48.これまで築き上げたものは
総務課へ向かう途中、廊下を歩いて角へ曲がろうとした時、女性たちの話し声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 社長秘書の木津川さんの話」
「ああ、聞いた聞いた。前にいた支社の時の事でしょ? よくやるわよねー」
「そうそう。社長秘書もそうやって就いたんじゃない?」
「そりゃそうでしょ。じゃなきゃ、いきなり社長秘書の職にいきなりぽんと就けるわけがないわよ」
私は足を止めた。
人の噂も七十五日と言う。きっと耐える事はできるだろう。けれど自分が頑張っても頑張っても、どれほど努力しても一度流されてしまった過去の事は消せない。それが悔しくてならない。
女性たちの噂は止まらない。
「って事はー。まさか社長とも!?」
その言葉でかっと頭に血が上る。私だけでなく、社長にまで迷惑を掛けてしまうの? これからもこうやってずっと? 私はずっと社長の弱点になってしまうの?
「やっだー、最低!」
噂はさらに人から人へと渡り、脚色で大きくなっていく。それを止める事は誰にもできは――。
「き、きづっ、木津川さんはっ」
「は? 何よ、あなた」
「き、木津川さんはそんな方じゃありませんっ!」
え……。この声は。
「き、木津川さんの事を何も知らないくせにっ。そ、そんないい加減な事をおっしゃらないで下さいっ!」
「な、何よ。あなたは彼女の事を全て知っているというわけ!?」
もう一人の彼女は口を噤んだ。その様子に一瞬怯んだ女性が勝ち誇ったように笑う。
「ほら。何よ、あなただって知らないんじゃない!」
「た、確かに私はあの方の全てを存じ上げているわけではありません。けれどっ! 少なくともあの方は、こ、こんな風に陰口を叩いて頑張る人の足を引っ張るような真似は絶対にされません!」
「なっ!」
「あの方は、頑張る人を味方して下さる方です! 真っ直ぐな方です! 何も知らないあなた方が木津川さんの事を語る、し、資格はありませんっ!」
「な、何よ、生意気な事をっ――」
「きゃっ」
ただならぬ気配に足を前に進めようとしたその時。
「俺もそう思うよ」
……この声は黒田君?
「い、いたっ、痛いっ。は、放して」
「あっそ、痛いんだ?」
「は、放してよっ! 女に暴力をふるう男なんて最低よ!」
「へぇ? 言葉の暴力をふるうのはいいってわけ? 今あんたが腕に感じる痛みを胸に感じている人間がいるんだよ。あんたがふるっているその暴力は許されるってわけ?」
「っ!」
「それに最初に、この子に手を出そうとしたのはあんたの方だよね? 正当防衛ですけど?」
私は冷たい黒田君の声にたまらず角を曲がり、彼らに駆け寄った。
「あ……き、木津川さん」
最初に気付いたのはこちらに身体を向けている黒縁眼鏡の社員さんだった。そっか。あの子だったのね。
「こら、黒田君。何しているの。放してあげて」
「……づかちゃん」
「ほーら。放してあげて」
促す私に黒田君は渋々、彼女の腕を放した。私はジャケットからハンカチを取り出して、彼女の腕に巻く。
「紅くなっているわね。あざにならない内に冷やした方がいいわ」
「……っ」
「私もね、最近とある人に掴まれてね、跡が残っちゃったのよ。見る?」
私が左腕の袖を捲ってみせると、彼女たちはきゃっと小さく叫んだ。
「酷いものでしょう。だから早く冷やしてね。あ、でも勘違いしないでね。二人の男性が私を巡っての取り合いとかじゃないから」
あははははと笑うと黒田君はうんうんと頷いた。
「言えているね。例え天地がひっくり返ったとしても、それだけは無いな」
「うるさいよ、黒田君。嘘だけじゃなくて真実も時に人を傷つけるのよ……」
「……あ、あの。木津川さん」
そのやり取りを見ていた二人は顔を見合わせ、そしてこちらに頭を下げた。
「ごめんなさい。好き勝手言って」
「うん、いいよとは言えないけど……でも許すわ。謝るのにも勇気がいるものね」
「ありがとう」
「ただね、私の事を噂にするのに社長まで巻き込まないで。お願いだから社長の品位だけは傷つけないで。社長には何の落ち度も無いわ」
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
私は謝る彼女らに笑みを向け、そして黒田君に向き直る。
「なので、黒田君。君も彼女に謝りなさい」
「え、俺?」
「彼女の腕、紅かったでしょ。これは過剰防衛ですよ」
「……っ。分かったよ。悪かった」
黒田君はそう言って頭を下げた。すると彼女たちも焦った様子で謝る。謝罪合戦になりそうな所で私は止めた。
「じゃあ、これで。本当にごめんね」
彼女らはそう言うと立ち去って行った。そして私は黒田君と残った彼女に向き合う。
「黒田君、女の子に暴力は駄目よ? ――でも、ありがとうね」
