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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
38/57

38.実家に帰る

 冷たいタオルが額に載せられて、はっと目が覚める。まず目に入った景色は見慣れているけれど、どこか懐かしい天井だった。ああ、そっか。熱で倒れたんだっけ。何だか色々な夢を見ていた気がする。


「あら、晴子。目が覚めた?」


 これまた聞き慣れた女性の声に顔を向けた。


「……お母さん。来てくれたの?」

「いいえ。実家の方よ。あなたの方が来たの」

「そう……。えっ!?」


 実家!?

 がばりと一気に起き上がると、視界が揺れてベッドに舞い戻る。


「あ、こら、晴子。いきなり起きようとするからでしょう」

「……ごめん」


 母はタオルを取り、ゆっくり起こすのを手伝ってくれて、背中にもたれかけさせてくれた。


「どれどれ」


 母は額に手を当てた。柔らかい母の手にほっとして目を伏せる。


「ん、熱は下がったみたいね。体温計でも測りましょうか」


 母が体温計を脇に入れてくれる。


「今、何時くらい?」


 デスクの上にある置き時計を見る。学生時代によく使っていた目覚まし時計だ。母は視線を時計に向けて言った。


「十時過ぎた所ね」

「十時?」


 随分眠っていた気がしたけど、まだ十時なのか。


「あ、ちなみに夜の十時だからね」

「……えっ!?」


 私は朝の記憶しか無いよ。じゃあ、ほとんど休み一日潰してしまったという事!? と言うか、十二時間近く眠り続けたってどういう事なの私。


「私、どうしてここに?」


 もちろん夢遊病状態で実家に戻ったはずはないだろう。


「今日ここに来る予定したのに、あなた、家で倒れちゃったんですって? たまたまあなたの所に訪ねて来られた……お友達が熱でふらふらになっているあなたを見て、連れてきてくれたのよ。く、黒田さんって言ったかしら」

「……そう」


 黒田君が盗聴器を取りに家に訪ねて来た時に、認めたくは無いが、私がおそらく風邪の熱で倒れたのまでは覚えている。そして黒田君は今日、私が実家に帰る事は知っている。家の住所くらいは調べたら分かるだろうけれど、いきなり母の知らない私の友人、かっこ男、しかもイケメンかっこ閉じる、が熱で朦朧としている私を連れ帰るとは少々突飛な行動だろう。


 いくらまだぼんやりしているとは言え、要領を得ない内容だ。たまたま家に訪ねてきた黒田君が熱で朦朧としている私を実家まで連れて行くかね。あ、そうか。今日は日曜日だから病院はお休みか。それにしたって、もう少しまともな言い訳はなかったのか、黒田君。そして納得している母よ、それでいいのか。


「あ、そうだわ。薬も預かっているからね」


 私のもやっとした気持ちを解消してくれるがごとく母は言った。


「え?」


 どゆこと? 私、病院に行ったの? いや、いくらなんでも病院に連れて行かれたら覚えているでしょう。まあ、ここに運ばれるまで眠っていたんだから自信持って言えないけど。あるいは往診に来てくれたって事かな。……日曜日だけど。


