43.ただいま戻りました
その後、ホテルの一室で待機しているはずの社長や黒田君の元へと向かった。
「木津川君っ!」
部屋の前で呼び出し音を鳴らして扉が開かれると、すぐ駆けつけてきたと思われる社長が私の姿を認めてほっとするのが目に入った。
これまでの事が一気に思い出されて泣きそうになる。スパイ疑惑が持ち上がってから、ううん、もっと前からずっと苦しかった。何度も挫けそうになった。それでも社長を信じてここまで何とかやって来た。
有給休暇を取るように言い渡されたその夜、私に電話をしてきてくれた黒田君の横には社長がいた。盗聴器で私がパニックを起こし、黒田君の対応を見かねた社長が彼から電話を一時的に代わったのだ。けれど社長の私を宥める落ち着いた声に余計泣きじゃくってしまった。まだ社長に見放されていないのかと思うと泣けて泣けて仕方が無かった。
その後、黒田君と交わしたメールでも、スパイの容疑者は別にいる事は分かっているという旨とそれを調査中だからもう少し頑張るように書かれており、何とか耐えてきた。有給休暇空けに社長に最終通告を言い渡された時も、頭を真っ白にされた言葉にも、ずっと社長が温かな手で握ってくれていたことで何とか最後まで自分の足で立つ事ができた。
そんな過程を経て、そしてようやく全てを突き詰めて、こうして社長の前に立つのだ。泣きたくなるのも無理がない。社長に飛びついて泣きたい気分にすらなるけれど、そんな気持ちを全て押し隠すように私は冗談っぽく敬礼して言った。
「木津川晴子、ただいま戻りました!」
「ああ。……無事で良かった」
そう言うと社長は強く抱きしめてきて一瞬怯んだが、社長の香りに包まれてほっとする自分がいた。だけど場を冗談で緩めようと思っていたのに、社長の態度のせいで我慢しているのに本当に泣きたくなってしまったではないか。
「……はい。ありがとうございます」
抱き返したい気分になって手を回そうとした時、後ろから遅れて黒田君が現れた。ひらひらと手を振って彼は笑う。うん、雰囲気ぶち壊れだ。だけどここはナイスタイミングと言っておこう。
「おー、づかちゃん、お疲れー。無事だった?」
「この通り、おかげさまでね」
社長は私から離れると、私は私で黒田君に手を広げて見せた。
「とりあえず部屋に入れ」
社長は私と黒田君を促して応接間のソファーに導いた。この部屋も奥にいくつか部屋があるみたいだし、お値段、高そうですね。
私と社長は向かい合わせに、黒田君は私の横に座った。
社長、何で眉をひそめているのですか。も、もしや。こちらの場所が上座になるのですかっ!? 私はやっちゃった感で身を竦めているのに黒田君は何も気にしていないようで、私を改めて見る。
「うん、づかちゃん。とりあえず五体満足みたいだね。むしろよく生きて帰れたね」
「怖いこと言わないでよ」
「本当に何もされなかったか?」
黒田君とそんなやり取りをしていると社長が冷たく瞳を光らせて尋ねてきた。その瞳にどきりとする。さすが瀬野社長、はるかに眼光が鋭いですね。
「……だ、大丈夫です」
「本当に?」
「……はい」
ちょ、ちょっと大丈夫じゃなかったけど。
「え、何なに、何かあった?」
「断じてないっ!」
顔が少し火照るのは怒りのためか、それとも。
「……そっか。あったんだぁ。ご愁傷様です。相手が」
「だからないって言っているでしょっ。と言うか、相手がってどういう意味よ!」
「うんうん、そういう意味。あれ、でもそうか。そう言われてみれば」
黒田君は何かに気付いたようにそう切り出すと、ソファーに座る私の姿を上から下までじろじろと眺めた。そして心配そうに眉をひそめた。
「ごめん、本当だね。今日のづかちゃん、まるで女みたいだもんね? ホント何もされなかった?」
