37.熱に浮かされる
電話を切った後、私はすぐにテレビを付けていつもより音量を上げる。ずっとキャミソール姿のままで電話をしていたから身体が冷え切っていた。けれど今は……脱衣所には近付きたくない。明日の朝、シャワーを浴びることにしよう。
着替えとキッチンのシンクで化粧だけを落とした。そしてその後、テレビの音量を落とし、実家に電話すると相手はすぐに出た。母だ。
「あら、晴子。今日は遅いのね」
一人暮らしするようになってから、一日に一回は必ず家に電話をする事になっている。
「うん、そうなの、ごめんね。ちょ、ちょっと仕事が押してね。……そ、それであの、突然なんだけど明日から木曜日まで家に帰るから」
「え? いきなり何? あなた、もしかして何か仕事で失敗でもしたの?」
ぎくり。なかなか鋭い質問だ。答えない私にさらに突き詰めてくる。
「晴子、そうなの?」
「ち、違うよ。あのね、ほら。近頃忙しくて、なかなか休みを取れなくて家に帰れていないでしょ。だから有休をもらったの」
「……そう?」
母よ、疑わしそうに言わないで下さい。その通りですけど。だけど母はそれ以上には詰問してこなかった。何だか母なりの気遣いが見えて、違う意味で泣きそうになる。
電話の向こうでは父に晴子が帰ってくるんですってと告げている母の声が聞こえた。
「それで何時頃に帰って来るの?」
「ああ、午前中には帰るつもり」
「そう。分かったわ。気を付けて帰って来なさいね」
「うん、ありがとう……」
「じゃあ、お休みなさい」
「……うん、お休みなさい」
実家への電話を切って明日の準備をする。そう言えばさっき仕事の鞄もひっくり返したままだった。そう思い立って鞄の所まで戻る。
酷い散乱状態に少し苦笑いしつつ片付けていると、床に散らばった物にふと気付いた。
「……これ」
ぽつりと呟いた直後、再び電話が鳴ってびくりと身体が震えた。私用の携帯からの着信だ。発信元は松宮君で慌てて電話を取ると、先日の食事のお礼をしたいとのことだった。本当に義理堅い子である。きっと大学でも彼の行動力に救われている人がいることだろう。
私はお礼を言って電話を切った。
すると、まるでそれに合わせたかのようにメールの着信が来た。黒田君からのメールだ。
もう仕事が終わったのか。意外と早かったな。もしかして急いでくれたのかな。でも、あと半時間は一人で何とか耐えなきゃいけないだろうと思っていただけにほっとした。
私はテレビを消すと、ベッドに入って返信をする。間を空けると私が不安に思うと感じているのだろうか。メールの内容は極めて短く、頻繁に返してくれる。
メールを何度もやり取りして、文面を読んでいるとまた涙が溢れてきた。今度は恐怖ではなくて、言葉が胸に響いてだ。電話じゃないから相手には伝わらなくて良かったと思う。これだけぐすぐす泣いていたら、面倒な女だと思われてしまうから。
そしてそのやり取りは宣言通り、私が疲れ果てて眠るまで行われた。
携帯の目覚まし音が鳴り、私は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたんだと気づき、はっと頭が覚醒してメールを確認した。未読のメールは深夜の二時半頃。眠ったのかという言葉の後にもう一度確認のメールが来て、おやすみという言葉が最後だった。本当に最後まで付き合ってくれたんだなと思うと、ふわりと笑みがこぼれた。
一方、何だか身体の重だるさを感じる。そして若干熱っぽさも。
そう言えば昨日、雨に濡れてブラウスを脱いでしばらく電話していた上に、脱衣所に近付くのが怖くてお風呂に入らないままメールを続けてそのまま眠ってしまったからかもしれない。
やだ……。夏風邪はバカが引くものだって聞いた。でも私はバカじゃない。だから引かない。風邪なんて引いていないんだから。
自分にそう暗示を掛けつつ、脱衣所のシンクに近付くとバスタオルをかぶせ、浴室に入ってシャワーを浴びる。すぐ出た所に盗聴器があると思うと熱いお湯を浴びていても背中に悪寒が走り、それこそ烏の行水で出て、脱衣所で身体も適当に拭いて飛び出した。
そして何とか服を着替えて化粧して、実家に戻る為のかばんをチェックする。黒田君が帰ると同時に家を出るために。
