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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
39/57

39.残された道はただ一つ

 その日の夜、家に黒田君がやって来た。お茶でも入れるから上がってと言うと、彼は少し苦笑いして玄関口で大丈夫と断られた。


「黒田君、色々ありがとう。お医者さんに診せてもらった上、実家にまで連れて行ってくれて。……休日往診してくれる先生にお知り合いがいるのね」


 そう言うと黒田君は笑みを浮かべる。


「実家ではゆっくり休めた?」

「うん。むしろ休み癖ついちゃいそう」

「そ。良かった。じゃあ、これね」


 黒田君が差し出したそれは盗聴器型のペンだった。反射的に顔が青ざめる。


「元に戻しておいた。これを持って、明日、社長と対決しておいで」

「黒田君……」

「俺は何があっても、づかちゃんの味方だからさ」

「ありがとう」


 震える手でそれを取り上げた。



 次の日。出社すると秘書さん方が一斉に駆け寄ってきた。


「先輩、今日から出社ですか?」

「命拾いしたわーっ。もうあなたがいなくて本当に大変だったんだから」

「本当よ。よくあの仕事量こなしているよね……なかなか仕事が終わらなくて本当に倒れそうだったわよ」

「野田さんの言葉には語弊があります。仕事が終わっていると思わないで下さい。しっかりたまっています」

「……木津川さん。少しは休めた?」

「室長、皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」


 私は頭を下げる。


「いいのよ。これからまた仕事は大変だけど、一緒に頑張りましょうね」


 何と言っていいのか分からず、私はただ笑みを浮かべた。



 私は息を整えて社長室の扉をノックする。いつものように感情の無い返答があって、私は失礼致しますと言って中に入ると、社長はデスクの前に立っていた。久々目にした社長に胸が一杯になる。けれど気持ちを抑えて私は社長に近付くと頭を下げた。


「お、お、はよう、ございます」

「……おはよう」


 今日は見下ろされる社長の視線に、酷く自分の小ささを感じる。それでも何とか絞り出した挨拶に社長は返答してくれた。しかし、ほっとしたのも束の間、君の処遇だが、と言い出して身体が硬直した。


「お、お待ち下さい」


 社長は眉を上げる。


「こ、これを……ご覧下さい」


 私は昨日、黒田君から受け取ったペンを社長に渡した。

 社長は何かしらそれの正体に気付いていたのかもしれない。ペンを回して外すと中身を確認した。そして元の形に戻して無表情にそうかと呟いた。


「これは――」


 私が言いきる前に、社長は受け取ったペンをまるで何の興味もないようにダストボックスに投げ入れた。それはいつか社長が伊藤さんから受けたお茶をそこに捨てた光景の再現を見ているようで……。

 捨てられたのはペンではない。私自身だ。それなのにかつんと音を立てるダストボックスに、ああ、掃除が行き届いているんだなと真っ白になった頭でもどこか冷静な部分でそう思う自分がいる。


「しゃ、社長、これは……」

「今更、あれが何の意味を?」


 社長はダストボックスを一瞥すると、再び視線を私に戻す。


「……君が用意した物かもしれないのに?」

「っ! そん――」

「だったら君は証明できるか。この正体を知らずに誰かから受け取った物だと」


 言葉が詰まった。伊藤さんにペンを返してもらった時、二人だけだったからだ。

 私が答えられずに黙っていると、社長は小さくため息を吐く。そして言った。


「君には総務課への異動を希望してほしい」

「そ、総務? そ、れは……じ、辞令ですか?」

「いや。君自身が希望してほしいという意味だ」

「ど、うして……」


 私は希望していない。希望したくない……。


「これまでの君の功績を鑑みて、せめてもの温情だと思って欲しい。飛ばされたとなると言葉が悪いだろう」


 同じ事だ。結局、依願でも社長命令だとしても、他人にとって違いはない。きっと何かをやらかしたのだろうと思う事は同じ。


「……しだ」


 私はぼそりと呟いた。私の言葉を聞き取れず、眉をひそめる社長に私は自嘲しながら言う。


「推定無罪はまやかしだ」

「え?」

「そう言った方がいるんです」

「…………」

「やはり推定無罪はまやかしなんですね。一度疑われてしまえば、それが真実でなくても、人の心には疑いの心はずっと根付く。そういう事……ですよね」


 噂も同じ。一度でも流れてしまえば、それが真実でなくても疑われ続けるのだ。例え勘違いでもそういう事を言われる人間なのだろうと。


「……そう取る人間も少なからずいるのは事実だ」


 社長はどちら側の人間ですか。……そう聞いて社長の答えを聞くのは辛い。私は握り拳を作る。


「少し考えさせて下さい」

「考える?」


 社長は眉をぴくりと上げた。


「……少しだけお時間を下さい」

「君に選択肢はないと思うが」

「……いいえ、あります」

「依願退職でもするつもりか」


 私は沈黙を守る。


「悪いが認められないな。君はこの会社の事を知りすぎた。ここの情報を持って他の会社に行かれたらたまったものではない」

「だ、だったら。じ……」


 社長の鋭い瞳に身体中が冷え込み、顔を伏せてしまう。恐ろしい。恐ろしくて仕方が無い。誰か……誰か、助けてっ!


