50.秘書室長、菅原秋子の告白
夢から覚めたように、はっと我に返った私は慌てて社長から距離を取ると社長は少し舌打ちし、そして返事した。それと同時に扉が開放される。
「失礼致します、社ちょ――木津川さん! どうしたの!?」
菅原室長は駆けつけてきて、涙目だった私を抱き寄せると鋭い声を飛ばした。
「ちょっと! 木津川さんにまた何をしたのよ、貴之君!」
……ん!? 貴之君? 今、貴之君って聞こえた気がするのだけど。
「え、えと。貴之くん……って? 菅原室長は社長と社員の関係だけではなく、お知り合いだったんですか?」
「あ……」
菅原室長はそう呟いて私を解放すると、諦めたようにため息を吐いた。
「ええ、そうなのよ。実はね、ずっと黙っていたんだけど……私、豊の姉なのよ」
「豊……って」
えーっと、どなたでしたっけ。記憶の中を必死に探る。
「門内豊よ」
「か、門内さん!? 門内さんと言えば、門内さん!? あの門内さんですか!?」
「ええ、そうよ。木津川さんが考えている、社長の前秘書の門内」
菅原室長は苦笑した。
「だって名前が違う……」
あ、でも確かに二人は物の考え方が似通っていた。
「私はほら、結婚して姓が変わっているからね。私は父親似だし、弟は母親似が顕著に出ているから、二人並べても姉弟と認識された事がないくらい似ていないのよ。弟はね、学生時代から貴之君、瀬野社長の友達なの。貴之君は家にもよく来ていたから、私も知っているってわけ」
え! 社長って友達いたの!? ――あ、いや。問題はそこじゃないし、今、結構酷い事を思った。
「でもそんな事、誰も一言も」
私は社長と菅原室長を見比べる。すると社長は気まずそうな表情を浮かべ、菅原室長は眉を下げた。
「あのね……ごめんね」
「え?」
「私はね、いわば社長秘書を専属に調査する諜報活動員でもあるの」
「社長のお庭番って事ですか?」
「あなた、お庭番って古めかしいわね……。でもそうね、そういう事」
いや、それはともかくだ。社長秘書を専属に調査をすると言った? つまり私は今まで疑われていて、かつ監視されていたという事で……。
ひゅーりらり……。
心の中の木枯らしで、かろうじて木に残っていた一枚の枯葉を舞い散らせた。
ま、待ってよ。門内さんは菅原室長の弟だと言ったよね。もしかすると、もしかする? それだけは聞くのは止めろと誰かが囁いているのに、それでも聞かずにはいられない。
「か、門内さんは、門内さんもこの事……」
「ゆ、豊? えと。豊もそうね……知っていたわ。この際だから思い切って言っちゃうけど、あなたの指導係だった訳だからね。特に要注意して観察されていた事でしょう」
そうか、門内さんはやけに熱心に指導してくれるなとは思っていたけど、私は信用されていなかったのか。そりゃあ、そうだよね。私の人となりも知らないのにいきなり社長秘書抜擢とか馬鹿げた話だとは思っていた。ああ、思っていたさ。思っていたがね。
ああでもね、鷹見社長にはゲームの標的にされ、後輩と総務課の社員さんには陥れられ、噂には弄ばれ、スパイの容疑者に仕立て上げられ、菅原室長と門内さんには監視される私って一体何なの。ねえ、何なの。私、何か悪い事した!?