黒田君は少し笑って頷いた。そして彼女に視線を向ける。
「あんたもその……以前は悪かった」
「えっ!? い、いえっ!」
彼女はびっくりしたように手を振って否定した。
「うんうん、偉いねー、黒田君」
「いやいや。絶対俺の事、子供扱いしているよね、づかちゃん」
少し不機嫌そうに言う黒田君に肯定の笑みを送り、そして私は彼女に視線を向けた。
「鈴木さん、鈴木茉奈さんだったわよね」
「は、はいっ!」
「本当に嬉しかった。……ありがとう」
私は彼女に向かって深々と頭を下げた。
「そ、そんな! 頭を上げて下さいっ! 私こそ元気を頂いたのに」
「え?」
頭を上げると彼女は服の中に入れていたネックレスを取り出した。その先に付いていたのは私が以前あげたリング型の指サックだった。
「それ……」
「私、嬉しかったんです。昔から不器用だし、存在感が薄いし、ずっと自分に自信が持てなくて、ひ、人と話すのも苦手だったんです」
彼女は辿々しくも一生懸命に話す。
「会話がうまく出来なくて、それでまた悪循環になって。が、頑張っているつもりでも結果が出なくて。だけど木津川さんに私という小さな存在にも気付いてもらって、そして力を頂いて、また頑張ろうと思えるようになったんです。ですからお礼を言うのはこちらの方です。あ、ありがとうございました!」
彼女たちに反論してくれた時、きっと鈴木さんは自身が持つ精一杯の力で戦ってくれたんだろう。そう思うと嬉しくなった。
「ありがとう。これからも一緒に頑張りましょうね」
「はいっ! ありがとうございました!」
お礼合戦になりそうな所を、今度は黒田君が止めたのだった。
お昼になって私は社員食堂へと向かった。ここしばらく人の多い所で針のむしろになるのは心が耐えられなかったので訪れる事ができず、ずっと自分のデスクでお昼を取っていた。だから随分と久しぶりの事だ。
そして私が食堂に近付いた頃、廊下にまで聞こえる一際喜んだ様子の女性の声が聞こえて足を止めた。
「よっしーっ! やったわ、今日もゲットしたわよっ!」
あの声はスイーツ争奪戦をしている佐倉さんの声だろう。そうか、今日は限定スイーツ販売だったのね。
そう考えているとさらに佐倉さんの声が聞こえる。
「ねえねえ、久留間さん。今日、木津川さんもう来た? ――え? 今日もまだ来てないんだ。よっしゃあーっ! また競り勝ってやったわ! 見たか、木津川さんっ!」
楽しそうな彼女の声に友人の三木さんと思われる声が窘めるように言った。
「あんた、毎回うるさいよ。本人がいない所で言っても仕方がないし。それに彼女、もしかしたらここにはもう来ないかも……」
「え? 何で?」
「何だかね、彼女……噂が立っているのよ」
「え? 噂って?」
「私にはとてもそう思えないんだけど。あのね……」
三木さんは耳打ちしたのだろう。声が聞こえなかった。すると。
「はあぁっ!?」
佐倉さんの苛立った声が上がった。
「ちょっ、バカ! あんた、ホント声が大きいよっ!」
「何なのよ、それ。なんで木津川さんが色仕掛けで男に取り入っているとかいう噂になっているわけ!?」
周りの社員が戸惑ったようにざわめく。おそらくここにもいくらかは広がってはいたのだろう。心臓がドクドクと高鳴り、震える手を握りしめる。
「だ、だからあんた、声大きいってばよっ! り、理由は分からないけどさ」
「ばっかじゃない!? 何なのその噂、ホントばっかみたいっ! どうせ彼女の肩書きを妬んだ誰かが流したいい加減な噂でしょ!」
彼女は苛立ちを隠せない様子でそう叫んだ。ドクドク打っていた心臓が一瞬止まったかと思うほど呆気に取られてしまった。
「あんな三度の飯よりスイーツ好きの木津川さんが男を手玉に取れるほど器用な人間な訳ないでしょっ! 色気より食い気なのに。そもそも限定スイーツのためにこの食堂まで全力ダッシュしてくるような人なのよ。そんな真っ直ぐのスイーツバカが男を使って何かを成し遂げようとするような、人から後ろ指を指されるような事をするわけないじゃない! 木津川さんをライバルと認めている私だからこそ、一番あの人の事が分かるわよ!」
……そうだ。佐倉さんは分かってくれていた。何も分かっていないのは私の方だった。彼女が私を軽蔑するだなんて一瞬でも考えた私こそ、何も分かっていなかった。彼女を信じたいけれど信じ切れなかったのは私の方だった。
私が人を信じないで、どうして自分が人から信じられない事を嘆いていたのだろうか。何と図々しい考えだったのだろう。
「ああ、なるほど、あんたが言うと確かに説得力あるわねー。スイーツバカのあんたも同じく色気の欠片も無いもんねぇ」
「わ、私の事はいいのよ!」
「うん、おばちゃんもね、そう思うよ」
このおっとりした、けれどゆっくり染み渡るような声は食堂のおばちゃんであり、限定スイーツの生みの親、久留米さんだ。
