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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
34/57

34.無情なる有給休暇

 近頃、会社が慌ただしい。うまく行きそうだった契約が次々と白紙に戻るといった状況になっていると言うのだ。担当者が口を揃えて言うのには原因が全く分からないと。相手の心証も良く、後は契約を結ぶだけだという段階で白紙に戻ると言う。しかも相手はその理由を言ってくれないと。


「……社長」


 今、この会社に一体何が起こっているのだろう。


「情報が漏れている」


 ベルタ社の株価が上昇した時は可能性と言っていた社長が、今度ははっきり断言する言葉に狼狽える。つまりスパイが確実にいるという事で……。


「あるいは力業だが……」

「え?」


 社長が何か呟いているのを聞き取れず、聞き返した。


「……いや。スパイは見つけて厳しく処分する」


 そう強い光を見せてこちらを見据える社長にまるで私自身が処分されるようで、不安に襲われて身が竦んだ。……そしてその予感は数日後に現実のものとなった。



「ベルタ社は鷹見ホールディングスに吸収合併される事になった」


 社長がデスクに肘をつき、重くそう呟いて、私は目を見張った。


「鷹見ホールディングスにですかっ!? ……そ、そんな」


 ベルタ社がうち以外の会社にも話が持ちかけられているかもしれないと言う話はしていたが、それが鷹見ホールディングスだったとは。


 社長はこちらを見据えて来る。何だろう、不安で胸がどくどく高鳴る。


「この計画に関わっている人間は多くないと前に言ったな」

「は、はい」

「それからこの結果に至るまでの間、それらの人物を調査した結果」


 社長は目を伏せた。


「誰一人、スパイとなり得る者はいなかった」

「……え」


 私は呆気に取られた。どういう事? 情報が漏れていたと言うわけではなかったの?


「しかしもう一人、スパイとなり得る者がいる」


 そう言えば社長は以前にその計画に関わっている者以外にも可能性がある人がいるという事をほのめかしていたような気が――。


「……それは木津川君。君だ」

「え?」


 緊張感溢れたこの場なのに、思わずぽかんとしてしまった。


「い、今……何と?」

「企画に関わる者全ての身辺調査をした結果は白だ。あと、残されるとしたら企画や計画の全てが上がってくるこの部屋から漏れるしかない。つまり――君だ」

「じょ、冗談……ですよね」


 頭が真っ白になる。何なの。い、一体何が起こっているの?


「全ての人物の身辺調査は行ったと言っただろう。君しかいないんだ」

「わ、私が?」


 社長が放つ言葉が信じられなくて聞き返す。社長は私がスパイだと、そう言いたいの?


「私がスパイだと。本当にそう思っていらっしゃるのですか?」

「…………」


 どうして社長は何も言ってくれないの? どうして、さすがに君は違うなと苦笑して否定してくれないの!?


「私がですかっ!? そんな事、私がするわけ、社長を裏切るだなんてそんな事っ! するわけがありませんっ! 絶対にそんな事をするわけがないっ!」


 興奮して叫び、息を切らす私に対して、社長は残酷なほど冷静だ。


「だが、君しかいない」

「ですが、私はっ!」

「……そう言えば、君は一過性の記憶喪失だったな」

「は、はい?」


 なぜ今それを言うの。

 混乱を隠せない私に対して社長は静かに見つめてくる。


「だったらこれを見たら思い出すか?」

「……え?」


 社長にしては珍しく苛立った様子で引き出しから何かを取り出すと、無造作に投げてデスクに大きく広げた。そして私はそれに視線を落として目を見開いた。


「これ……」


 それは鷹見社長と私が一緒に写っている写真だった。震える手でさらに写真を広げると、複数枚、しかもいろんな日付で撮られている。少なくとも一度では無く、複数回、鷹見社長と会っていることがこの写真から分かる。そしてどんな角度でどんなタイミングで撮ったのかは知らないが、仲睦まじそうに写るこの写真からは瀬野社長への裏切りの図にも見える。


「誰がこれを……」

「匿名で送られてきた」

「でしたら、その送ってきた人物が――」


 私を陥れようと……。そう言いたいのに、社長は私の言葉を遮る。


「彼には不用意に近付くなと忠告しておいたはずだ」

「こ、これは……」


 説明したいのに、うまく頭が回らない。いや、例え説明したところで言い訳にもならないだろう。


「……交際しているなら別だが」


 そんな事、あるわけがない。普段なら反論するのも馬鹿馬鹿しいくらいだと笑うところだ。でも今は否定したいのにまるで私が犯人の証拠を示すような写真に言葉をうまく出す事ができない。


 反応の鈍い私に対して社長はさらに続ける。


「仮にそうだとしても君の職務上、他社の男、しかも会社社長と付き合うのは好ましくない事くらいは分かっていると思っていたが」


 自覚しているつもりだった。仕事がオフの時も社長秘書としての節度ある行動を取っていたつもりだった。だけど今自分がやっている事は何だろう。今の私は誰から見ても会社の情報漏洩を手助けした裏切り者だろう。それが真実では無くても。


