ! 協力はしますけど、利用は絶対に許しませんからね!」
「ああ。俺もこんな事、もうごめんだ。俺がした事がかえって裏目に出て、君にあんな真似をさせ――」
「社長」
社長の言葉を遮る。
「私は秘書です。社長の秘書です。そうですよね」
「……ああ」
「秘書が社長補佐の仕事をするのは当然の事です。そして指示された訳でも、まして強制された訳でもありません。私は私の判断で動いたんです」
伊藤さんが自分なりの正義を貫いたように私は私の正義を貫いた。だから私も後悔はしていない。……もちろんそう言い切るのはまだまだ難しい。けれど社長が私に罪悪感を抱く事などなくて。
守るというのはつまずかないよう小石一つ、段差一つない綺麗な道を歩かせる事じゃない。つまずいた時、転んだ時、側にいて手を差し伸べる事だ。私にとって『守る』というのはきっとそういう事。
私は社長と同じ道を歩むと決めたから。そして私もまた社長を守ると誓ったから。だから共に同じ道を歩かせて欲しい。
「だって私は社長の秘書ですから」
そう笑ってみせると社長は一瞬だけ苦い表情を見せた。けれどすぐに、そうだったなと笑った。
「はい!」
私は元気よく返事する。そして疑問を口にしてみた。
「そう言えば。社長は早い段階とおっしゃっていましたが、いつから彼女の事を疑っていたんですか?」
「先ほど室長が言ったように、彼女が一年を待たずして配属された時だ」
「彼女は最初からスパイとして入り込んでいたのですか?」
「そのようだな。頭の痛い話だが、毎年何人かはスパイとして入り込む事がある。その中で今回は彼女が適任とされたんだろう」
うわー、マジですか。普通の営業ウーマンとして働いていた頃には考えもしなかった事だわ。自分の周りにもいたのだろうかと思うと薄ら寒くなる。
「え、あ、適任とは?」
「俺としては伊藤君と島崎君はさほど似ているとは思わなかったが、君の目にはそう映ったところを見ると、何かしら彷彿させるような女性を秘書に選んだんだろうな」
君が島崎君の名前を呟いた事で、どこか引っかかりを覚えたと社長は言った。
仮に私が彼女の正体に気付いても、過去の罪悪感から彼女を見捨てないだろうと踏んだのだろうか。そして鷹見社長は、これはゲームで会社の利益は副産物だと言ったが、最初からスパイを入れていたのを見ると、結局は利益優先だったのだろうか。あるいは私と出会った事で本格的にゲームに切り換えたのか。
真相は鷹見社長のみぞ知る。
「それにしても少しはその意図を私に伝えておいて下されば良かったじゃないですか。いくら私が顔に出やすいと言っても」
「俺としては暗に伝えておいたつもりだった」
「……え?」
再び社長に向き直る。いつだっけ? 覚えがない。
社長は私の表情を読んでその答えを出してくれる。
「彼女がお茶を持って来た時に、わざとひっくり返しただろう」
あ。ああ、そんな事あったね。衝撃的だった。自分もいつかこんな風に捨てられるのでないかと血の気が引いた出来事だった。……え? あれですか?
「あれは彼女を信用していないという意味だ」
あ! そっちの意味だったの? あのねぇ。あうんの呼吸の仲でも、指示語だけで通じる熟年夫婦でもないんだから、そんな伏線分かるはずないよっ!
そう思う反面、この口数が少なく、感情表現に乏しい社長にそんな事を求めても仕方がないのかと思う。でもやっぱり社長にそう言う事にした。
「そうか。確かにな。分かった。君の言う通りだ。これから俺も行動する事にしよう」
なぜか艶やかな笑みを浮かべているように見える社長にどきりとする。一瞬言葉に詰まったが、言質を確実に取ろうと再度念を押した。
「ほ、本当ですね? 口に出した以上、有言実行なさって下さいね」
「ああ、いいだろう。その代わり、君も覚悟しろよ」
覚悟? また覚悟? でもいいわよ。私も社長の言動を理解できるようになればいいんでしょ。分かるようになってやりますよ。
「当然です!」
私が強く頷くと、社長は口角を上げた。
あ、あれ? 何だか急に嫌な予感が襲ってきましたよ。もしかして言質を取ったつもりで、実は取られてしまったのは……私の方?