一発ナグっておいた。
「いってーっ。俺の頭は精密機械なんだから丁寧に扱ってよ。って言うか、心配してあげたのに酷い、づかちゃん」
「どっちがよ」
「だって女扱いしなくていいって言ったじゃん」
「だからと言って男扱いしろと言った覚えは無いわよ」
頭を押さえている黒田君につんと顔を背けた。
「全て返すわよ。最初、無職になった暁には手切れ金代わりに売って生活の足しにでもしろと言われたけど、あなたこそ事業の足しにでもしろと返事しておいたわ」
「うわぁ、何よりの強烈な切り返しパンチだね。うん、づかちゃんのパンチは強力」
黒田君は自分の頭をさすりながらそう言った。すると社長がこちらを見ているのに気付いた。
「何ですか? 社長まで似合っていないと言いたいんですか。分かっていますよ、すぐ脱ぎますよ」
「いや……」
社長は一瞬言葉を切る。そして少しためらいがちに続けた。
「……似合っているんじゃないか」
「っ!?」
社長の不意打ちの毒矢がどストレートに心臓に突き刺さった。その毒が身体に回って熱が上昇しだす。普段皮肉しか言わない社長の言葉だけに直球の言葉には重みがある。
「あ、あり、ありがとうございます」
「いや。……ただ、鷹見社長が選んだというのが気に入らないが」
「え」
呟く私と共に辺りが何だか沈黙に落ちる。そんな中、少し居心地悪そうな声が響いた。
「あのー、俺さ、もしかして邪魔? こう見えても一応空気を読める人間のつもりなんだけど」
「い、いや、そんな事あるわけ全然無いしっ! そ、そうだ。それよりこっちの方はどうなったの?」
ああそれはと言って黒田君が社長に視線を向ける。
「社長が警察対応を含め、迅速に処理をしてくれたよ」
「そうですか。ありがとうございます」
息を整えた私は社長に向かって深々と頭を下げた。
しかし警察とも繋りがある瀬野家とか怖すぎます。そう言えば思い出したぞ、悠貴さんの友達の紺谷敬司。確か彼は警察官僚の息子だったわね。その辺りの繋がりもあるかも。
「君には色々苦労をかけた」
「……いえ」
「そう言えば社長、言いました? づかちゃんに休みを取らせた本当の理由」
「え?」
私が黒田君に振り返ると、彼は腕を組んで呆れた様に小首を傾げる。
「言ってないんですね。社長、言葉が足りないですよ」
「どういう事?」
「うん。今はまだ内々に収めているけど、もし次の商談まで流れる事になったら、今度こそ他の社員からづかちゃんに疑惑の目が向けられると思ったからなんだって」
「あ……」
「俺が社長に抗議したら、やっとそう口を開いたんだよ」
私が社長を見ると、社長は気まずそうに視線を少し外した。
「力量不足がゆえの言い訳にしかならないからな」
「俺なら自分の保身の為に、目一杯言い訳しますけどね」
……社長は本当に不器用な人だ。思わず頬が綻んだ。
「それにしてもですね。有休を取るように言われた時はまだ何も知らなかったからですけど、身辺整理しろと社長の無表情顔で言われた時は本気で怖かったですよ。凍りつきました」
本気で縋り付きそうになったぐらいだ。今、思い出しても寒気に襲われる。
「当たり前だ。君の軽率さに本気で怒っていたからな」
少し厳しい声になってびくりと肩が跳ねた。
うわっ。ほ、本気で怒っていらっしゃった……。も、申し訳ございません。
「またまたー。社長、男の嫉妬は醜いですよー」
黒田君がなぜかそんな事を言うと、社長は彼に刺すような視線を向けた。
「おおっと! だから怖いですって。あ。ああ、そうだ。それより社長、俺も労って下さいよ。づかちゃんの休暇中、スパイの洗い出しに散々奔走させられたんですから」
社長はため息を吐き、少し視線を落とした。
「助かった。感謝する」
