40.鷹見社長とディナー
「木津川さん」
「え。鷹見社長?」
仕事の帰り道、車の運転席から声を掛けてきたのは鷹見一樹社長だった。彼は車道を確認して車から降りて来ると、私のいる歩道へとやって来る。車種も車の価値も私には全く分からないけれど、仮に国産車だったとしても高級カーの部類なのだろう。
「こんばんは、木津川さん。ディナーのお誘いをしたいと思って来たんだ」
「え。で、でもお昼のお電話では日曜日にお会いするお話でしたよね」
「そうだったんだけど、君の電話を受けて嬉しくてやっぱり早く会いたいと思ってね。衝動的に来てしまった」
何の予告も無く、本当にいきなりですね。しかし、仕事帰りにディナーのお誘いと言われても困ってしまう。鷹見社長がまさか私を庶民御用達の居酒屋に連れて行くはずがないだろうから、それなりの装いが必要なはずだ。
「でも。私は仕事着ですし」
「心配ないよ。俺に任せておいて。さあ、行こう」
強引な人だなと思うことはあっても、それが板に付いていて、苦笑いしながらでもそれに従ってしまうのはきっと彼の天賦の魅力なのだろう。
「分かりました」
「まずは君のドレスコードを合わせに行こうか」
「え、あ」
返事をする前に肩を抱かれて、車の助手席へと導かれた。今回は後部座席に押し込まれなくて済みそうだ。
車で連れて行かれた所は美容室から高級ブランドショップに至るまで。私に合うようにと店員に任せ、あれよあれよと言う間に着飾らされた。
頭は夜会巻きにされ、プロによるメイクを施され、服はパーティードレス程の派手さはないが、一見して高級品と分かる上品なドレスを着せられた。まさに上から下まで一流の装いで、果てにはアクセサリーや高級バッグまで持たされて、身に付けている物だけは高級品で揃えられている。
しかしそんな煌びやかな出で立ちの一方で、自信なく不安そうに鏡を覗き込む自分とは明らかに乖離がある。服やアクセサリーに食われていると言う表現が相応しいだろう。もちろん周りの店員さんはとてもお綺麗ですと月並みのお世辞を言ってはくれるが、とても似合っているとは思えない。
「あ、あの。着ていたスーツですが」
「はい。こちらにお持ち帰りのご準備をしております」
スーツはブランドショップ名が入った紙袋へと綺麗にビニールで包まれて収められていた。もしかしたら自分のスーツ一式よりもこの紙袋の方が価値は高いんじゃないかしら……。ははは。自虐的になる。
店員さんに促されてフィッティングルームを出ると、鷹見社長が椅子に掛けて女性店員さんを口説いていた。口説かれている方も満更では無さそうだ。
おいおい、何をやっているの。これが瀬野社長相手なら、すかさずツッコみを入れているところだよ? もっとも瀬野社長は少なくとも女性、それが私であっても、一緒にいる時に別の女性を口説くなんて不誠実な真似は間違ってもしないけれど。
そう思いながら彼を見ていると、私に付き添ってくれていた店員さんが慌てて駆け寄り、私の準備が出来た事を鷹見社長に告げる。そしてその女性店員さんを窘めていた。私の存在にようやく気付いた彼は悪びれる様子もなく、立ち上がってこちらへとやって来た。
「とても綺麗になったね、木津川さん。元々君は素材が良いけどより磨かれたよ」
瀬野社長なら少し笑って馬子にも衣装だなとでも言っていたかもしれない。さらりと女性を褒められる鷹見社長はさすが女性に手慣れている。そんな男性の善し悪しはともかく、褒められて怒る女性はいないということで。
「……ありがとうございます」
視線を落としながらも、こちらも素直にお礼を言える。
「と、ところで。あ、あのこのお代」
問題はそこだ。全額を一括で請求するとか言い出されたら卒倒できる自信はある。私が欲しいとねだったわけではないので、後で返すとかで許してもらえるだろうか。
「何言っているの。俺がお金を請求するとでも? 俺からのプレゼントだよ」
「そ、そんな。と、とても頂けるものではありません」
「男に恥をかかせては駄目だよ」
「で、ですが……」
「それに女性は綺麗になる義務があるからね」
権利じゃなくて義務? 随分と大胆な持論だ。
「美や一流を追求するためにはそれらの物を見て、着て、感じて、その世界にどっぷり浸かり込む必要がある。本当の意味でそういった物を身につけるにはそれらを知れということだよ」
鷹見社長の側にいる人はそれが求められているという事だろうか。
「じゃあ、こうしようか」
「は、はい。何でしょう」
何だろう。何を請求される? こくんと喉を鳴らしてしまう。
