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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
47/57

47.私は私のままで

 クッション性のきいたベッドの上での寝心地は本当に気持ちいい。手を滑らせてシーツの感覚を楽しもうと寝返りを打つ。すると、すべすべした感覚が身体に馴染んで……ん? 馴染まない。シーツがない? あれ? 私、洗濯したんだっけ? それともよれた? さらに寝返りを打とうとして、背中にベッドの感覚がなく、落ちっ――。


「るわーんっ!?」


 直後ドシンと床に落ちて、目を覚ます。

 あ、いたたた……。ベッドから落ちちゃったのかとぼんやりする頭で考える。私、そんなに端の方に寝ていた……ん? あれ? 

 見慣れぬ天井にぱちぱちと瞬きしてみた。ここはどこ? そして私は――。


「……騒がしいな」


 耳に聞き馴染んだ呆れた声が聞こえてきて、頭が完全に覚醒した。こ、この声はもしかして。いや、もしかしなくても……。

 片肘ついて身体をゆっくりと起こすと、すぐ横にテーブルが見える。恐る恐るそのテーブルから顔を出して声のした方を見ると。


「うひゃあーっ!?」


 何やら書類を片手に持ち、ソファーに腰掛けてこちらに視線を向けている社長が見えた。どうやら私は向かいのソファーに寝かされていたらしい。


「……うるさい」

「す、すみません」


 私はそのまま床に正座して、ソファーに座る社長を見上げる。

 ええっと、ええっと、確か鷹見社長とも決着がついて、車で帰宅中だったことまでは覚えている。


「あの。もしや私、車の中で――」

「ああ、眠りこんだ」


 ひいぃぃっ! 

 社長の前で、しかも社長に車を運転させておいて眠りこけるとは何たる失態。正座そのままの形で深々と頭を下げた。最高峰のジャパニーズ謝罪、ザ・土下座だ。


「申し訳ございませんでした。えーっとそれでは、こちらは」


 頭を少し上げてちらりと社長の顔色を窺う。


「俺の部屋だ」


 で、ですよねー。さらに、えーっと、自力で歩いてきた記憶がないと言う事は。


「ここまで運んできて頂いた……」

「ああ」

「すみませんすみませんすみません」

「いや」


 再び深々頭を下げる私に社長は小さく笑う。あ、怒ってない……かな。


「えと、重く……なかったですか」


 以前足を怪我したときに抱いて運んでもらった事はあるが、意識の無い人間を抱き上げるのはかなりの重労働だと聞いたことがある。


「ああ、重かった」


 恐る恐る尋ねると、社長はいともあっさり心の声を口に出してくれた。


「そこはですね、たとえ嘘でも羽根のように軽かったとか言うべきであって!」

「いや、羽根とか完全に嘘だろう。重かった。鉛の塊を担いでいる気分だった」


 え、何そのだめ押し。酷くない?


「鉛の塊とか担いでとか、荷物ですか、私はっ――」


 そこまで言って、はっと気付いた。お荷物には変わりないかもしれない。そうだ、私は社長のお荷物だった……。

 私は体育座りして顔を伏せた。


「……ええ、ええ。どうせ私なんてお荷物ですよぉ。社長の足引っ張りだこ大妖怪ですよぉ」

「面倒だからそこで自虐に走るな」


 社長はため息を吐いた。


「すみません」

「いいから、椅子に座れ」

「……はい」


 私はちょこんとソファーの端の方に座る。そして今は何時だろうと時計に目を落としてみると、もう既に四時半を回っていた。えーっと、会場を出たのが二時半くらいだったから。……に、二時間!?


「もしかして二時間くらい眠っていました?」

「もしかしなくてもそうだろうな」


 うわぁぁ。車から社長のソファーまでの流れで一度も目を覚まさないだなんて、どれだけ熟睡しているの。しかも寝顔見られた。恥ずかしいぃっ。あ、でも確か医務室で眠っている時も見られているかも。うわぁ、醜態晒し過ぎだーっ。


 頬が上気するのを隠すようにもう一度頭を下げる。


「すみませんすみません」

「謝罪の言葉はもう聞いた」


 もう謝るなと言うことだろうか。


「……すみません。でも起こして頂ければ良かったんですけど」

「寝言でスイーツ食べ放題だとか言っていたからな。そこで起こしたら恨まれると思った」


 どんだけ私が食いしん坊さんだと思っているんですかっ! あ、違う、そんな事より――。


「鷹見社長の方はあれからどうなりましたか」

「今日は日曜日だから夕刊は発行されないが、ニュースにはなっていたな。君が言う逆粉飾決算も話題に上がっていた」

「そうですか。だったら国税局も出て来るでしょうか」

「ああ。さすがにこれだけ広まれば、動かざるを得ないだろう。鷹見社長はこれから対応に追われるだろうな」

「そっか」


 ……良かった。瀬野社長の言う通り、しばらくはこちら側にちょっかいを掛けてくる余裕はないだろう。


「あの鷹見社長では、黒歴史、わんさかありそうですもんね。彼に使い捨てにされた女性方もこれを期に反撃に出るかもしれませんね。週刊誌ネタとか暴露本が出版されるとか。うん、夢が広がるわー。女性の恐ろしさをその身をもって体験することでしょう」


