49.犯人は――君だ!
私はお茶を片手に社長室の扉をノックする。すぐに社長からの返答があって扉を開放した。
「失礼致します。お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
私はお茶を出すと社長のデスク真っ正面に立つ。そしてお盆を胸に抱えたまま、一向に動こうとしない私に社長は目を上げた。
「どうした?」
「ええ、実は少し社長とお話をしたいと思いまして」
そう切り出して笑うと社長はキーボードを打つ手を止めた。
「何だ?」
「今回の事で、一つだけまだ気になる事があるんです」
何か含んだ物の言い方をする私に社長は視線で続きを促す。
「ビザ申請の件です。宮川さんから聞いたんですけど、私はきちんと申請していたそうです。ところが後からキャンセルのメールが入ったと言うのです。おまけに私が行ったビザ申請の痕跡が削除されていました」
そう言って社長を窺ってみるが、顔色一つ変えない。それどころか切り返してきた。
「報告義務を怠ったな」
「え……」
「その話は聞いていない」
「え!? えと、それは」
確信を持てなかったからで。いや、そんなの言い訳にならないか。誰かがしたにしろ、パソコンのトラブルだったにしろ、確かに社長へ報告する義務があった。
悔しいけれど社長が言う事の方が正論だ。ここは折れておくべき所だろう。
「申し訳ございませんでした。……ですが! 果たして報告する必要があったでしょうか」
「どういう意味だ?」
社長は眉を上げた。私はお盆をデスクに置くと腕を組んだ。
「すっとぼけたって無駄ですよ。黒田君にも相談しているの、知っているでしょう」
「…………」
黙っているところを見ると、黒田君から報告を受けていたようだ。
「そう。黒田君に調べてもらったところ、パソコンによる遠隔操作の跡は無いとの事でした。彼が言うには私のデスクのパソコンから直接操作されたものだろうと。一方で、黒田君の能力を超える天才がいたならその痕跡を消す事すらできたかもしれません。が!」
社長は椅子に身を任せて腕を組む。
「産業スパイで情報を盗み取ろうとした伊藤さんはそこまでの専門家ではなかった。事実、アクセス制御の解除は鷹見社長の部下がやっていたわけですからね。しかもその道のプロですらウイルスを侵入させてしまい、鷹見社長の会社の情報が漏れるという何ともお粗末な結果でした」
一方、私は名探偵よろしく、うろうろしながら蕩々と続ける。
「つまり伊藤さんは黒田君を超える天才ではあり得ないと言う事です。という事は、これは伊藤さんの犯行ではないわけです」
そう言いながらさらに社長を一瞥してみるが、悔しい事に表情一つ変えない。少しため息を吐きながら話を続ける。
「それに黒田君が有給休暇を取っている時に起こった混乱具合を見ても、彼を超える天才は少なくともうちにはいません。では誰か。私がパソコンを立ち上げていても警戒心無しに席を立つことができる人物、あるいはIDとパスワードを知る人物。……そう、真犯人は――社長、君だっ!」
そう言うと、社長に向かってびしりと人差し指を突きつけた。
「社長がやりやがりましたでしょう、メールの件! 私を犯人あぶり出しの撒き餌にしましたね? そもそも私が直接大使館へ出向こうとしたら、ネットから申請をするようにおっしゃったのは社長でしたよね」
それにあの時、確か社長は君に辛い仕事を頼んで悪いと言った。この事だったんだ。そして。
「もっと言うと、信憑性を高めるために私がシロだと分かった上で、スパイの容疑者に仕立て上げたでしょう!」
「……それが君の直属の上司、まして社長に向ける態度か? マナーがなっていないな。教育の受け直しが必要なようだ」
社長は私の指から逃れるように椅子から立ち上がると、こちらへと回ってくる。
な、何よ。立ち上がってこちらを無表情で見下ろしたって、ぜ、全然恐くなんかないんだからねっ。
「あ、あら、部下を陥れようとする上司はもっとマナーがなっていませんけどね」
「心外だな。陥れようとした訳じゃない。……少し利用させてもらっただけだ」
「ほーら。化けの皮が剥がれた! やっぱり私を利用していたんじゃないですか」
社長相手だとさすがに気が緩んでしまった。社長が社長秘書室にいる時、パソコンを立ち上げたまま何度か退席したこともあったし、何よりもパスワードを変えたら逐一報告していたんだもんね。
「それに病院に送っていって下さった時、本当はそれを言おうとなさっていたのではないですか」