いくら心が宇宙よりも広い大人な私でも、もう許容量一杯一杯ですよ。フルボッコですよ。満身創痍ですよ。
あぁぁぁ。こんな事ならライフが残っている内に八つ当たりでも何でもやっぱり社長をボコっておくんだった。
……ヤバイ、何だか目の前の景色がぐらぐら揺れてきたぞ。
「お、おい! 木津川君!」
どうやらふらついていた私が社長にキャッチされたようだ。背後から社長の焦った声がぼんやりと聞こえた。
「あーもー、いやぁ……。誰も信じられない。私もう、やっぱり人間なんて信じないんだー。そうだ。そんな人も信じられない世界なんて滅びてしまうがいいよっ、バリス! ……あれ、違った。バロスだっけ……あ、ワロス?」
滅びの呪文を唱えるも発動しない事に頭をひねる。
「きづっ、木津川さん、ででっ電波系の人間不信になってるっ!」
「……壊れ具合まで面白いな、木津川君」
「あああぁっ! 貴之君、何のんきに、しかも人の神経逆なでする事言っているのよーっ! ねねねっ。お、落ち着いて!? こここっ、心穏やかに静めて落ち着いてっ? ねねねっ! 聞いてっ!?」
この場で誰よりも一番落ち着いていない室長が何やら叫んでいる。
いーよいーよもう。慰めてくれなくったっていーんですよぉ。どーせ、私は誰からも信用されていませんよーだ……。
いじけモードに入って来た。
「木津川君」
社長の落ち着いた低い声がしたかと思うと、社長の方へと向き直された。
「君を信用していなかった訳じゃない」
ええ、そうでしょう。上司なら部下にそう言うしかないでしょうとも。だから私も大人の女なら、ここは大人の対応が必要なのだろう。だけど……私はそう、やっぱりまだまだ子供なんですよ。私は今もまだ等身大でしか生きられない。だったら私は私なりのやり方で対処する。
幼児化上等! むしろ大人の女でいてたまるものですかああぁぁっ!
そして私は社長を一睨みすると――。
「あっかんべえぇぇーっ、だっ!」
顔をしかめて思いっきり舌を出してやった。
ふーんだ、今さら真剣な瞳を向けたって駄目なんですからね。思い知ったか、社長!
どうせビクともしていないんだろうと目を開くと、意外にも社長はかつて見たことがないほど面食らった表情を浮かべていた。一瞬こちらが呆気に取られそうになったが、すぐに思い直す。
ああ、こういうのを鳩が豆鉄砲を食ったようになるって言うのか。男前が形無しね。ふーんだ、ざまぁ! 少しだけスッとしたわ。
そして私は社長からツンと顔を背けた。
「ほ、ほらぁっ! 貴之君、あ、あなたが回りくどいからっ! はっきり言ってあげなさいよね!」
菅原室長は動揺を隠しきれない様子で社長をそう窘めると、彼女はこちらに視線を向けた。
「貴之君は過去のあなたを鑑みて、あなたを信用していたわよ。でもね、他の人はそうじゃなかった。私たち姉弟をあなたに付けて監視するというのがあなたを社長秘書に就ける条件だったの」
「……他の人? 条件?」
ほんの少し自分を取り戻してきた私が社長を見上げると、社長は一つ息を吐いた。
「株式会社は仮に創業主であるとしても社長の物ではない。株主の物だ。実際に業務を執行するのは社長や取締役、さらにその下で働く社員たちで成り立っている訳だが、その中でも一番発言力が強いのは何を置いても株主だ。株主総会で取締役や社長の選任も含め、その会社の一切の事項について決議できる事になっている。うちの会社は……瀬野財閥として四分の三以上を自社株として持っているから、実質は独裁権限を持っているが、その株を持っている人物と言うのが――」
ああ、なるほど。彼女か。いや、彼女などという言葉で表現するのはふさわしくないだろう。
「瀬野家のご当主、瀬野社長のお祖母様と言うことですか」
「……ああ、その通りだ」
瀬野家のご当主様、瀬野吉乃。やはり食えないお人だったのね、あの方。以前、お邪魔した時もそうだったけれどこちらを試すような態度だった。まあ、そりゃ、考えてみればそうよね。いくら孫娘の友達だからって、信用できるかどうかも分からない人間をそうほいほい重要ポストに就けてくれる訳がない。まして、あれほど優秀な門内さんに取って代わるというのはリスクが高かったはずだから。
ああぁ、勿体ない。あの時、ご当主様に感謝しちゃったよ。……いや、結果的には条件付きでも許してくれた訳だから、やっぱりそこは感謝で良いのか。何だか悔しい気持ちはあるが、やはり感謝しておこう。悔しいけど。