 その時、体温計がぴぴと鳴った。取り出してみると、三十六度七分だ。


「あ、問題無さそうね」

「うん」

「それにしてもびっくりしちゃったわ。まさか熱で倒れている状態で帰ってくるとは思わなかったから」


 そりゃ、そうだよね。私も自力で帰りたかったですよ、できれば。


「あなたが昨日、帰ると電話してきたのは体調が悪かったからなのね」


 あ、そう取ったか。だったらその考えに便乗してそのままにしておこう。


「お母さん、本当に驚いたわ。意識が無い状態で戻って来たあなたを見て、また……目を覚まさないんじゃないかと思って」


 最後は言葉を詰まらせて母は言った。


「っ! ……ごめんなさい」


 そうだった。以前、事故で意識不明の状態が何日も続いて心配をかけていたのに、また心配を掛けてしまった……。

 母は目元を拭うと、笑った。


「いいのよ。こうして目を覚ましてくれたんだから。それに先生に診て頂いて、ただの風邪で心配ないとのお話を頂いているとの事だったから。お母さん、安心したわ」

「……そうなんだ」


 その時、部屋の扉がノックされる音が聞こえた。


「はーい」


 母が返事すると扉が開かれ、弟が顔を出した。私の三歳年下の弟、陽太(ひなた) だ。家と職場が近いと言う事で、実家から通っている。


「母さん、父さんが呼んでいる」

「あ、分かったわ」


 私に向き直ると母は笑った。


「お父さんがね、晴子におかゆを作ってくれているの。いくら何でも、もうそろそろ起きるだろうからって」


 そう言われるとお腹が空いてきた。半日以上、何も食べていないんだもんね。


「お父さん、晴子の為にと、はりきって初めて作ってくれているのよ」


 気持ちだけはとても嬉しいが、初めてという言葉に一抹の不安を覚えないでも無い。

 母もそう思ったようで、大きく頷いて立ち上がった。


「食べるでしょう?」

「ん」

「様子を見てくるわね」

「ん、ありがと」


 母が立ち去ると、弟が少し気まずそうに近付いてきた。


「大丈夫か?」

「ん、ありがとね。眠ったら身体がすっきりしたよ」

「あんまり……親に心配かけるなよ」

「うん、ごめんね、ひー君も」

「ひー君はヤメロ」


 陽太にも随分心配を掛けてしまった事だろう。口調はぶっきらぼうだけれど、優しい子なのだ。


「何、笑っているんだよ」

「いや、お姉ちゃん、嬉しいなと思ってね」

「このザマでお姉ちゃん面とはね。……ホント、バカ姉貴」


 陽太はやれやれとため息を吐いた。


「ひどーいっ。お姉ちゃん、泣いちゃう」


 冗談っぽく私が笑う一方で、陽太は表情を真剣なものにした。


「……何か、あったのか?」

「え?」

「姉さんが熱を出す時はいつも何かあった時だからな」


 姉さんは図太い神経のように見えて、意外に線が細いところもあるんだよなと陽太は肩をすくめる。

 自分では気付かなかったけれど、風邪だけではなく、そういった精神の疲れもあったのだろうか。


「ん……」

「まあ、言いたくないなら言わなくていいけど」

「ううん、あのね。一つ、陽太にお願いがあるんだけど」

「お願い?」


 熱が下がって、頭がすっきりした事で分かったことがある。私はこれまで自分が迷惑をかけてきた分の責任を取らなければならない。


「あのね――」


 私は陽太に話し始めた。



 部屋の扉がノックされた。


「晴子、入るわよー」

「はーい」


 現れたのは母とおかゆを載せているお盆を持つ父。


「ありがとう、お父さん。うまくできた?」

「うん、うまくできたぞ」

「お父さん、さり気なく目をそらすのはやめよう。すごく不安だ……」


 私がそう言うと、母はフォローに回った。


「大丈夫、大丈夫。これくらい食べられるわ」

「これくらい!? どれくらいの出来!?」

「全然フォローになっていないし」


 私に同意するように陽太は苦笑した。

 渡されたお茶碗に視線を落とすと、ほんのり黄色みがかっているおかゆがそこにあった。


「……うん。念のために聞いてみよう。卵がゆ、だよね?」

「普通の白いおかゆだ……」

「お焦げがアクセントのお父さんオリジナルのおかゆよ!」

「……いや、母さん。それ、おかゆって言わない」


 陽太がツッコミを入れてくれた。


「大丈夫、大丈夫。無事な所もあるから食べなさい」

「無事な所って。本当に全然フォローになってないな……」


 まあ……いいか。食欲はあるし、何とか食べられるだろう。


「頂きます」


 そう言って口に入れると。


「どう? どう? どう?」

「父さん、早すぎ……」


 まだ飲み込んでない内から感想を促す父に呆れる弟。


「美味しいに決まっているわよね、晴子」


 そこは強制なのか、母よ。

 しかし家族がこうして心配して集まってくれる事が何だか気恥ずかしくて、嬉しくて、頬が熱くなる。


「……うん、美味しい」

「そっか! 良かった!」


 父がぱあっと明るい表情になった。我が父ながら、なかなか可愛い。


「いっぱいあるから食べなさい」

「うん。ありがとう」


 私が食べる様子を少し見守っていた陽太だったが、さてと、と言って立ち上がった。


「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」

「陽太、ありがとう」

「うん」


 そう言って立ち去ろうとするが、足を止めて振り返った。


「さっきの事さ。……社長さんには?」


 私は何も言わず、ただ首を振って笑った。


「……分かった。じゃあな、ゆっくり休めよ」

「うん。ありがとう」


 陽太はそう言うとかばんを手に出て行った。



 その後、有休ぎりぎりまで実家にいた。その間、地元の友達と夜にご飯を食べに行ったり、優華さんから電話があったり、早紀子さんに二度目の記憶喪失になったとネタを提供したりもした。そう言えば鷹見社長と会った次の日に、彼から数件電着信が入っていたので、電話をかけて自宅療養中と伝えておいた。


 そんな感じで実家の気楽さと久々の休みを満喫した。おかげで風邪もすっかり治った。……気持ちの憂鬱さは治らないけれど。

 そして最終日、夕方になって家を出る事になった。母が玄関口まで見送りしてくれる。


「ありがとう」

「ええ。お父さんも陽太も見送りしたかっただろうけど」

「朝、挨拶したから大丈夫よ。大袈裟だなぁ」


 外国にでも行くんじゃないんだからと私は苦笑する。


「だって、あなた、なかなか家に戻って来ないじゃない」

「忙しかったからね。でもまた近い内に帰ってくるわ」

「体調に……気を付けてね」

「うん、ありがとう。じゃあ、行くね」


 身を翻した私に母が声を掛ける。


「晴子、あのねっ」

「ん?」


 母は一瞬口を噤んだ。


「お母さん?」

「……いいえ。あなたはたくさんの人に支えられている事を忘れないで」

「え?」

「あなたは一人じゃないわ。それだけは忘れないで」

「……うん。分かった」


 私は肩にかばんをかけると、行って来ますと笑って実家を後にした。

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