41.ゲームの敗者
もうディナーを開始して一時間以上は経っただろうか。
話が弾み、最後のデザートがやって来てコース料理ももう間もなく終わりを迎えようとした頃、鷹見社長が時計をちらちら気にし出したのが目に入って尋ねた。
「随分とお時間を気にしていらっしゃるようですが、もしかしてこの後、ご予定がおありですか?」
「そうでは――」
彼は言葉を一度切ると、一つ喉の奥で笑った。
「いや、そろそろだな。木津川さん」
「はい」
「初めて俺と会った日の事を覚えている?」
「はい、もちろん」
タルト泥棒。
「実はね、君の噂は前々から伺っていたよ」
「……え?」
「冷たき容貌の瀬野社長の表情を唯一緩ませる女性秘書って事でね」
そう言えば門内さんがそのような事を言ってくれたかもしれない。瀬野社長の雰囲気を柔らかくすると。
「瀬野社長とはね、ほとんど同じ年齢だからそれこそ学生の頃からよく比べて来られたよ。社会人になってからもそうだ。冷淡な瀬野貴之に情炎の鷹見一樹とね」
なるほど。世間の評判も真逆のようだ。
「以前、瀬野社長が婚約者と破局になった話をしたよね」
「はい」
「あの相手の男は俺だよ」
「なっ……」
思わず目を見張った。瀬野社長の婚約破棄の原因が鷹見社長と言った?
「ただね。瀬野社長は俺が彼の婚約者を奪った後で、社長会合の場で俺と顔を合わせても表面上は眉一つ動かさなかったよ」
人の婚約者を奪ったと随分と軽く言うのね……。でも今も鷹見社長は独身のはずだ。
私の考えを読んだのだろう、鷹見社長は笑った。
「ああ、その彼女の事? その後すぐに別れたよ。彼の反応があまりにも淡白で面白くなかったからね」
「っ!」
まるでその言い方、瀬野社長の反応を楽しみたいが為に彼女を奪ったみたいな……。
「だからね」
鷹見社長がそう言って、私の気を引き戻す。
「だから眉唾だったよ。女性の心は移ろいやすい。簡単に男を裏切って足を引っ張る。瀬野社長はそう痛感しただろうと思っていた。実際、あの後少なからず株価に響いたみたいだし。だから彼の女性秘書の噂がね、信じられなかった。そもそも、あの表情筋が凝り固まった瀬野社長を変える女性などいるのかとね。噂が本当ならどんな人物なのかと興味があった」
「……実際に会ってみていかがでしたか」
「面白かったね」
「面白かった」
なぜ私は面白いだの、変だのの枕詞しかつかないのか。
「初めて会った時の君は俺に対して余りにも無関心だった。おまけに挨拶の手を振り払われたし。まあ、反面、結構プライドも傷つけられたけどね」
「すみません」
あの時はタルト命でしたから、と言えばさらにプライドを傷つけてしまうだろうか。
「でもね、会場で見た君は確かに瀬野社長の雰囲気を柔らかくしていた。瀬野社長にとっても特別な人物なのだと分かったよ」
「……はあ」
そうだろうか。初めて会ったあの日、瀬野社長も私の存在を空気と化していたかのように扱っていたと思うのだけれど。
「だからね」
鷹見社長は再びそう言うと笑みを深めた。
「そんな君を瀬野社長から奪ったら彼はどんな顔をするだろうと思った。そして俺に無関心だった君は俺が接触する事でどう変わるだろうとね、そう思った。結果、君はゲームオーバーだよ、木津川さん」
「ゲームオーバー……」
うまく頭が回らない。つまりこの現実は乙女ゲームの世界ではなく、私は鷹見社長が作り上げたゲームの世界の登場人物だったという認識でいいのだろうか。
「君が俺のパートナーになって、会社の社長秘書に据えるという話だが」
「ええ」
「悪いが、君との口約束は白紙に戻してもらう」
