35.鷹見社長の誘惑
私は引き継ぎと有休申請書を提出すると退社した。
空を見上げると少し強く降り始めた雨。どうして泣きたくなる日はいつも雨なんだろう。あるいは雨が涙で濡れた頬を隠そうとしてくれるからなのか。そんな自分の都合の良いことを考えて自嘲してしまう。
傘を持たない私はそのまま街道に出る。今は会社から少しでも離れたい。
痛む足を引きずりながら、若干足早に歩いていると、鞄の中に入っている携帯の音に気付いた。鞄を探ると私用の携帯が鳴っていた。発信相手は鷹見社長だ。取るかどうしようか見つめ続けていたが、相手は諦める様子はなく、鳴り続けているので取ることにした。
「木津川さん!」
「はい」
「良かった。出てくれた」
電話の向こうでほっと息を吐いている声が聞こえる。
「仕事だとは分かっていたんだけど、今朝からずっと連絡を入れていたんだ。……入れずにはいられなかった」
「……そうですか」
雨の音と濡れた道路に走る車の音で今日は電話の声が聞き取りにくい。さらに聞き取り辛くなったとしても歩くのは止めたくはない。
「その声の様子だと、今回の事をもう聞いたみたいだね」
「はい」
「今はもう外だよね? 仕事は終わったの?」
「……はい。あなたと接触している事を社長が知って、しばらく有休を取るように言われました」
当てつけのように言わなくてもいいことまで言ってしまう。
「だったら今すぐ君に会いたい」
あなたと会っていることで私は瀬野社長に疑われ、信用を失い、有給休暇を取らされる羽目になりました。なのにまだ私に会いたいと言うのですか。
全ては自分の失態なのにそう言ってしまいたくなる。それに、誰かに鷹見社長と会っている所を見られて、瀬野社長にもうこれ以上誤解されたくはない。
「私は会いたくな――」
「お願いだ。会いたいんだ。君には誤解されたくない」
「……誤解?」
少し息せき切ったような鷹見社長の声に思わず足を止めて、私は眉をひそめる。
「少しは話を聞いてくれる気になった?」
すると背後から声を掛けられると同時に腕を取られ、傘が差し出された。振り返ると少し肩で息をしている鷹見社長がいた。珍しい姿だなと思う。
「……鷹見社長」
この人は一体いつ仕事しているのだろうか。瀬野社長はまだ会社にいて、そしてずっと遅くまで仕事しているのに。
頭の片隅でそんな風に考えて、今の状況に気付き、はっと我に返る。
「放して下さい。こんな所、誰かに見られたら今度こそ――」
瀬野社長の元に戻れなくなる。
そう考えると体中が冷たくなるのに、鷹見社長は私の腕を掴まえたまま、来た道を戻ろうとする。
「ちょっ!」
このままだと会社の方向に戻ってしまう。自分でも顔が青ざめるのが分かった。
「やめて下さい。お願い、放して」
人通りが多い道路なのに、周りのすれ違う人はこちらをちらちら見るだけで誰も助けようとはしてくれない。相手がイケメンだからか。そんなイケメンの特権、今発揮しないで欲しい。
「こんな姿の君を一人で放っておけと?」
「ええ、その通りです。お願い、放っておいて下さい」
鷹見社長は少し笑う。
「君のそういう強情な所は可愛いね。でも駄目。絶対に逃がさない」
「っ!」
軽く流されている。どうして振り解こうとするのに、振り解けないのか。なぜ男の人の力とはこんなにも強いのか。
「何も君に危害を加えるつもりじゃないよ。すぐそこに車を停めている。少しだけ付き合って。話を聞いてほしいだけだよ」
「は、なし」
「そうだよ。話を聞いて、俺の話を」
「は、話を」
聞いて。私の話を……。
「言い訳もさせてもらえなんて悲しいだろう?」
「悲しい……?」
「そう、話を聞いてもらえないのは悲しいよね」
社長に私の話を聞いてもらえなかったのは。
「……悲しい」
「そうだよね。だから君は聞いてくれるよね?」
頷く事はしなかったが、抵抗する気力も失った私を鷹見社長は車まで連れて行く。そして鷹見社長は後部座席を開けた。
……なぜ後部座席なのだろう?
「入って」
「……身体が濡れています。車が濡れます。お話ならここでどうぞ」
「気にしなくていいよ」
そして強引に私を後部座席に押し込めてシートベルトを付けると、すぐに運転席へと回って席に着いた。何だか急に怖くなってシートベルトを外して外に出ようとすると、後部座席の鍵がロックされている。ぼんやりしていた頭が急激に冷える。
「え、ちょっ!?」
扉をがちゃがちゃと動かしてみるけれど開かない。何かヤバイ。マジで誘拐じゃない!?
「お、降ろして下さい! ど、どこに連れて行くつもりですかっ!」
「落ち着いて。チャイルドロック機能だよ」
焦って叫ぶ私に対して、鷹見社長は落ち着いた声で返す。
「チャ、チャイルドロック?」
って、車が走行中に子供が間違って扉を開けないようにするロックの事?