「あの子ねえ、私のお菓子を子供みたいな満面の笑顔を浮かべて本当に美味しいって、嬉しそうに言ってくれるんだよ。そういう人の顔を真っ正面から見て、自分の感情を素直にさらけ出して笑うような子がそんな真似をするはずないよ」
ここにはしょっちゅう訪れて、私と佐倉さんのスイーツ争奪戦が名物のようになってしまっている。いつも生暖かい目で私たちを見守ってくれていた社員さん達が、佐倉さんと三木さん、そして久留米さんの意見に同調するように大きく揺れるのを確かに感じた。何だか涙目になってしまう。
自分には何も恥じる所がない。しかし歪められて大きくなった噂は人の気持ちや誇りすらも容易く踏みにじっていく。そして過去は逃げても逃げても追いかけて来て私を襲い、狂わせる。……それでも。分かっていてくれる人がいるなら、私は私でいられる。過去が私を背後から襲うと言うのなら、立ち止まり、そして振り返って戦おう。
皆にその勇気をもらった気がして私は足を前に進ませ、社員食堂に踏み入れた。
「……木津川さん」
まず、三木さんが私の姿を認めてそう呟いた。再び、社員食堂がざわめく。
「こんにちは」
私は二人に歩み寄ると笑みを向ける。そしてカウンター越しの久留米さんにも。久留米さんは少しだけ潤んだ私にきっとこちらが話を聞いていたのが分かったのだろう。力強く頷いてくれ、そして言った。
「木津川ちゃん、ごめんねぇ。もう今日の限定品の販売は終わってしまったんだよ」
「そうですか。残念です。ではまた次の機会に」
そして私は再び二人に視線を戻した。
「佐倉さん、もしかしてそれって本日の限定スイーツ? と言う事は今日も負けちゃったかな」
すると佐倉さんはすぐにニッと笑い、そしていつものように高笑いした。
「そうよ。あなた最近、相手にもならないわね。私の五連勝中だわ」
「仕方ないじゃない。最近、こっちも色々あってね。疲れちゃっているのよ」
「…………」
冗談っぽく肩をすくめてみせると、彼女は本日の戦利品、チュロスと私を見比べる。そして黙ってチュロスを持つ手をこちらに伸ばした。
「ん!」
「ん?」
「ん!」
「ん?」
「きょ、今日は! 今日はあなたに譲ってあげるわよっ! ほ、ほら、さっさと受け取りなさいよ!」
「……え?」
私も同じように彼女の顔とチュロスを見比べてしまう。
「あっ、か、勘違いしないでよねっ。あ、あなたが元気ないとこっちも張り合いがなくなるだけなんだからねっ。今回は敵に塩を送ってやるわよ」
そっぽを向いた佐倉さんは耳まで真っ赤にしている。そんな様子を見て三木さんは笑う。
「まあ、今回はむしろ砂糖だけどね。それにしてもあんた、ツンデレ過ぎるよ。ごめんね、木津川さん、こんな子で。でも悪い子じゃないんだ。受け取ってやって」
うん。分かっているの。だって同じスイーツ好きだもん。ずっと競ってきたライバルだから分かっているの。ううん、本当は分かるべきだったの。……ごめんなさい、佐倉さん。
私は頷くと彼女の手の上に自分の手を重ねる。すると彼女はびっくりしたようにこちらを見た。
「ありがとう、佐倉さん。本当に……ありがとう」
「……べ、別に。今日だけだからね」
「うん」
彼女の厚意を素直に受け取ると、私は袋に入っているチュロスを手で割って佐倉さんに渡す。
「はい」
「え。ちょっ。せっかく私が」
「今日だけよ、今日だけ」
「受け取りなさいよ、絵美。友好の証なんでしょ」
そう言って三木さんは後押しをしてくれる。
「じゃ、じゃあもらってあげるわ。……あ、ありがとう」
私は彼女の物言いに笑って、さらに残りのチュロスを半分にして三木さんに渡した。すると彼女は目を丸くした。
「え、私も?」
「いつも私たち二人の歯止め役になってくれてありがとう」
「そ、そんな。いいのに」
「受け取りなさいよ、奈那。友好の証なんでしょ」
今度は佐倉さんが三木さんにそう言った。
「あ、ありがとう。じゃあ、遠慮なく」
「と言うわけで。また明日からはライバルだけど、今日はひとまず休戦としましょう」
「じゃあ、チュロスで乾杯って事ね」
佐倉さんがそう言うと、三木さんは呆れた。
「チュロスで乾杯とか……」
「私たちらしいでしょ」
「待って。もしかしてその私たちって、私までカウントされているの!? あなたたちのスイーツバカ仲間に!?」
「まあまあ。これからも歯止め役よろしくね、三木さん。それでは――明日からはまた袂を分かつライバルだけど今日の所は。乾杯ー」
三人でチュロスを軽く打ち付け合う。すると私たちの様子を見守っていた社員さんたちと久留間さんから生暖かい拍手を受けた。その状況に一瞬呆気に取られたけれど、三人で照れながら笑いあった。
そしてこの出来事の後、堪忍袋の緒どころか綱がブチ切れた言って、尾ひれがついた私の噂が同期の浦本百合子さんによって修正され、真実が広まる事となるのはもう間もなくの事だった。