鷹見社長は一方的な約束の白紙に対して詫びる様子を見せるどころか、笑みすら浮かべている。
「……なぜ、とお聞きしても?」
喉の奥が段々と熱くなる。
「驚かないんだな」
「驚いております。ただ、秘書は動揺するなと常日頃から申しつかっておりますので」
「そうなんだ。君の驚く顔が見たかったんだけど。残念だ」
何と皮肉な言い方だろう。一般的には相手が喜ぶ時に使われる言葉だけれど、こういう使い方もあるのかとぼんやり考える。
続けて、鷹見社長は口元に薄く笑みを浮かべた。
「理由は君がその辺りの普通の女と何ら変わらない女だと分かった事と、それを上回る利用価値も無くなったという事だ。見限らせてもらうよ」
「利用価値……とは?」
声が震え掠れ声になってしまう。フォークとナイフを握りしめる手に力が入る。
「もっと君は賢明かと思っていたよ。人間の裏を読めない。まあ、それが君の良い所で悪い所か」
「……おっしゃっている意味が分かりません」
鷹見社長は今度こそ嘲笑の笑みを浮かべてみせた。
「普通、引き抜きの話がある場合、会社にとって有益な何かしらのものがあるからだろう。優れた才能を持つ人間とかね。それでは君は? そう、社長秘書である君は会社の機密情報を持っている」
「わ、私はどこに行こうが、機密情報は決して漏らしません」
「そうだね。普通男女関係になると、女性はあっさりと情報を漏らしてくれるものだけどね、君は男女関係に対して警戒心が高かった。もう少し時間をかけても良かったけれど、俺の駒が思いの外、役に立たなかったんだよね」
駒……。それはもしかして伊藤さんの事を言っているのだろうか。人の上に立つ人間が使うと何と傲慢な言い方になるのだろう。
「せっかく自分が作ったシナリオを単なる駒に無茶苦茶にされるのは許せないな。だが、計画を変更せざるを得なくなった。少しは君にも女としていい思いをさせてあげたかったんだけどね。駒が悪かったね。ごめんね」
きっと、もう少し時間をかければ私など落とすことは容易かったと言いたいのだろう。屈辱で顔が紅くなる。
「……あ、あなたが作ったシナリオとは瀬野社長を傷つけ、私から情報を引き出した後は辞職に追い込み、そして瀬野コーポレーションに損害を与えるつもりだったという事ですか」
「これはゲームだと言っただろう。一番の目的は瀬野社長から信頼する部下を奪い、君を俺の足下に跪かせるって事だったんだよ。瀬野コーポレーションの損害はその副産物。まあ、正直な話、このゲームをするのにそれなりにお金を使っているから回収するつもりではあったけどね」
全てはこの人の遊びの為にここまでの事を……。愕然とした。
「で、でも失敗ですね。わ、私は我が社の機密情報は決して漏らしません」
「我が社? 瀬野コーポレーションの情報を横流しした事になる君が?」
「横流し? 私が横流ししたと……? なぜそんな事……」
震える身体は恐れのためか、怒りのためか、分からない。
「なるほど。まだ気付いていないんだな。今頃俺の部下が君の鞄に入っている端末からうちのコンピューターに情報を送る準備をしているだろう。ここまで言わないと分からないなどと、君をどうやら過大評価しすぎていたらしい。俺も鈍ったものだな」
「わ、私が重要な情報を端末に入れて持ち歩くとでも思っていらっしゃるのですか。精々スケジュールしか入っていませんよ」
「現在の顧客や取引企業情報、進行状況だけでも十分だ。ああ、使い道がなければ本当に情報漏洩って方法もあるかな。瀬野コーポレーションの評判はがた落ち。名実ともに君は裏切り者になるってわけだ」
思わず目を見開いた私に鷹見社長は面白そうに笑った。