 喉の奥で笑っていると、社長は呆れた表情を消してすっと目を細めた。


「木津川君、本当に……彼に何もされなかったか? 大丈夫だったのか?」

「え……」


 彼にされた事? 彼にされた事……それはきっと思い知らされた事だろう。自分は無力だと。門内さんの比にもならない程のちっぽけな存在で、瀬野社長のウイークポイントにしかならない足手まといな存在なのだと、そう気付かされた事。弱肉強食の世界で、相手を倒そうと狙いを定めるのは弁慶の泣き所。その存在が私だろう。


 誰よりも強くなって人を助ける人間になりたい。その気持ちは今でも揺るぎない。その為の努力だってする。……そしていつか、大切なものを守るために誰かを犠牲にしないで済むように。


 だけどこれからもきっと事あるごとに門内さんと自分を比べずにはいられないだろう。門内さんならどう考えていただろうか、どう対処していただろうか、どれが最善の道と考えるだろうか、彼なら何を選び、彼なら何を捨てるか。そして彼ならもっと良い方法で社長を補助できたのではないだろうかと。


 本来なら社長を一番に考えるべきなのに、自分の事ばかり考える私が果たして社長の側にいていいのだろうか。そう悩まずにはいられないだろう。


「木津川君?」


 私は門内さんにはなれない。あんな完璧な人になれるわけがない。だから――。


「私はこれからも社長にご迷惑をお掛けするかもしれません」


 そう言うと、社長は訝しげに眉をひそめた。社長のこんな表情に既視感を覚える。


 私は門内さんにはなれない。ならばきっと彼になることなどないのだろう。……私は私のままで。

 不安で拳を作る手が震えるけれど、私はここに自分の気持ちをぶつけよう。


「それでも私は社長の秘書を続けさせて頂きたいです。その為の努力は惜しみません。だからこれからも社長のお側で仕えさせて下さい」


 社長の答えを聞くのが恐ろしいけれど私は真っ直ぐに見つめた。すると社長は一瞬目を見開いた後、頷くように目を半ば伏せて穏やかに笑う。そして再び私を見つめ直すと頷いた。


「ああ。俺には君が必要だ」


 社長らしい飾り気も情緒も何も無い短い言葉だけれど、社長の真摯な心が表されているようで心に真っ直ぐに入って来た。そしてそれはまるでプロポーズの言葉のようで、最上級の殺し文句のようで、心が熱くざわめいた。