「それより」
「え?」
「俺は鷹見社長に不用意に近付くなと言ったはずだが、なぜそうしなかった」
「あ……」
「あの写真を送りつけられてきて、俺がどんな気持ちだったか分かるか」
私を疑うべきかどうか、社長の中でも葛藤があったのかもしれない。もし私が反対の立場だったならば、社長を信じ切る事ができなかっただろう。けれど社長はあの写真を見ながらも、最終的には私を信じてくれた。
「も、申し訳ございません」
私を信じてくれた社長に報いたい。心の底からそう思う。
「それに……」
社長は一息吐いた。
「伊藤君に聞かせる為だと分かっていても、君の口から辞職の言葉が出た時は辛かった」
「社長……」
どうして社長は私を信じてくれたのだろう。そして。
「どうして私を社長秘書にしてくれたのですか」
異動の話が出た時、社長秘書しか融通をつけられなかったと言っていたけれど、なぜ経験もない私を社長秘書職に就けてくれたのだろう。ずっと聞きたかった。
真っ直ぐに見つめる私に社長は少し視線を逸らした。
「君の事は就職活動の面接時から知っていた」
「え? でもその時……」
面接の時、社長はいなかった気がする。一際放つオーラだから、もしその場に居合わせていたら絶対に気付くはずだ。――あ、でもそうか。
「そう言えば新入社員採用の面接時は別部屋でチェックしていますね」
門内さんに面接の場には立つなと言われていたそうだ。威圧感がありすぎるからと。確かに面接官の一人として席に着いていたら、ほとんどの学生たちは竦み上がって一言も話せないだろうなと思う。
「一目見た時から面白い人材だとは思った」
社長はそう言った。
けれど情熱を持って入った新入社員も二、三年もすればその熱が冷める事は経験上理解しているつもりではあったと言う。どちらにしろ、一年目の社員では秘書課に入れる事はできなかった訳だが。そしてそれから三年ほど経ったある日、支社に出向いた社長は私を見かけたらしい。
「君は初めて見た就活時と全く変わりがなかった」
社長はその時、私の何を見たのか、そう言うと小さく笑う。
……ええっと。ちなみにそれは情熱が衰える事はなかったという褒め言葉と取ってよろしいのですよね。間違っても精神的に何ら成長していなかったという意味ではございませんよね。社長の言葉を良い方に取らせて頂きますよ?
「そこで今川課長に木津川君を秘書課に欲しいと言ったら、君でも真顔で冗談を言うんだなと笑われて断られた」
い、今川課長、強い……。それにそんな話、一言も聞いた事はございませんでしたよ。
「それから時折、今川課長から自慢げに君の事を聞かされていた」
今川課長、それは一体どういう事でしょうか?
期待で瞳を煌めかせる私の疑問に社長は答えてくれる。
「見ていて楽しい社員だと」
今川課長、それは一体どういう意味でしょうか……。
微妙な表情を浮かべる私を今度は軽く無視して、社長は続ける。
「その後、今川課長が定年退職時に、自分がいなくなっても木津川君がいるから安心して退職できるとまた遠回しに釘を刺された」
今川課長、どれだけ私を営業部に置きたかったのですか。……それにしても社長がそんな前から私の事をご存知だったなんて。
「怖っ! 社長様って、私のストーカーだったんですか!」
「人聞きの悪いことを言うな。今の話をどう組み立てたらそうなる」
冗談ですよと口を尖らせたら、社長は苦笑した。
「そして昨年、支社でのトラブルと事故で直接君と関わり合いを持つ事になった」
今川課長は秘書課へと手放さなかった事を後悔されていたと言う。課長は課長なりに私の適性を考えていて下さったのだろう。とても責める気にはなれない。
「あ、でもそれなら一般秘書からでも……」
「そのつもりだったんだが」
社長はため息を吐いた。
丁度その頃、ご当主様が門内さんを寄越せと言って来たそうだ。そこで菅原室長に繰り上げしてもらい、私を一般秘書に入れるつもりだったが、室長は柄じゃないからと一蹴したと言う。そこで私を秘書に据える事になったらしい。
ご当主様からは早くしろと突かれ、部下からは嫌ですと拒否され、社長の地位でも中間管理職の痛みを知る事があるのね……。
「それにしても素人を社長秘書にというのは冒険し過ぎたのではないですか?」
「経営者としてはそうかもしれないな。だが、君ならやり遂げてくれるだろうと思った」
「っ!」
社長の信頼を失うのが恐いと門内さんに相談した時、社長も私と同じ気持ちだからと言って下さった。……本当に社長はずっと見てきて下さっていたんだ。胸が熱くなる。
「ところで……。君も鷹見社長は怪しいと踏んだから今回の罠を施したんだろうが、もし純粋に彼が君を引き抜きたいと考えていたとしたら、どうしていた?」
「いえ。ないですね。ありえません」
「それは鷹見社長だからか? 相手がもっと誠実な人間であれば受けたのか?」
「え? それは」
そもそも休みの日に瀬野社長の声を聞かないと落ち着かない私が社長から離れられるわけがな――なんて私は全く思ってませーん。ぜ、全然です、はい。
心臓に集まったはずの熱が今度は急速に頬に集まって来た。
「な、ないですね。ありえません」
「何だ。どういう態度だ、それは」
「え!?」
口ごもる私に社長は冷たい視線を送って来て怯んだ。
けれど……そうだ。言葉に出さない事で誤解されたり、疑われたりする事はもうごめんだ。もう同じ間違いは犯したくない。
私は大きく深呼吸した。そして社長を真っ直ぐに見つめる。
「私がお仕えしたい社長は……瀬野社長だけですから」
「…………」
うーっ。言ったぞ。目茶苦茶頑張った私、超偉い! けれどまじまじと見つめる社長に、顔がさらに赤くなってくるのが分かる。私がのぼせて倒れる前に何か言ってよ!