そんな私を見て鷹見社長は笑う。
「これからの君の時間をこれで買った事にしよう」
「そんな。でも――」
「ほら。じゃあ、行こう。予約しているんだ。――さあ、行きましょうか、お姫様」
彼は片目を伏せて笑ってみせた。ああ、そう言えば次はお姫様のようにエスコートすると言っていたわね……。
「……はい」
相手に思考する暇を与えまいとするかのように、鷹見社長は次々と女性を引っ張っていくタイプのようだ。
さらに車で移動する。私は少し不安になって鷹見社長の顔色を窺う。
「どこへ向かっているのですか?」
「俺が贔屓にしているお店だよ」
「……そ、そうですか」
私の表情から何かを読み取ったのだろうか。彼は少し笑った。
「不安?」
「え? ……ええ」
私は素直な気持ちを吐露する。
「緊張しております。普段このような服を着たり、アクセサリーを身に付けたりすることはございませんので」
「瀬野社長にこういうのをプレゼントされることはないの?」
鷹見社長は運転しながら横目でこちらを見る。その流し目もまた魅力的ですね。
「ございません。社長と私との関係は上司と部下ですから、プレゼントを頂くいわれはありません」
「ふーん。そっか。瀬野社長は勿体ない事をしているね。こんな綺麗な君を知らないんだ? 俺は役得だね」
お世辞にしても鷹見社長の半分でも女性を喜ばせる言葉を口に出せたら、瀬野社長は向かうところ敵無しになるのではないだろうか、などとぼんやり思う。一方、自分については何をどう答えていいものやら、少し笑って誤魔化していると携帯が鳴る音が聞こえた。
今し方鷹見社長が購入したバッグから携帯を取り出すと操作する。少し派手目のピンク色のカバーを付けた携帯だ。私に似合っていないとかうるさいですよ。
「誰から? お友達?」
赤信号で車を止めている彼は私の携帯に視線を寄越した。
「あ、いえ。申し訳ありません。親に一日一度は必ず連絡しろと言われているんです。携帯、少しよろしいですか?」
「もちろんいいよ。そう言えば君は一人暮らしだったね。嫁入り前の君にご両親も心配だろう」
「……そうですね」
携帯操作が終わり、バッグにしまい込むとまた携帯が鳴る。今度は黒のカバーが掛けられた携帯からのメール着信だ。
「あ」
「会社から?」
「……伝達事項みたいですね」
「急ぎの用?」
「え、いえ。でも返信を――」
携帯を操作しようとしたら、鷹見社長の腕が伸びてきて携帯を持つ私の手に被せてきた。
「だったら仕事の事は忘れて、今は俺の事だけ考えて」
胸に忍び込む低音ボイスにどきりとした時、鷹見社長の手が私の肩に置かれ、顔が近付いてくる。
――っま! せっ。
唇が重なるまで数センチといったその時。
後ろから催促のクラクションが軽く鳴り、反射的に社長を押し返して距離を取った。
……思わずほっと息を吐く。
鷹見社長は色気を全面に押して来るお人だ。そう言えば以前もそういう事があったな。あの時は素で押し返していたけど、こんな場面が何度もあったらその内、対応できなくなりそうだ。……って何、いらない事を考えているんだろ。
自分の考えに羞恥心がむくむく湧いて来た。
「た、鷹見社長、あ、青です。参りましょう」
「……そうだな」
頬を上気させて俯く私の一方、鷹見社長は軽く笑って車を発進させた。
到着したのは高級ホテルのエントランス。どうやらこのホテル内のレストランらしい。
促されて車から降り立つと、高級感溢れるホテルの雰囲気に飲まれそうになってしまう。瀬野社長の付き添いでこういうホテルに訪れることはあるが、ゲストとして参加したことはないのでまた違った緊張感が生まれる。
「行こうか」
「は、はい」
鷹見社長が車のキーをドアマンに渡したところで、はっと気付いた。うっかりする所だった。
「お、お待ち下さい」
「え?」
「車の中に荷物を置き忘れておりました」
私は車内の荷物を慌てて手に取ると、鷹見社長は何だそんな事かと笑う。
いえ、私にとっては笑い事じゃないんですよ……。何せ機密情報とまでは言わないが、会社の情報が入っている端末を鞄の中に入れているのですから。
「ベルスタッフに部屋まで運んでもらうから心配なかったんだけどね」
そう言いながら彼は私の荷物を取り上げた。
「……え?」
部屋って、どこの部屋に?
きょとんとしている私に鷹見社長は笑みを浮かべた。
「木津川さん、明日は休みだよね」
「……え? あ、は、はい。そうです」
「だったら今日はこのホテルに泊まって行くだろう?」
「……え?」
このホテルに? ……誰と?