「あの、あのね。でもね。言い訳をさせてもらうとね、本来一年間という期間で見守る予定だったんだけど、最初の三ヶ月でそれを解除する事になったのよ? 豊もね、私によく言っていた」
「え?」
「あなたの姿を見ていたら、監視は必要ないだろうからと早々に取り消すようにあの子が働きかけたそうなのよ。そして豊にもくれぐれもあなたの事をよろしくと頼まれたわ。あの子にそこまで言わせる人ってどんな人だろうと思っていたの」
私はどんな反応をすれば良いのか。ここはありがとうございます、が求められているのですか? いやですよ。絶対言ってやるもんか。
「でもだったらどうして、今まで何も言ってくれなかったんですか?」
「監視していたなんて言われたら傷つくでしょ」
「はい、傷つきました」
この際だからすっぱりきっぱり言ってやる。すると菅原室長と社長はばつの悪そうな表情を浮かべた。うん。傷心の私を見て、大いに反省するがよろしいでしょう。
「ご、ごめんね」
「悪かった」
「……まあ、話を続けて下さい」
腕を組んで段々視線が居丈高になる私に菅原室長は少し怯みながら、そして苦笑いしながら続ける。
「え、えーと。それと同時にね、新人秘書さんの動向も見守る役目をしているのよ」
「あ、じゃあ」
「ええ、もちろん伊藤さんの事もね。彼女は気をつけているようだったけれど、こちらは不審な行動していないかをわざわざ監視しているのだから気付いたわ。主にあなたへの接し方とかね。それらを逐一社長に報告していたってわけ。だから社長からあなたに注意勧告してもらおうと思っていたんだけど」
「ビザ問題……」
「あ、あれは、私は関わっていないからね! それだけは真実よ! 信じてね! 誰がしたかは想像ついたけどね」
そう言えばあの時、菅原室長はきっと私の動向を窺っていたのね。私が鷹見社長からヘッドハンティングを受けていないか。あるいは……警告をしてくれていたのか。
「そうですか、なるほど。とにかくビザの件は社長の単独犯だったのですね」
何だかまた、めらめらと怒りが再燃してきたよ。でも怒りのメーターを振り切る前に気持ちを抑えて、聞きたい事を聞かなくちゃ。
「それとこの事は他の皆さんもご存知だったのですか?」
「え? ええ。前にも言った通り、秘書課は機密情報においては十分警戒する必要がある部署だから、秘書課に来る前にはよくよく吟味されて配属になるのよ。一年目の新入社員ではたとえ秘書課を希望していても、配属されないはずなの」
「え? 社長が権限で彼女を入れたのではなかったのですか?」
私は社長の方に視線を向けた。
「違う」
あっさりと首を振った。悩んでいた私が馬鹿みたいなんですけど。
「それでね、話を続けるけど。今回はそれをすり抜けて二ヶ月でやって来たから他の秘書さんたちにも注意するようお願いしていたのよ。あ、でも彼女たちは、私が木津川さんを監視していた事は知らないわよ」
だから彼女たちに非は無いのよと暗に言っているのだろうか。あるいは皆から疑いの目を向けられていた訳ではないのよという私に向けての言葉なのだろうか。どちらにしろ、もう済んだ事だ。
「分かりました」
「そ、そう、納得してくれたみたいで良かった」
「ええ、お話は分かりました」
にっこり笑う私に菅原室長は何かを感じ取ったらしい。室長の顔が笑みのまま引きつる。
「わ、私はね。木津川さんに謝りたかったの。だって有休指示を与えられた時の木津川さんの真っ青な顔は見ているこちらが酷く胸が痛かったもの。貴之君、あなたの事だから、どうせ彼女の顔を見ていないでしょう。彼女の顔を見るのが辛くて」
あの時、社長は私に背を向けてこちらを見ようともしなかった。それは拒絶という意味ではなかったの?
しかし私が社長の顔を仰ぎ見るも、社長は黙秘する。
「図星のようね。ホント、あなたってヘタレ男ね!」
社長様に面と向かってヘタレ呼ばわりとか、室長よ、あなたは何て命知らずの冒険野郎なんだ! いや、さすが門内姉弟か。
「とにかくね、全ての責任はこの会社の主である社長、瀬野貴之よ。彼が全て責任取ってくれるから安心してね。焼くなり煮るなり蒸すなり揚げるなり好きにして頂戴。だから私はそろそろ失礼するわねっ! 全責任を負うべき社長様、それではお先に失礼いたしまーす」
そして菅原室長にしては珍しく、慌ただしく出て行った。