「そうか」
「……はい」
たったのそれだけなのかと拗ねていると、社長はいつもの口角を上げるだけの笑みではなくてどこか熱っぽく微笑した。そんな社長に余計に熱が上がる。
「ありがとう」
「は、はい」
正直な思いを口にする事は恥ずかしいけれど、聞く方も恥ずかしかったのか、社長は一つ咳払いをした。するといつもの社長に戻り、そして話を変える。
「それでなぜ君はのこのこと鷹見社長についていったんだ」
「それは鷹見社長が強引だったのもあるんですけど……」
口ごもる私に社長は顎で促す。
「えーっとですね。若干、若干ですよ。ス――」
「す?」
社長は不愉快そうに眉を上げる。
「ス、スイーツに釣られた所は否めませ……」
タルト泥棒ではあったが、最初に食べさせてくれたパフェの印象が強かったらしい。
そう言うと社長は一瞬目を見開き、そしていかにも君らしいなと苦笑した。
「しかし笑い事でもないな。君は菓子をやるからと言われても知らない人に付いていくなと学校で習わなかったのか。今時、幼稚園児でも知っているぞ」
「うっ、はい。おっしゃる通りでございます。返す言葉もございません」
……ま、まあ、でも。それだけじゃなかったんだけど。
「何だ、他にもあるのか?」
「へっ!?」
私、今。口に出していました!?
再び刺す様な瞳を向け、無言で促してくる社長に狼狽えた。
「ええ、えっと。その。鷹見社長が……瀬野社長の秘密を教えてくれると」
「俺の秘密? 何だ、それは」
社長は眉を上げた。
「えーやー、その。瀬野社長には婚約者がいたけれど、その……」
「ああ。婚約が白紙になった事か? 別に秘密でも何でもないが」
「っ……」
わ、私は知らなかったもん。
「聞きたい事があるなら当事者の俺に直接聞けばいいだろう」
「聞けませんよ。そもそもどんな秘密かも分からなかったし」
小さくなる私に社長はそれもそうかとため息を吐く。
「まあ、済んだ事だ。もういい」
お許し頂けたようだ。私はほっと息を吐いて力を抜いた。
「ただし、いいか。今後はたとえ菓子をやるからついて来いと言われても、俺以外の男には絶対について行くな」
「……は、はい。仰せのままに」
「よし、いいだろう」
「え? あれ?」
言葉の意味を考えようとしていた私に畳かけるように社長は言った。
「では早速だが我々の親睦を兼ねて、今後も休みでも俺の用事には必ず同伴を頼む」
「はっ!?」
私の休みは!? 自由は!? プライベートは!?
「君は俺と地獄まで付き合ってくれるんだろう?」
訴えようとしたが、こちらに手を伸ばして肯定の答えを待つ社長の笑みに私はぐっと息を詰まらせ、そしてため息を吐いた。
これからも社長はやはり私より一歩も二歩も先に前を歩くのだろう。そして私は置いて行かれまいと必死についていく事になるのだろう。
それでも社長が立ち止まって、こうして私に手を伸ばしてくれるなら。
「かしこまりました、社長様。――未来永劫」
目を見張る社長の温かな手に自分の手を重ねると私は笑みをこぼした。
(完)
これにて『かしこまりました、社長様』の本編を完結とさせて頂きます。
今回は前作の『夢』から覚めた『現実世界』での物語でしたので、前作と違ってシリアスな展開となり、ストレスがかかった方も多かったかのではないかと思います(汗)ここにお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。そしてそんな展開にもかかわらず、最後までお付き合い下さいました皆様、本当にありがとうございました。
また本編では『全く恋愛対象ではなかった社長に対して徐々に~』という形を出したかったのですが、振り返るとほとんど恋愛色が見えない結果(むしろほぼ壊滅)となったので、番外編にて少しだけでも出せればいいなと思います。
どうぞよろしくお願い致します。