「まあ、さすがにそこまではしないよ。こちらも必然的に明るみに出るし、何より俺も鬼じゃないからね。これでも付き合っている内は女性に優しいんだ。安心するといい」
「で、ですが。た、鷹見社長の会社でもそうでしょうけれど、他社に情報を持ち出すことが出来ないようアクセス制御されています。む、無駄骨でしたね」
これは最初から想定している事のはずだ。けれどそう言わずにはいられない。
「ご心配ありがとう」
案の定、鷹見社長はせせら笑った。
「うちには優秀なシステムエンジニアがいるから問題ないよ」
それは彼を超えるシステムエンジニアだろうか。冷たい汗が流れる。
「なぜ……なぜそんなに瀬野社長を敵視するのですか」
「敵視ねぇ。まあ、敵には違いないな。日本経済を支える財閥同士と言ったって、仲良しこよしじゃないからね。仕事の上ではライバル社だ。これはゲームのつもりで始めたけれど、相手の弱点を突いて蹴落とした意味ではビジネスとして理にかなっていたね」
「弱点……」
「おや、ここまで来てまだ自覚がないのかい? 君だよ、木津川さん」
「っ!」
相手を見下し、蔑み笑う今の姿こそが彼の本性なのだろう。普段は人好きのする仮面を被せている彼の。
そしてさらにとどめを刺すように言葉を投げかけてきた。
「でも君には本当に失望したよ。もっと俺を楽しませてくれるかと思った」
「……え?」
「前秘書の門内さんだっけ? 彼は脅威だったから手を出せなかったけど、君が相手じゃ取るに足りなかったね。瀬野社長も愚かだな、君のような人間を社長秘書に据えるなんて。血迷っていたとしか思えないよ」
彼は言葉通り、一番弱い点を的確に狙って攻撃して来る。ずくりと言葉が突き刺さって心を抉り、痛みに胸を押さえる。
鷹見社長は腕を伸ばすと、私の頬に壊れ物を扱うような優しい仕草で触れて愉悦そうに笑った。
「いいね、その表情。女性は絶望に堕ちる姿が一番美しい。ぞくぞくするよ」
「……っ、何て人っ!」
睨み付けて鷹見社長の手を振り払うと、彼は少し眉をひそめ、ため息を吐いた。
「そんな反抗的な顔は嫌いだね」
「……こんなやり方で。こんな卑怯なやり方で瀬野社長に勝って満足ですか」
「ああ、満足だね。大満足だ」
「あ、あなたと言う人はっ!」
「お静かに。場を弁えようね、木津川さん。いい大人が取り乱しては悪目立ちするよ?」
「っ!」
その時、鷹見社長の携帯が鳴った。
「ああ、いいタイミングだ。どうやら解除が終わったらしい。君の役目もここまでだ。君は面白い女だと思ったからもう少し聡明なら俺の側に置いてやったんだけどね。ただの愚かな女に成り下がった君には興味が無くなった。でも今日の装い一式は一方的な約束破棄の賠償金として君にあげるよ。まあ、本契約していないから本来は必要ないんだけど、君はこれから困るだろうし?」
「え……?」
一体何が言いたいのか。
「まさか素直に総務課へ行くつもりなのかい? 社長秘書をやっていた人間が総務へ異動となるとどんな噂を立てられるか分からないのに。噂の怖さを一番身に染みて知っている君がまさか、のこのこと総務へと異動しないだろう?」
確かにそうだ。総務課へと異動させられるくらいならいっそうの事、次の職のあてが無くても辞職した方がましだろう。
「だから今日の服やらアクセサリーを売って少しは生活の足しにするといい。俺の慈悲だよ」
「……そうやって、これまで同じように女性を利用しては切り捨てて来られたのでしょうか」
「何の事かな」
彼はそう言って笑うと携帯に出る。
「アクセス制御の解除はできたか? ――ああ、ご苦労。送信を開始してくれ」
鷹見社長がこちらに笑みを向け、私は手を強く握りしめた。