 自分の行動に血の気が引いた。


「も、申し訳ございません。私っ」

「……どうやら――いな」

「え?」


 下げていた頭を上げると社長は冷たい瞳でこちらを見ていた。


「来週、大事な商談がある。君には土日を合わせて五日間ほど休みを取ってもらう」


 社長の言葉に目を見張った。

 そ、それって……。


「私を信用して頂けないという……ことでしょう、か……。わた、私を漏洩の犯人だと」

「……有給休暇取得申請書を提出しろ。それと菅原室長を呼んでくれ」


 社長は私の問いには答えてくれない。


「しゃ、社長」

「もう下がっていい」


 縋るように震えた声をかけるが、社長は取り合ってくれない。


「社長、話を――」

「聞こえなかったか。下がれと言っている」

「っ!」


 それだけ言うと、社長は椅子を回してこちらに椅子の背を向けた。言い訳なんて聞きたくない。完全な拒否という事なのだろう。


 以前、社長命令で帰れと言われた時と同じ落ち着いた声なのにどうして今日はこんなにも身を切るほど冷たく感じるのか。……いや、分かっている。けれど社長のこれ以上ない拒絶に身体が硬直し、息が詰まった。


 それでもこの部屋を出るまで私は社長秘書だ。だったらそれなりの振る舞いをしなければならない。


「し……失礼、致しました。ただいま、菅原室長をお呼び致します」


 私は掠れながらも何とかそう言うと背を向けたまま無言の社長に向けて会釈し、社長室を出た。そして秘書室へと向かう。


「菅原室長」

「ああ、木津川さん、どう――どうしたの!? 酷い顔色よ!?」


 振り返るなり、室長はそう言った。


「社長がお呼びです」

「え?」

「社長が菅原室長をお呼びです」

「それは分かったけど、あなたは――」

「お急ぎ下さい。……お願い致します」

「わ、分かったわ。宮川さん、少し木津川さんを見てあげていて」

「は、はい」


 室長は近くにいた宮川さんに声を掛けると彼女は慌てて立った。


「いえ、お構いなく。室長、お願い致します」

「……分かったわ」


 菅原室長はそう言うと社長室へと向かった。そして私は澤村さんのデスクへと足を運ぶ。


「澤村さん」

「はい」

「有給休暇取得申請書を頂けますか?」

「え?」


 いつもは淡々としている澤村さんだが、その言葉に目を見開いた。


「有給休暇取得申請書です」


 私が事務的にそう言うと他の秘書さんも澤村さんのデスクに駆け寄ってきた。


「き、木津川ちゃん? まさか、あなたが有給休暇を取るんじゃないよね?」


 野田さんが焦りを浮かべた表情でそう尋ねてくる。


「私です」

「じょ、冗談でしょ? あなたがいなくなったら社長秘書は」

「申し訳ございませんが、皆さん方のどなたかにお願いすることになります」


 宮川さんに問われて私は彼女に視線を向ける。続けて澤村さんが口を開いた。


「以前、木津川さんから宮川さんに一時的に代替わりしたとき、三日で業務に支障を来しました」


 そうか。あの時、確か社長に一週間で戻されたと思ったが、後の四日は耐え凌いでくれていたんだとぼんやりと思った。


「そ、そうよ。だから私はむ、無理よ!」

「私も無理です」

「わ、私だって嫌だからねっ!」


 彼女たちは口々にそう言った。なぜそう言うのだろう。彼女たちは私よりも余程優秀な人たちなのに。

 その時、伊藤さんが明るい口調で言った。


「皆さん、何をおっしゃっているんですか! こういう時こそ、皆で力を合わせる時ですよ!」


 秘書さん方がその声に振り返る。


「木津川先輩がお休みの間、先輩の分まで皆さん一緒になって頑張りましょう! そして先輩を快く送り出して差し上げましょうよ!」

「あなたは何も知らないからそう言うのよ……」

「しかもその時の筆頭が私だったのよ。もう二度と経験したくないわ」

「……そんなに木津川先輩、優秀なんですか」


 伊藤さんが尋ねると澤村さんが答えた。


「木津川さんは戻って来た後、室長を含めた四人で作ってしまった五日の遅れをたった一人で、ほんの二日間で取り戻しました」


 それは大袈裟な話だろう。私がその業務に慣れていた事と他の秘書さん方はそれぞれ他の仕事をも抱えていた中での兼任だったのだから。こんな時なのにそんなのんきな事を考える自分がいる。


「……そうなんですね」

「ね、ねえ。木津川さん、お休みは何日取る予定?」

「明日、土曜日から五日間の有給休暇で、木曜日が祝日ですから実質――」

「五日間っ!? 嘘でしょ!? そんなの一度木津川ちゃんがいなくなった状況を知っている社長が許すと思う!?」

「……社長からのご指示です」

「嘘、まさかそんなっ!」


 私が黙り込んでいると、菅原室長が戻ってきた。


「室長! 木津川さんが五日間も有休を取ると」

「ええ。聞いたわ。だからここにいるこの四人、いえ伊藤さんを入れて五人で回すことになるわね」

「そ、そんな! 菅原室長、そんな無理です!」

「こら。無理って言わない」


 室長は野田さんを窘めると、私に近付いて肩に手をやった。


「木津川さん、本当に休み取れていなかったものね。ゆっくりお休みなさい」

「……っ」

「それと今日は引き継ぎ資料を渡してもらって、有休申請書を出したら、仕事を上がっていいそうよ。書き終わったら私まで持ってきて」


 俯いていた私は強ばった顔を上げる。それは社長室には戻るなと言うことなのか。社長に直接提出することすら許されないのか。


「……木津川さん。少しお休みするだけよ。大丈夫だから、こちらの事は任せて」

「はい……」


 私は頷いて、ただそう答える他なかった。

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