そこまで言うと社長は観念したのか、ため息を吐いた。
「……悪かった。狙いは君だという事は早い段階から分かっていた。伊藤君が君のミスを誘おうとしたり、俺に対して君への信頼を落とそうと画策していたりということも」
相手の出方を見たかったのと私への警告の意味もあったと言う。階段での事故からの記憶喪失まではさすがに予想もしていなかったと言うが。
「あ……まさか。ベルタ社との契約話、あれって私に嘘の情報を流したりなんて……」
引きつりながら笑う私に社長は小さく首を振った。
「いや、ベルタとの取引を進めていた事は確かだ」
「ですが私は買収金額までは見ていませんし、ですからもちろん口に出していませんし、さすがに金額まで誰にも分かるはずがありません。それなのに鷹見社長はどうして契約を取る事が?」
「ベルタ社は経営悪化していたしな。向こうから何らかの有利な条件を提示されたんだろう」
なるほど。そう言えばベルタ社の株価が上がった時期はもしかすると、あるいはベルタ社自身が鷹見社長に売り込んでいたのかもしれない。
「調べていく内にベルタ社はうちにとって利益になるものではなかったから、契約が取り止めになって良かったんだが」
これまた結果オーライですね。
「でも鷹見社長の会社にとってベルタ社は魅力があったんでしょうか」
「それ自体に意味があったのかどうかは分からない。ただ、君の立場を悪くさせる為に行った事は間違いないだろう」
鷹見社長はこのゲームをするのにそれなりのお金を使ったと言っていた。私が落ちれば回収できると踏んだ一種の投資だったのだろうか。
あれ? そう言えば結局、情報漏洩はどこまで広がっていたのだろう。尋ねてみる。
「実は漏れていない。人事部には産業スパイがいたが、少なくとも先の調査結果では今回、直接取引に関わる者はシロだったからな」
「え、でも。契約が白紙になる事が続いていたようですが。それはうちとの取引より良い条件を提示したからですよね」
「力業で何とでもなる。金を湯水のように使ったんだろう」
力業か。そう言えば社長がそんな事を呟いていたっけ。それにしてもお金を湯水とか……。まさに別次元の言葉だ。
「どちらにしろ、それを利用して私をスパイの容疑者に仕立てあげようとしたわけですよね」
「……否定はできないな」
「社長から一言の説明もなく、スパイの容疑者にされたんですよ。ここ、私は激怒していい所ですよね」
「……否定はできないな」
まあ、社長がしばらく私を厄介事から遠ざけたかったという事も嘘ではないのだろう。けれどそれが意味するのは……。
社長は私の表情を読み取ったのか、少しきまりが悪そうに言った。
「今回の事は完全に俺の身勝手からだ。君では頼りないと思ったからではない」
「え? 身勝手?」
「……いや。しかしこうなると、彼にとって全て遊びだったのかもしれないな」
しかし本気で会社のお金を使ってまで遊びをする? ……ああ、やっぱり彼の考え方はやっぱり合わない。頭が痛くなる。
「彼は君の事を何と言っていた?」
「確かにゲームだと言っていました。社長と私に仕掛けたゲームだと。社長は部下を失い、私は辞職に追い込まれる。そんなゲームだと」
少し意味合いが違うが、わざわざ瀬野社長を傷つける言葉を言わなくてもいいだろう。私はそう答えた。
「なるほど。君にプライドを傷つけられたという事が一番かもしれないな」
「何のですか?」
「彼と最初に会った時の事を覚えているか?」
「ええ、もちろん。タルト泥棒ですから」
「タルト泥棒……。君の第一印象はそれか」
社長は呆れた様にそう言って、さらに続けた。
「挨拶の時、君は彼の手を振り払っただろう」
「ああ、はい」
そんな事、鷹見社長も言っていましたね。
「彼にとっては女性に手を振り払われた事などなくてプライドを傷つけられたんじゃないのか」
「でもあの程度で、ですかっ? 何と器の小さな男なんですか」
初対面で指に口づけしようとしたんだよ? 普通振り払うでしょう。それとも振り払った私の方が、器が小さかったのだろうか。……いや、イケメンでも払う。
「手を振り払われる行為は結構傷つくと思うが。まして彼は女性に対して百戦錬磨の自信があっただろうから」
「そうですか」
ん? あれ。そう言えば瀬野社長の手も一度振り払った事があるような。いや、あれは払った内には入らないかもしれないけど、結構失礼な事をしたのかな。
