36.一人にしないで
冷たい。鷹見社長の冷たい手。一瞬ひやりと心が冷えた。
反対。瀬野社長とまるで正反対。だって瀬野社長の手は……温かった。
――木津川君。
感情をほとんど見せない、けれど確かに感情を含んだ瀬野社長の声が不意に思い出される。握りしめてくれた温かい手の平から伝わる社長の気遣い。……社長は私を守るなんて言葉に出してはくれないけれど、決して冷血なんかではない。
私が社長に失望されたのは確かだろう。だけど、失望されたということは私に信頼を寄せていてくれたからに他ならない。今はまだ……そう思いたい。
私は顔背けて、鷹見社長の胸元を押し返した。
「い、いきなりのお話で、すぐに決心がつきません」
鷹見社長は動きを止めると、少し笑った。
「……なるほど。確かに早急すぎたようだね。だけど考えておいてほしい」
私はぼんやりした頭で無言のまま頷くと鷹見社長は私から離れた。そしてまるでこの緊迫した空気を一瞬のうちに消すように言った。
「じゃあ、これから食事にでも行く? 車で遠く離れたし、会社の人にも会うことはないだろうから人目を気にしなくても大丈夫だよ?」
「……いいえ。今日は帰ります」
そう言って断ると、鷹見社長は意外にもあっさりと引き下がる。
「そっか。分かった。じゃあ、家まで送ろう」
「ありがとうございます」
鷹見社長は後部座席から出て行こうとして止める。
「あ、あの」
「ん?」
「帰りは……助手席に乗ってもいいですか」
ロックがかかった後部座席に座っているのは閉じ込められているようで、決して居心地がいいわけではない。
「そうだね。今日は強引に悪かった」
「……今日だけじゃないですけど」
素直に口にすると鷹見社長は笑う。
「そうだった。また、君だからだよって言ってほしい?」
「結構です」
首を振る私に、今度は苦笑した。
「本当に君はつれないな。やっぱり閉じ込めておいた方が良さそうだ」
「え?」
鷹見社長はそう言って、自分だけ車から出ると扉を閉めた。
「あっ!」
本気でまた閉じ込められたと青ざめたが、彼は車を回ると私が座っている席側の扉を開放した。
「なんてね。さあ、囚われのお嬢様。お手をどうぞ?」
こちらに手を差し伸べてくる鷹見社長。完全に遊ばれている。思わずむっとした。
「……ありがとうございます。でも大丈夫です」
私は手を取らずに、身体を滑らせて車から降りた。鷹見社長は両手を挙げて苦笑している。
「本当につれないな」
「誘拐さながら連れて来られたんですもの。仕方ありません」
「なるほど。次はお姫様のようにエスコートするよ」
次。……次が必要とされない事を祈るのみだ。
私が黙っていると鷹見社長は助手席の扉を開放した。
「どうぞ、お姫様」
「……ありがとうございます」
私は助手席に乗り込みシートベルトをすると、鷹見社長が扉を閉めて運転席に回って乗り込んできた。
……ん? 何か忘れているような。――はっ! そ、そう言えば自意識過剰じゃなければ、さっき鷹見社長、私にキ、キスしようとしてなかった!? すっごいぼんやりしていたから気付かなかったけど。
急に危機感に襲われて身体を椅子の端っこに寄せた時、何かが太ももをちくりと刺した。
「っつ!」
「どうしたの?」
身を乗り出してくる鷹見社長に私は慌ててそれを取って、鞄の中に放り込んだ。
ぎゃーっ、だ、大丈夫だから近付かないでー。し、しまった。やっぱり後部座席の方が良かった!