言葉の意味をようやく理解して動揺が隠しきれず、思わず顔が強ばってしまった。
その私の表情を見た鷹見社長は吹き出した。
「シングルだから心配しなくて良いよ。普段頑張っている君にプレゼント。俺が君を部屋に連れ込むと思った?」
「……あ」
途端に頬が上気する。うわぁ、自意識過剰だったわ。
「青くなったり赤くなったり忙しいね」
くすくす笑う鷹見社長を少し睨み付けてみた。これはわざとだな。してやられた感が悔しい。……あ、でも。
「部屋に置いて、もし泥棒にでも入られたら大変ですから持って行きます」
「このホテルではセキュリティに関しては万全の対策を取っているから心配する事はないよ」
確かに仕事の鞄と着替えの紙袋の両方だから、大荷物になってしまうのは否めないが……。
「いつも俺も部屋に置いているから大丈夫」
「私物だけならまだいいのですが、仕事道具が入っておりますので。わたくしには情報の守秘義務がございます。できるだけ側に置いておきたいのですが」
「ああ、なるほどね。分かったよ。ではレストランのフロントに預けようか?」
レストランのフロントか。まさか中に持って入るわけにもいかないから仕方がないかな。
「申し訳ございません。ありがとうございます」
私と鷹見社長が半々で折れた形となった。
「いや。確かに社長秘書になってもらうのなら、それぐらいの用心深さでいてもらわないとね」
「……秘書は慎重に慎重を重ねるよう言われておりますから」
「じゃあ、預けるよ」
「ええ、お願い致します」
レストランに着いて、鷹見社長がフロントへと鞄を差し出す。私はそんな社長に向かって歩き出そうとして。
「痛っ!」
しゃがみ込んで、足首の辺りを押さえた。
「木津川さん!?」
「すみません、大丈夫です、鷹見社長」
振り返る社長に軽く手を挙げて苦笑を向けた。近くにいたフロントマネージャーさんと思われる人物が素早く駆け寄って来てくれて手を貸してくれる。
「お怪我はございませんか?」
「ええ。あ、あの。ありが――」
少しよろけた私を支えて立ち上がらせてくれて、小さく頷いたマネージャーさんにもう一度お礼を申し上げた。
「ありがとうございました」
「とんでもない事でございます」
私は一つ会釈して、鷹見社長の元へと向かう。
「お待たせ致しました」
「大丈夫かい? そう言えば足を捻っていたんだよね」
「ええ」
「手当してもらう?」
「いえ、少し癖になっていただけで、もう治っているので大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳ございません」
「そう? じゃあ、行こうか」
「はい」
ホールスタッフに先導されて着いた席は夜の煌びやかな光が見える窓際だ。思わず外の美しさに見とれてしまう。店内の人々も皆、それぞれどこか気品立つ所作で食事を楽しんでいる様子だ。さすがに鷹見社長はこの店が持つ格調高い雰囲気に飲まれないだけの貫禄を放っていて、さり気なさを装いながらも女性方の目が集まっている。
「とても素敵な所ですね」
「君にも気に入ってもらえて良かったよ」
「た、ただ、ですね。鷹見社長に女性の皆さん方が注目されているので、こちらまで緊張してしまいます」
女性の目というものはどうしても素敵な男性のみならず、その側に控える女性にも行くものだ。我知らず顔を伏せてしまう。
「顔を上げて、木津川さん。もっと自信を持って。君は綺麗だよ」
「……あ、ありがとうございます」
それでも顔を上げない私に鷹見社長はくすりと笑った。
「それにほら、顔を上げないと食事できないよ」
「あ」
その言葉に顔を上げると鷹見社長と目が合って笑う。
「それもそうでした」
「肩の力を抜いて楽しんで、この場を」
「……はい。ありがとうございます。今日は鷹見社長のおかげで最高の日となりそうです」
「そう。それは……良かった」
再び鷹見社長と笑みを交わす。と、その時。
「きゃっ」
側を通るホールスタッフさんがバランスを崩し、トレイに載せていた水の瓶を倒して私の服にほんのわずかだが掛かった。まるでこの和やかな雰囲気に、まさに冷や水を掛けられるような出来事のようだった。
「も、申し訳ございませんでした。すぐに処置させて頂きます、こちらへどうぞ」
スタッフさんが誘導の手を見せた。
「い、いえ。大丈夫です。ほんの少し掛かっただけですから」
「いえ、こちらへどうぞ。ご案内致します」
「そ、そうですか。鷹見社長、少し失礼してもよろしいでしょうか」
私はちらりと社長を窺い見る。彼はすぐに頷いて笑みを見せた。
「ああ、もちろん。行っておいで」
「ありがとうございます。それでは少し失礼致します」
「ああ」
そして私はホールスタッフさんの誘導のもと、席を立った。
「災難だったね。君にとって最高の一日とはならなかったようだ」
戻って来た私に鷹見社長は苦笑した。
「いいえ、とんでもない事です。とてもサービスの行き届いた一流店だと思いました。さすが鷹見社長がご贔屓にされているお店ですね」
「そう? それなら良かった。不手際があってもすぐに信頼を取り戻すどころか、更なるサービスでお客様を満足させる事ができるお店は一流の証拠だね」
「ええ。とても参考になりました。今後に役立てたいと思います」
「真面目だね、木津川さん」
「それだけが取り柄ですので」
「そんな事ないよ」
そうか。じゃあ、今すぐ私の長所を述べてみよ。さあ、さあ、さあと衿を掴んで詰め寄りたくなる。……って、しないけどさ。
私の考えが顔に出ていたのか、鷹見社長は言った。
「君は興味深いよ」
はあ。どうも、とでも言えばよろしいでしょうか。女性に対する褒め言葉ではないですね。いえ、別に褒められる所はないんですけど。
「今まで俺の周りにはいないタイプ」
もういいです、私のライフはゼロよ……。
私はライフを回復させる為に、早くお料理が来ることを願うばかりだった。