「少なくとも俺の目には、あの時彼は君に興味を持ったように見えた」
「へぇ……」
分かったような、分からないような。生返事の私に苦笑する社長。
「あ、いえ。分かりました。毛色の珍しいおもちゃという奴ですね」
私は鷹見社長にとって、おもちゃだったのか。何だか自分で言っていて腹が立ってきたわ。……でも、本当はそうじゃないのかもしれない。『瀬野社長』に関わる女性なら誰でも良かったのかもしれない。どちらにしろ闇が深い男だ。
「話を戻すが、いいか?」
「あ、はい」
社長の言葉によって思考から引き戻された。
「情報の出所はこの部屋でしかないはずだった。黒田君には定期的にこの部屋を調べてもらっているが、盗聴器の類いはなかった」
あ、以前、黒田君を部屋に呼んでくれと言ったのは盗聴器の発見の為だったのか。そう言えば彼は大きな荷物を抱えていた。盗聴器発見の機械だったのね。
「黒田君のいる情報セキュリティ管理室は盗聴妨害対策が万全なのに、ここはそうではないのですか?」
「今回のように内部犯を絞り込むためにわざとそうしている」
相手を油断させるという事だろうか。
「それで、部屋に無いのだとしたら君が身につけている物だろうと推測した。例えば髪飾りか、筆記具だとかな。しかし髪飾りは毎日変えていたし――」
「え! 今、何と?」
思わず社長の言葉を遮る。
「だから髪飾りか筆記具だろう、と」
「その後!」
社長は眉をひそめる。
「髪飾りは毎日変えていたし、の部分か?」
「っ!」
気付いてくれていたんだ。だったら口に出してよー。……あ、いや、盗聴器チェックの為だったわね。でも何だか頬が綻んでしまう。
社長はそんな私に訝しげな視線を送る。
「続けていいか?」
「はい、どうぞ」
「一度、君が珍しくペンのインク切れを起こしたと聞いた時は少し気に掛かった程度だった。その後、おそらくペンが盗聴器なのだろうと考えた」
社長はそこまで考えていたの……。そう思うと私は何とのんきに過ごしていたものだと悔しくなる。
「しかし君も秘書になる際に、決して人から物を受け取るなと指導を受けたはずだろう」
「そ、そうですけど、ペンを貸しただけのつもりでしたから。まして次の日にすぐ戻って来た訳ですし」
「そうだとしても途中で気付かないか?」
「えー、それは」
水無月早紀子さんにミスリードさせられたっていうのはあるわね。何がお助けキャラなのだ。迷探偵め! とは言えども、えへへ、実はこの世界が乙女ゲームかと思っておりましたーなどと社長には口が裂けても申せません……。それともう一つ。
「一度記憶を失ってリセットされてしまった部分はあると思います」
「……ああ、なるほどな」
そう納得してみせている割に疑い深い瞳を向けるのはやめて下さいませ。先に目をそらしてしまう。
「あ。でも、どうして私にそれをおっしゃって下さらなかったんですか。そしたら私も協力を」
「犯人をあぶり出し、証拠を見つけ出すまでは君には盗聴器を付けておいてもらいたかった」
そうか。外して盗聴器の存在に気付かれたと思ったら、向こうも警戒してしまうものね。
「だが、盗聴器の存在を知りながら生活するのは精神的に堪えるだろうと思った。だから黙っていた。君を傷つける気は……無かった」
確かに盗聴器の存在を知ってしまった自分の取り乱し様の事を考えたら、それを身につけての生活を強いられるのは苦しかっただろう。
……でもね。たとえそうだとしても。腹が立つものは立つのです。
「ええ、ええ! 傷つきましたよ大いに! 油断した私が悪いと言えば悪いんですけどね! でもね! 私がどれだけ。あの時どれだけ――」
次々と起こってしまう自分の失態に、事実とは異なる噂が広まる事に、社長から疑われて信用を失ってしまったと思った事に、どれだけ息も出来ないほど苦しい思いだったか。
話している内に段々と感情が溢れ出す。
「私は、私はっ」
必死で声を絞り出そうとしていた自分の目の前が突如真っ暗になる。
「悪かった」
上から降ってくる低い声と背中の温もりで自分が社長に抱かれている事に気付いた。
「辛い思いをさせて悪かった」
「……っ」
違う。本当は私。最初、社長を信じられなかった自分、私を信じてくれる人たちを信じ切ることが出来なかった自分こそ腹立たしかったのだ。ごめんなさい、本当にごめんなさい。
「社長、ごめ――」
強く抱きしめられるその腕に応えようと、腕を回しかけたその時。
社長室の扉を控えめにコンコンとノックする音が耳に入った。