「い、いえっ。全然大丈夫です」
そう言ってさらに椅子の端に身を寄せた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。女性に無理強いをした事はないから」
「で、ですよねー」
何もしなくても女性が寄ってくる鷹見社長がそんな事をする必要もないだろう。女性には不自由していませんよねー。
「うん。今まではね」
「え」
思わず顔が強ばると、鷹見社長は吹き出した。
「冗談だよ」
「あ、そーですか」
何だか疲れてきた。鷹見社長といるとなぜか疲労感を覚える。きっと心を振り回されているからだろう。と、同時に女性の気持ちを解して喜ばせる術も知っている人なのだろうと思う。
危険な香りがする男。
まさに彼にぴったりの代名詞だ。そんな男性を望む人もいるだろうけれど私は――。
「どうしたの? 疲れた?」
無言になった私に鷹見社長は顔を覗き込んで来るので、私は素直に頷いてみせる。
「……ええ、色々疲れました」
「そんな事を真っ正面から言われたのは初めて」
そう言ってまた彼は笑った。
鷹見社長はその後、無事に家まで送り届けてくれた。
酷い脱力感と安心感を覚えるが、とにかく濡れたブラウスを洗濯しようと脱ぎながら洗濯機を置いてある脱衣所まで歩いて行く。そしてブラウスを手に投げ入れようと洗濯機を覗き込んだとき、水に浸かったままの洗濯物が中に入っているのに気付いた。
そう言えば今朝、脱水して干していく時間がなかったから水を溜めたままにしておいたんだった。
まずは脱水をかけないとね、と気を取られている内にシャツの胸ポケットに入れていたペンが水の中へと滑り落ちた。ぽちゃんと小さな音を立てて、水面が波打つ。
「あ」
し、しまった。ボールペンの汚れが衣服につくとなかなか取れないから、早く取らなきゃ。
私は焦って水の中に腕を入れてボールペンを取り出し、洗面所に置いた。
タオルを取って腕を拭く。ボールペンの中もきっと水浸しだろう。中の細いところまでは拭けないからしばらく空干しするしかないな。
外を軽く拭いて中を開けてみる。
「ん? な、に。これ……」
これ……まさか。
思わずペンを手から落とし、咄嗟に口を押さえた。洗面所のシンクに当たってカランと軽い音を立てる。
と、その時、鞄に入れている電話が鳴ってびくりと肩が跳ねた。
ペンをそのままに脱衣所から出て、鞄の中を必死に探すが、焦る時に限って出てこない。私は鞄を全てひっくり返して、漸く音の出所である携帯を発見した。会社の携帯である。相手は黒田君だ。私は部屋の隅まで走って行き、震えた手で電話に出る。
「く、黒田君っ!」
「ど、どうしたの、づかちゃん。大丈夫? 俺、づかちゃんの事聞いてさ。遅くに悪いと思ったん――」
「どうしよう、どうしよう、黒田君。助けて。私、どうしたら」
「え、ちょ、本当に大丈夫!? どうしたの!」
私の剣幕に気後れしたように彼まで焦っている。
頭がうまく回らない。言葉が上手く出ない。恐ろしさで身体が震える。
「わ、わたっ、私! ふ、服脱いで、それで――」
ペンが落ちて、見たら。
「ふ、服脱ぐ!? ちょ、ちょっ、待て。と、ととにかく落ち着いて、づかちゃん。ほ、ほら、ほら。大きく深呼吸して」
黒田君の言う通り、一度大きく深呼吸する。けれどいつまで経っても心臓のドキドキが治まらない。
「む、無理。黒田君。や、やっぱり怖い。た、助けて……」
すると耳元から静かな声で落ち着けと響いた。泣きじゃくりながら、しかも要領の得ない私の言葉に根気よくゆっくりと落ち着いて話をしてくれる声に涙が止まるどころか、余計に涙があふれて止まらない。それには電話の向こうで戸惑いを見せているようだ。
しかし、しっとり心に染み渡るような声を聞いている内に段々と落ち着いてきた私は状況を説明した。
先ほどのペンはおそらく盗聴器だ。そしてあのペンは伊藤さんに一度貸して、それから返してもらった物だった。間違いなく彼女が仕掛けたのだろう。
けれど何の目的で、誰の為に彼女は私の行動を盗聴していたのだろうか。そして私生活まで知られていたのだろうか。……自分の行動が知られていることがこんなにも酷く恐ろしいものとは。
身体を小さくして脅えていると、黒田君は言った。
「ねえ。づかちゃん、そこへ引っ越ししてから今まで身内以外、部屋に入れたことないよね? 業者とか含めて」
「う、うん。あ、ううん」
何度か優華さんが遊びに来てくれて、部屋に上げたことを思い出す。
「ん? どっち?」
「な、何回かある。優華さん」
「ゆうかさん?」
「あ。しゃ、社長の妹さんなの」
「……ふーん」
黒田君は少し間を置いた。
「そっか。それでその人だけだよね? だったら問題ないよ」
「え?」