全てが終わってほっとしていたが、洗濯物が水に浸かったままだった事に気がついて絶望してしまった。今日から五日間実家に帰る訳だから、さすがに水の中に浸けっぱなしという訳にはいかないだろう。またあの部屋に戻らないといけないのか……。
「っ、し、仕方ない」
私は脱衣所に再び戻ると洗濯機の脱水だけかけて、脱衣所を飛び出す。
実家に帰る五日間、外で干しておくのも防犯上良くないだろう。部屋干ししておくしかないかと考えながら、脱水が終わるのを待った。
その後、それらを全て部屋干しが終わる頃、家のインターフォンが鳴った。黒田君だろう。
私はかばんを持って玄関へと一目散に向かい、扉を開放する。
「おはよーっす、づかちゃん。昨日ゆっくり眠れた?」
朝にぴったりの爽やかな笑顔で、黒田君は朝の挨拶をしてきた。私は彼の顔を見て、ほっとため息を吐いて微笑した。
「おはよう。昨日はありがとう。それと来てくれてありがとう」
「そんなに歓迎されているなんて嬉しいな。なんてね」
黒田君にしては珍しくナンパっぽいセリフを吐いてくる。きっと気を遣ってくれているのだろう。
「朝から本当にごめんね」
「いや、それはいいんだけど。づかちゃん、今日、何だか顔紅くない? もしかして体調悪い?」
黒田君が少し腰を屈めると、眉をひそめて顔を覗き込んできた。
「平気平気。今、玄関まで走ってきたからだと思う」
「いやいや、この部屋でどれだけ全力疾走したらそうなるの?」
「それよりこっちなの、上がって」
私はその問いには答えないで身を翻した。早く処分してもらいたい。
「あ、ちょっと、づかちゃん。――じゃあ、お邪魔します」
一応女性の部屋に上がるのに情緒の欠片も無いよねとぶつぶつ呟きながら黒田君は靴を脱いで上がる。
すぐに失礼するし、ドアは開けておくからねと言う彼はイケメン紳士か。
「ここよ。あれ」
私は洗面所のシンクを指さした。彼は何の気構えも無く、あっさりと近付いてタオルを横に置くと、ペンを手に取った。今朝、恐る恐る覗き見てみたら、昨日シンクを落とした時に中の部品と思われるものが色々飛び出していたが、彼はそれ一つ一つを確認している。
「あー、なるほど。これか。うん、なかなか精巧にできているね。電池もこの作りだと長期間持続しそうだ」
素人の仕事じゃないねと黒田君はぼそりと呟く。そして彼はこちらに振り返った。
「了解。これは俺が預かって――づかちゃん!?」
ふわりとした浮遊感を覚えて崩れそうになった時、黒田君が気付いて受け止めてくれた。
「っと、セーフ……」
彼はほっと息を吐くと、少し咎めるような口調で言う。
「嘘吐き。やっぱり体調悪いじゃないか」
「へーき」
私は彼の肩に手をやって自力で立とうとするが、彼は私の腰から腕を解かない。
「うん、全然平気じゃないからね」
黒田君は苦笑すると、少し離れて私の額に手をやった。
「あー、これは熱あるね」
「……ないよ」
「あるよ」
「……ないよ」
「間違いなくあるって。まったく何、意地張ってんの……」
黒田君はやれやれと呆れた表情を浮かべているのが見えた。片手で私をもう一度抱き直すと電話を手に取って、誰かと話している。
彼は完全にインドア派だろうに意外と力があるんだなとぼんやりした頭で考えていると、視界も段々とぼやけてきた。
「やっぱり風邪かな」
電話が終わったらしい彼がそう呟くのを必死に抵抗する。
「違う。風邪じゃないの」
「おっとりした口調が子供みたいだね、づかちゃん」
からかうように笑う黒田君の声は聞こえるのに彼の姿は確認出来ない。まぶたが重くて開けられないからだ。
「私、夏風邪じゃないの」
「はいはい。そうだね」
「私、バカじゃないの」
「はいはい。づかちゃんはバカじゃないよね」
「……でも。バカなの」
「どっちだよ」
「本当は……大バカなの」
ずっと気付かなかった私はバカなの。軽はずみな行動を取っていた私はバカなの。疑われるような事をしていた私がバカなの。社長がそんな私を切り捨てても仕方がないことなの。だけど――。
「ごめ、なさっ、しゃちょ……」
「…………」
「おねが……見捨て、ない……で」
無意識に伸ばした手を大きくて温かい手が受け止めてくれた気がした。