「だったら何だ?」

「っ!」


 感情を含まない社長の言葉に私は顔を上げると、ぎゅっと手を握りしめた。


「自主退職という方法も……ございます」


 何もかも投げ出して逃げる。辞表すら出さずに逃げ出す方法だ。懲戒解雇となるだろう。


「……なるほど。君の考えは分かった。そうなるとこちらも法的措置を取らなければならなくなるがその覚悟は?」

「……っ、あります」

「そうか。分かった」

「わ、かった、とは?」

「身辺整理しろ」

「っ!」


 めまいがした。自分で口に出した言葉だったとは言え、社長の一言がこれほど身を切られる言葉だとは思わなかった。


「しゃ、しゃちょ……わた――」

「依願に切り換える代わりに引き継ぎだけはしっかりしろ。それくらい、いい社会人ならできるだろう? それと退職後に万が一会社の情報を漏らした場合、徹底的に戦わせてもらう」


 社長の酷薄すぎる言葉に自分の感情すら凍り付いた。


「……話は以上だ。下がっていい」


 私は失礼致しますと挨拶ができたかどうかも分からないまま退室した。そして秘書室へと足を向けた。


「あ、木津川さ――」


 菅原室長が何か言おうとしていたけれど、私は真っ直ぐ伊藤さんの元へ向かう。本日は耳元だけ髪を垂らし、後ろで一つにまとめていて落ち着いた印象になっていた。


「お昼、ちょっと付き合ってくれる?」

「……ええ、もちろんです。木津川先輩」


 伊藤さんは可愛らしい笑みを浮かべた。



 お昼、屋上に伊藤さんを呼び出す事にした。ここで何とか彼女から言葉を引き出す事ができたのならばそれを社長に示すことができる。それがもし駄目なら私は……。

 ジャケットのポケットに手を入れて、ボイスレコーダーを起動させる。


「先輩」


 彼女の可愛らしい声に私は振り返った。


「呼び出してごめんね」

「いいえ」

「……用件は分かっていると思うのだけど」

「ええ。分かっています。先輩、この会社、辞められるんですよね。残念です」


 彼女は全く残念そうな表情をせずにそう言った。


「やっぱりあなたが仕掛けたのね」

「仕掛けた……とは」


 こてんと首を傾げる。


「とぼけないで。もう、私は思い出したのよ。階段から落ちたあの日の事を」


 高熱でうなされていたあの日に何度も夢を見て、失った記憶が蘇ってきたのだ。


「でも私は覚えがありません。先輩の勘違いじゃないでしょうか」

「だったら盗聴器はどう。あなたが私に返したペンに盗聴器が仕掛けられた事はもう分かっているのよ」

「そんな酷い先輩っ!」


 彼女は目を見開いてそう言うと、顔を伏せる。


「全ての責任を新人の私に押しつける気なのですね」

「違っ! あなたがっ」

「私は何もしていません」

「嘘よ! この期に及んでそんな――」


 彼女は顔を上げると、くすりと笑う。


「この期に及んでそんな言い訳をおっしゃっているのは先輩の方ではありませんか?」


 私は目を見張った。その通りだった。自分の潔白を証明する為には、もう私を陥れた彼女の言葉を引き出すしか他に方法がない。


「私から何か一つでも罪を押しつけられそうな有力な言葉を引き出したいですか? そうそう。産業スパイっておっしゃったかな。私が先輩から何か情報を盗んだ事ってありましたか? それとも私がこれから盗んでみせるのでしょうか? でも先輩の方が私たちの会話を盗み取りしていますよね」

「……なんっ」

「だって、先輩。左胸、いつもそんなに大きくないですよね。ボイスレコーダーでも仕掛けているんじゃないですか?」


 彼女がくすくす笑って、私は頬がかっと上気した。しかし私は諦めて携帯を取り出した。


「やっぱりね。先輩ももう少し胸が大きれば少しくらい服が膨らんでも気付かれなかったかもしれませんね」


 彼女の嘲りの言葉にももう反論するだけの力はない。


「……最後に教えて」

「何ですか?」

「あなたと鷹見社長は繋がっているの?」

「鷹見社長?」


 彼女は首を傾げる。


「そんな大物の社長さんとは接触したこともありませんよ?」

「本当に?」

「ええ」

「……そう。では電話の相手は誰だったの」

「そこまで言う必要があります?」


 私が尋ねると彼女は呆れた様にそう言う。


「もう最後だって言ったでしょ……。最後に教えて」

「まあ、いいっか。私の協力者ですよ。私は社長秘書に憧れていたから、彼が協力してくれたんです。それであの電話です」


 電話での伊藤さんは相手に縋るような口調で、協力者や共犯者に対する口調ではなかった。けれど彼女はそれを言うつもりなどないという事だろう。これ以上、彼女から引き出せるものはもう何一つ残っていない。


「そう……。分かったわ。ありがとう」


 私は目を伏せるばかりだった。


「こちらこそ。短い間でしたけどお世話になりました。お仕事辞められても元気でいて下さいね。……先輩ってお人好しだからどこに行っても人に騙されて、裏切られて苦労しそうですけどね」


 そう言うと彼女は耳に掛かる髪をうるさそうに掻き上げた。


「……いっ、伊藤さん。ねえ、わ、私、思い出したのよ。私、全部思い出し――」

「先輩」


 彼女は私の言葉を遮り、無邪気そうに笑った。


「最後に先輩へ餞の言葉です。人を信用しないこと。そうすれば傷つかないわ。私はずっとそうしてきた」

「……伊藤さん」

「それでは失礼致します」


 彼女は一つ会釈すると身を翻し、扉へと歩いて行く。そして扉のノブに手を掛けてそのまま出て行くかと思われた時、彼女は足を止めた。


「木津川先輩。階段で私を助けて下さって……ありがとうございました」


 背中を見せたまま伊藤さんがそう言葉を残すと、扉を開けて去って行った。私はそれをただぼんやりと見送った。


 もう……他に手は無い。私は電話を手にする。今の時間ならまだ出てくれるだろうか。

 相手は三コールしてから出た。


「あ、もしもし。鷹見社長ですか」


 私はこくんと息を呑み、そして尋ねた。


「先日のお話、まだ……生きていますでしょうか」

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