「最近は色んな車種に付いているね。内側からは開けられないようになっている。まさか大人の女性相手に使うとは思わなかったよ」
そう言って鷹見社長はくすくすと笑う。バカにされている気がして顔が赤くなった。
「こうまでしないと君に逃げられてしまうからね」
「いつもこんなに強引なんですか」
以前、何度も尋ねたことを口にしてみる。すると彼は視線をバックミラーにやって笑った。
「ごめんね。いつもはそうでもないよ。君だからだよ」
暴れ馬みたいな言い方止めて下さい。
「……どこまで行くのですか? お店に入るのは遠慮して下さい。人に見られたくないので」
「警戒心が強いね」
「あなたのせいです」
こんな風に閉じ込められて、どうしてのんきに座っていられようか。
「それもそうか。ごめんね。でもそのままだと夏でもさすがに風邪を引くよ」
「平気です」
どうせ明日から有休だ。例え熱を出して寝込んだって誰も困らない。
私は半ば自棄になりつつも、鞄からハンカチを取り出して濡れた衣服や鞄を拭いた。
「君の会社が取引しようとしていた会社がうちに決まった事だけど」
「……うちの機密情報が漏れたせいで失敗したと」
「そうだろうね。だが、それは瀬野社長の勘違いだよ。俺たちも元々水面下で動いていた案件だから」
確かにそうかもしれない。何より漏れ所が分かっていない。もしかしたら、いや、鷹見社長の言葉は真実なのだろう。私の態度は完全なる八つ当たりだ。
「確固たる証拠も無いのに酷いね」
「え?」
「瀬野社長に疑われたと言っただろう?」
「っ……」
思わずバックミラーに映る鷹見社長の目に視線をやると、それに気付いた彼は目を細めた。動揺している心を読まれそうで、私は慌ててバックミラーから目をそらした。
「君が漏らしたという証拠も無いのに君を疑った」
「それは……」
誰かが私たちの写真を撮っていたから。誰だってあの写真を見れば、疑っても仕方が無いことで。……だけど本当に? 私は写真だけで疑われてしまうだけの信用しか無かったの?
「酷いね。瀬野社長は君を信用していないんだ」
鷹見社長の言葉がずきりと胸に突き刺さる。
「俺も彼の事はよく知っている。瀬野社長は誰も信用していない」
「違う。社長はそんな人じゃ――」
「君は分かってないね。彼は頭脳明晰だが、残酷なほど冷血な経営者だよ。彼の周りにいるのは敵か、敵にもなり得ない微々たる存在の人間だけだ。君も同じ」
「……わ、たし?」
「そう。瀬野社長が君を側に置いているのは敵にもなり得ない人間と判断したからというだけ」
「わ、私は」
私も……同じ? 瀬野社長にとって、敵にもなり得ない人間だから側に置いているの? 私はいてもいなくても同じ、なの?
「君は瀬野社長を信頼しているのに、彼からは信用されていないとは可哀想だね、木津川さん」
「い、いや」
「その証拠に彼は君が苦しい時、守ってくれたかい?」
「や、やめ――」
「使えない部下はいらない。彼は君を使い捨てたんだよ」
「やめてっ!」
耳を塞いで顔を伏せる。
その時、鷹見社長はブレーキをかけて車を止めた。私ははっと顔を上げて外を見やると、街の光が見える。きっと雨でなければ夜景が綺麗な所なのだろう。しかし今日は人気がまるでない。
「た、鷹見社長……?」
彼はこちらに振り返った。
「君とは公私共に俺の良いパートナーになれると思う」
「……え?」
「今の会社を辞めて、俺の会社に来ないか?」
「それ――」
鷹見社長は車のドアを開けて外に出ると、後部座席の扉を開けて横に身体を滑り込ませてきた。思わず後ずさりするも、すぐ横の扉は開かない。危機感だけが募る。何とか気を逸らさなければ。
「な、なぜですか。私にはその価値はありません」
「瀬野社長はバカだな。君にそんな風に思わせるなんて。彼は君の事を過小評価しすぎているよ」
「え?」
「俺なら君を引き留めておくためにどんな手も厭わないのに」
違う。おかしい。何かが違う。
鷹見社長の言葉のどこかが矛盾していると思うのに、魅惑的に迫る鷹見社長と逃げ場の無い密室の空間が判断を狂わせる。
「推定無罪なんてまやかしだよ。瀬野社長は君を犯人だと踏んだから君に休みを言い渡したんだ」
瀬野社長は私が犯人だと、本当に……そう思って?
「それに仮に君の無実が立証されたとしても、人間は噂好きな生き物だからね。それが真実かどうかなんてどうでも良くて、一時の暇つぶしになりさえすれば、人を傷つけようが踏みにじろうが、噂を歪めて何でも流して楽しむものだよ」
「っ!」
どくり。
畳みかけるような鷹見社長の辛辣な言葉に心臓が早鐘を打ちだして、息苦しさに喉を押さえる。
「人間って残酷だよね」
鷹見社長は薄く笑うと私の首筋から頬を指の甲で緩やかに撫で上げた。背筋に痺れが走って身体が震える。
「だが、君はそんな底辺の人間によって潰れていい人間じゃない。俺なら君を害する者を全て排除して君を守れる」
「ま、もる……?」
脳内を痺れさせるような甘くて蠱惑的な言葉。
「ああ、俺の元においで。俺なら君を守ってあげるよ」
「……守る」
「そう。君を守るよ」
鷹見社長は薄く笑うと、雨で冷えた手を私の頬に触れて顔を近づけた。