「うーん、もう一声!」
「……特別手当を出そう」
「ありがとうございまーす。というわけで、づかちゃん」
黒田君の視線は私に移された。
「俺にも感謝するように。づかちゃんの為に残業した揚げ句、出張なんて俺にとっては前代未聞だよ?」
「うん、サンキュー」
「俺の扱い軽いな、おいっ!」
「冗談冗談。ありがとね、黒田君。本当にあなたのおかげよ。色々お世話になったわ」
「うん、分かればよろしい」
頭を撫でてやると満足そうに頷く黒田君。
黒田クン、あなたって……犬みたいですね。可愛いですけど。
「ところで……彼女ですが」
「ああ、こちらとしては産業スパイと窃盗として伊藤加奈君と森中麻衣子君他を告発するつもりだ。会社情報では無く、君の個人用情報の送信だった訳だが、会社の端末だと勘違いして送信したわけだから何とかなるだろう」
何とかなるだろうではなく、何としてでも産業スパイとさせてみせる、ですよね? でも会社の機密情報流出というわけではなかったので、刑はもしかしたら軽いかもしれない。けれどどうせ彼女らも鷹見社長にトカゲの尻尾切りをされる事は間違いないだろう……。
……ん、って、あれ? でも、何か今引っかかったような。確か社長は今――。
「社長、今、森中? さん? って言いました?」
「ああ」
「……って言うか、誰それ。そもそも誰ですかその人?」
そんな人、いきなりどこから出てきたの?
「総務課の森中麻衣子君だ」
総務課? あ、そうか。脚立の一件。噂の出所は彼女だったのか。もしかすると森中さん自身が秘書権限で指示してきたと課長に言ったのかもしれない。浦本さんは内々に収めていたつもりだったけれど、森中さんがそうしたなら漏らす事ができるに決まっているわよね。って、いやいや。そうじゃなくて。
「ええっと。では何が誰がどれでどうなって……えっと?」
「話を簡単にまとめると、君の噂を流したのは森中麻衣子君だ。秘書の仕事に関わるミスを誘発したのは伊藤君と言うことだ」
ああ、なるほど。簡単で分かりやすいね、さんきゅー……。森中さん、は知らないけど、とにかく二人が共謀していたということだろうか。何だかぼんやりする。
「づかちゃん、大丈夫?」
「え? ええ、ああ、うん、あんまりよく……」
苦笑する黒田君に何とか受け答えする。
それにしても、森中? どこかで聞いたような、聞いていないような……。もりなかまいこ。手帳を取り出して、ローマ字で書いてみる。
「……づかちゃん、何してるの?」
「いや、彼女の名前は犯人の名を示すアナグラムになっていたのかと思って」
「推理小説の世界じゃないんだから」
呆れている黒田君に私は反論する。
「何言っているの。産業スパイまで出てくるし、何より彼女の登場なんて欠片もなかったんだから、アナグラムぐらいやってもらわないと。――ちっ、ならないわね。ああ、だから現実って理不尽で嫌よ」
手帳を放り出して、腕を組んでむすっとする。
「……どういう理屈だよ」
肩をすくめる黒田君に苦笑しながら社長は続けた。
「それと彼女を中に引き入れた人物も特定したので、その人物も同様に処分させてもらう」
ああ、彼女一人の犯行では成し得ない事も多かったものね。他にもやはりスパイがいたのか。
「あの営業部の藤崎さんですか?」
階段から落ちた私を医務室に連れて行ってくれた彼だ。
「いや、違う。人事部の人間だ」
「え? では藤崎さんは?」
「彼は本当にたまたま君と彼女との言い争いを目撃しただけだ」
「え? 彼は本当にいい人なだけだったのですか!? 下の名前まで出て来たのに!?」
少し、いえ、かなり怪しいと思っていました。ごめんなさい。医務室のお姉さんがおっしゃっていた通行人Aか、野次馬Aが正解でしたね。……でも、あれ?