「いや、可能性として部屋にも盗聴器を仕掛け――」
「えっ!? 部屋にも盗聴器っ!?」
手からごとりと携帯を落としてしまう。その携帯からづかちゃんづかちゃんと黒田君の焦った声が聞こえて、私は必死に持ち上げた。
「づ、づかちゃん! き、聞いてる!? ねえ、聞いて――」
「…………いやだ、もういや。怖い。家出る……」
私はまた恐怖でしゃっくりを上げて泣き出してしまった。
「うっ。す、すみっ――づかちゃん、ご、ごめん! 言い方悪かった! ち、違うから! 違うよ、づかちゃん! 落ち着いて聞いて!」
「…………」
「き、聞いている? づかちゃん」
「ん……」
黒田君はほっと息を吐いた。
何で君だけほっとするのよ。こっちは恐怖で震えているのに。でも理不尽な怒りに少しだけ恐怖が薄らいできた。
「あのね。君が入居する前にその部屋は盗聴器チェックしているから大丈夫だよ」
「……んで」
「え?」
「何で?」
「ああ、盗聴器チェックしているかって事?」
黒田君は私の足りない言葉を読み取ってくれた。
「そこは社長が用意した所でしょ? 万が一の為に秘書の人が入居する部屋は事前にチェックしているんだよ」
そんな話、社長からは聞かなかったが、確かにありうる話だ。でも念を押してしまう。
「……ホント?」
「うん、本当だよ。だからね、部屋に身内とかお友達以外入れていないなら大丈夫。づかちゃん、入れてないんだよね?」
「ん……」
「じゃあ、大丈夫」
「ん……」
「す、少しは落ち着いた?」
「ん……」
「そか、良かった」
黒田君は大きくため息を吐いたようだ。
「ところで今、その盗聴器はどこにある?」
「お、お風呂の脱衣所」
「そう。じゃあ、そのままにしておいて。明日、家まで取りに行くよ」
「きょ、今日来て! 今から来て! すぐ来て!」
「大丈夫だって。爆発するわけでもないし」
そういう問題じゃないっ。あんなの、一時でも側に置いておきたくないのだ。
「とにかくね。明日の朝、俺が受け取りに行ってから、実家に帰って。有休五日間だっけ。ぎりぎりまで実家にいなよ。じゃあ、電話切るよ? また明――」
「やだ! 切らないで! 一人怖い。電話切らないで。お願い、何でもするから一人にしないで。あ、朝になるまで、お願い……」
震える声で懇願すると、黒田君が息を呑む音が聞こえた。
「……そ、そういうのはね、俺に言うものじゃないよ。っていうか、言わないで。俺の方が怖いんですけど」
「だって怖い。今もどこかで聞かれているんじゃないかって」
「ああ、大丈夫。盗聴器はね、高性能の物でもせいぜい一キロ程度の範囲まで近寄らないと聞こえないから。しかもそれペン型なんでしょ。届く範囲は狭いよ。づかちゃんの家の近くで誰かが聞いてでもしない限――」
私は転びそうになりながらも慌てて立ち上がると、窓に近付いて外を確認する。
「って。おーい、づかちゃん。聞いている?」
「あっ!」
私はカーテンを強く握りしめる。
「え?」
「そ、外にく、車停まってっ!」
「えっ!?」
「……あ、ち、違う」
見知った隣人が車から出てくるのを確認してほっと息を吐く。
「お、お隣の人だった」
黒田君は電話の向こうで大きく呆れた様にため息を吐いた。
「ややこしい事、言わないでくれる?」
「……ご、ごめんなさい」
「もう。そう素直に来られると調子が狂うな。……まあ、電話で朝までって訳にはいかないけど、づかちゃんが眠るまでメールぐらいなら付き合うって」
「ほ、ホント?」
「うん」
「あー、でも、一時間くらい待ってくれる?」
「え、何で?」
一時間はたった一人で待たなければいけないの?
携帯を握りしめる手に力が入る。
「ほら、家に帰らなきゃいけないから」
「どうして? 黒田君、今も仕事場の奥に住んでいるんでしょ?」
「あ、違う、ほ、ほら。仕事がまだ終わらなくてさ。仕事終えて、部屋に戻ってからって意味ねっ」
「そ、そう……」
仕事なら仕方が無い。彼が管理するシステムの仕事は本当に大変なのは分かっているのだから。でも、どうしよう。その時間、耐えられるだろうか。今はよく知った人の声を聞いて何とか落ち着けているが、切ると恐怖が再び襲ってきそうだ。
「あーあー。泣かないで」
「泣いてないよ……」
「あ。ほら、あれだ。づかちゃん、明日実家に帰るんだから、家に電話しなよ」
「え?」
「他にもテレビを付けておくとか、明日帰る準備をするとかさ。動いていると気が紛れるから。そうやって時間稼ぎしておいてよ。こっちが帰るまで」
「……分かった」
私の落ち着きを取り戻している声に彼も安心したのだろう。
「じゃあ、一度切るけどいい?」
「うん。……ごめんね」
「……いいって。じゃあ、切るね」
「うん」
そして一瞬のためらいの後、電話を切った。