「それならば大丈夫です」


 社長が私を必要としてくれるなら。


「これからもきっと、私は大丈夫です」


 私は笑顔で答えた。




 週を明けて。


「あ、づかちゃん、おはよー」


 社内にあるコンビニにて、背後からかかった黒田君の声に振り返った。


「黒田君、おはよう。何か買うの?」

「づかちゃんを見かけたから声を掛けただけだよ。そこまで一緒に行こう」

「うん」

「お待たせしました、木津川様」


 店員さんに声を掛けられる。


「黒田君、ちょっと待ってもらっていい?」

「うん」


 そして私は店員さんに顔を戻し、宅配便の依頼主控えを受け取る。


「お控えになります。ありがとうございました」

「お願い致します」


 店員さんに頭を下げると、カウンターから離れて黒田君に近付いた。


「お待たせ。じゃあ、行こうっか」


 私たちはコンビニを出て廊下を歩く。廊下に人気はないものの、何となく声を抑えて黒田君に話をする。


「あのね、黒田君。ようやく終わったわ。色々お世話になったわね。ありがとう」

「うん。聞いたよ。お疲れ様」

「ありがと。ようやく枕を高くして寝られるわ」


 自分の頭をとんとん叩く私に苦笑する黒田君。


「そうだね。……あ。今、何か送っていたの?」

「あ、うん。鷹見社長からの服やらアクセサリーの配送手続きをしていたの」

「本気で返すんだ? 慰謝料代わりに貰っておけば良いのに。言うだけあって品は良さそうだったよ」


 呆れたようにそう言う黒田君に私は肩をすくめた。


「いらないわよ、あんなの」

「づかちゃんって世渡り下手だねー。まあ、づかちゃんらしいと言えばそうだけどね」

「ありがとう?」

「全然褒めてないない」


 手を横に振る黒田君に私はため息を吐く。


「物には罪がないけど、やっぱりいらないものはいらないもの。熨斗付けて返してやったわよ。陣中見舞いってね」

「……マジで熨斗を付けるとは」

「わずかなお力にしかなれませんが、ご笑納下さいませと添え書きをしておいたわ。社会人として立派でしょ?」

「いや。それ、とどめを刺しに行ってるよね」

「そうね。例えるなら、慈愛に満ちた天上の女神様ってところかしら」

「人の話聞いてる? 無慈悲に満ちた戦場の死神様だからね」


 黒田君は苦笑いした。そして彼はふと気付いたように私の手元を見る。


「何握ってんの?」

「あ、鞄に入れるの、忘れてた」


 私は拳を開いて手の平に載せた向日葵のピアスに視線をやった。そう、伊藤さんのピアスだ。


「それ、一緒に入れなかったんだ」

「ん。入れるかどうか最後まで悩んだけど、鷹見社長が彼女に返してくれるとも思わなかったし。いつか私の手から返せればと思って」

「づかちゃんがそう望むならそれでいいけど」


 そう言いながらも彼は少し渋い表情を浮かべた。


「深い意味は無いのよ」

「自分がした事を忘れないようにとか思ってないよね」

「だから深い意味は無いってば」

「じゃ、そういう事にしておくよ」


 黒田君は肩をすくめて、少し笑った。



「おはようございます」


 朝の挨拶をしながら秘書室に入り、部屋を見渡すとすぐに違和感を覚えた。そう、今日は随分と秘書室が広く感じられるのだ。

 私は自然と伊藤さんのデスクに目を移した。そこに主の姿は無い。人ひとり姿が見当たらないだけでこれだけ部屋が広く、そして……寂しく感じさせられるものなのだろうか。


「おはよう、木津川ちゃん」

「おはようございます、野田さん」


 ぼんやり部屋を見渡していた私だったが、野田さんから声を掛けられ、はっと我に返った。


「今日は部屋がやけに広く感じられるでしょう。総務課に脚立を返したのよ。誤解も解けたからね」

「あ。そうなんですね」


 野田さんは私の気持ちを読んで、敢えてそう言ってくれたのだろう。それなのに私はつい尋ねてしまう。


「伊藤さんは」

「彼女は先週の金曜日をもって懲戒解雇という形ね」

「……そうですか」

「伊藤さんは鷹見社長が寄越した産業スパイだったのね」


 きっぱりとそう言い切ったのは菅原室長。

 その言葉の強さに私が振り返って室長を見ると、彼女はただ静かにこちらを見つめていた。きちんと線引きしないと駄目よと暗に私を諭してくれているのだろう。

 私が頷くと、室長は笑みを浮かべた。すると澤村さんがそう言えばと話を切り出した。


「本日は情報漏洩が起こったとの事で、鷹見関連の株価が軒並み下がっています」

「そうそう、週刊誌の方でも鷹見社長に袖にされた女性が殺到しているらしいわ。次号ではそんな女性たちとのスキャンダルが掲載されるんだって」


 そう追加するのは野田さん。それは初耳です。さすがに野田さんは耳が早いですね。


「まあ、それは大変ね」


 宮川さんはお気の毒にと、全くそんな素振りも見せずにそう言って微笑む。


「でも情報漏洩とはまさに因果応報というやつですね」


 私は素知らぬ顔して答えてみせた。


「ええ、そうね」

「うんうん。皮肉な事よねぇ」

「悪いことはできないわね」

「一体何が起こったんでしょうね」


 にこにこと意味ありげに笑う秘書様方の視線で徐々に笑みが引きつる。彼女たちはどこからの情報網でどこまで知っているのだろうか。実は誰よりも恐ろしいのでは……。


「え、えーっと。それではわたくし、社長室に行って参りまーす」


 菅原室長はくすりと一つ笑って、さあ行ってらっしゃいと私の背中を軽く押した。



 私は社長室をノックして入る。


「おはようございます、社長」

「おはよう」

「今日は鷹見社長の関連会社の不祥事、新聞のトップを飾っておりますね。ご覧下さい。朝から記念に十社の新聞を買って来ちゃいました」


 私は手品師よろしく、扇型に新聞を広げて見せた。


「あとは週刊誌待ちですね。そちらはまだ発売ではないですけど、近々女性たちとのスキャンダル報道が出るらしくて心が躍ります。ふふん、ざまぁ。女をコケにするからですよ」

「……君はどれだけコケにされたんだ」


 鼻で笑う私に社長はそう呟いた。


「大したことじゃありませんよ。ええ、大丈夫です。さてと、ちゃんとファイリングしておきましょう。これからもスクラップしていくからファイルの一つ、二つは費やしそう」


 呆れた様子の社長を前に私はデスクに一度新聞を置き、頭を下げた。


「それでは社長、今日も一日よろしくお願い致します」

「ああ。よろしく」


 社長はいつものように返事すると笑みを浮かべた。

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