「でも社長、藤崎さんは私が伊藤さんを責める言葉を口に出していたと言っていましたよね。本当に彼が会話を聞いていたなら、そんな内容ではなかったと分かるはずで――」
私は目を吊り上げて社長を見る。
「私に嘘吐きましたね?」
「…………」
「しゃ・ちょ・お?」
回答によっては私の黄金のぐーパンチが炸裂しますよ?
にっこりと睨み付ける私に社長は少しため息を吐いた。
「彼は伊藤君が君を陥れるような不穏な話をしていたと言っていた」
「やっぱり! じゃあ、どうしてあの時そんな事を?」
「伊藤君の主張が彼の話と違ったからな。元々不審を抱いていた伊藤君に君をこれ以上関わらせるのはまずいと判断した」
「あ……」
彼女から私を引き離す為に彼女の意見を取り入れたのか。私は記憶を失っていたし、仕方がないとは思う。……でも結構胸に堪えたんですけど。
「……悪かった」
拳の行き所が無く、私が怒るにも怒れない微妙な顔をしているせいか、社長は謝った。
謝ったことだし、社長も私の身を案じての事だったから許さざるを得ないだろう。
「いえ。……ありがとうございました」
そう言うと社長は少し表情を緩めた。
「でもどうして彼女たちは寝返ったんでしょうか。やっぱりうちはブラック企業だからでしょうか」
「ブラック? 俺は普通にホワイト企業だと思うけど?」
そう答えるのは黒田君だ。
「え、だって。残業とか多いでしょう。あなただって四六時中、仕事に縛られているじゃない」
「別に俺にとっては苦じゃないよ。待遇いいと思うし、福利厚生も充実しているし、休みだって普通に有休を申請したら取れるみたいだし。まあ、自分は今まで取って来なかったけど」
「でででもっ。どどどっ土日とか休み結構ないよね!?」
「あるよ? づかちゃん、ないの?」
ないよっ! ほとんどないよっ! 何!? 私だけブラック!? 私だけブラック対応なんですか!?
私はキッと社長を睨み付けた。
「社長秘書は社長と一緒に動いて回るものだ。俺が仕事の時は君も仕事だ」
本気でそう思っているなら、視線を外して言わないで真正面から言って下さい!
私が社長を睨み付けていると、黒田君がまあまあ、話を戻すけどと口を挟んだ。
「途中からの引き抜きもあるだろうけど、最初から潜入させる場合もあるね。そして信頼を得たところで情報を横流しってね」
「それって情が移ったり、罪悪感が生まれたり、とかないのかしら」
「あったら引き受けないんじゃない?」
まあ、確かにそれもそうよね……。
「森中君や伊藤君はスパイと言うよりは鷹見社長に利用されていたんだろうな」
「……あー」
そうか。森中麻衣子さん。きっと鷹見社長の色香に釣られたんだろう。彼に頼まれて、彼女は精神的に追い込もうと私の噂を流していたんだね。鷹見社長の願いを聞けばそれ以上の関係を望めると思って私を売ったのだろう。
そして伊藤さんもきっと同じ理由で。彼女は恋愛というよりは人として心酔していたようだけれど。
色々ありすぎて神経が麻痺しているのかもしれない。言葉だけが頭に入ってきて、心まで到達しない。ああそうなんだと思うだけだ。ただ一つの救いは、森中さんの事は何も知らないという事だ。知人じゃなくて良かったと思う。同じ総務課でもこれが浦本さんの仕業だったらハートブレイクどころの話じゃなかったよ……。良かった。
「……木津川君」
「社長、私は大丈夫ですよ。大丈夫」
社長の気遣わしげな声に私は微笑した。そして場の空気を変えるために手を打った。
「ああ、そうだわ。伊藤さんとの会話の時に携帯のボイスレコーダー起動させておいたのですが、念のため一応再生してみましょうか。あまり役に立ちそうにない会話ではあったのですが」
「……ああ、頼む」
私は携帯を操作した。




