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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
32/57

32.それって恋ですか? ――普通に違います。

「って、ここ?」


 松宮君は物珍しそうに店内を見ている。そう。ここは企業戦士が集う、とある居酒屋である。今日も大勢の人で賑わっている。最近は禁煙の場所が多くなり、例に漏れずここも禁煙で、煙の臭いを感じずに食事も美味しく頂けるからありがたい。


「そう。君はさ、普通に生活していたら人生の内でこういう所は来ないだろうと思ってね。えーっと、私は生ビールね。君は未成年だから……オレンジジュースでもする?」

「……オレンジジュースって。まあ、何でもいいよ」

「そう。じゃあ、オーダーも適当にするね」


 私は店員さんにオーダーを取ると、すぐに飲み物を持ってやって来た。


「ではでは再会を祝して、乾杯」

「大袈裟だな。結構顔を合わせているぞ」

「まあまあ。この場のノリよ」

「はいはい」


 大人な彼は私に合わせてくれ、私は彼のグラスに当ててカチンと小さく鳴らすと、ごくごくと喉にキンキンに冷えたビールを流し込んだ。うん、喉に美味しい。ビールはやはり一口目が最高だ。


「んー、美味しい」

「ふーん」

「あ、来年になったら一緒にビールを飲もうね! 松宮君とお酒を飲めるなんて楽しみだなー」

「子供の成長を見守る親みたいになっているぞ」


 松宮君は少し不満顔だ。


「あはは。ごめんごめん」

「……それで、さっきのさ。聞いていいわけ?」


 少しためらいがちに松宮君はそう切り出した。


「あ、うん。ごめんね。巻き込んじゃって」

「それはいいけど。鷹見財閥の鷹見一樹。……付き合いあんの?」

「あるやら、ないやら。別に言い寄られているっていうような付き合いじゃないんだけど、結構強引な誘いを受けるのよね」

「それって言い寄られているって事でいいんじゃないのか?」

「うーん。何か違う気がするんだけど。――あ、お料理来た。食べて食べて」


 店員さんが運んでくれるお皿を受け取り、次々とテーブルに並べた。


「え、あ、うん」

「それとも高級料理ばかり食べている松宮君はこんな下賤な食べ物、お口にできませんか?」


 学園時代にハンバーガーを勧めた時に松宮君が言った言葉を引用すると、松宮君は嫌そうな顔をした。


「そんな事、覚えているんだな」

「ちゃんと覚えているよ。学園で過ごした日々の事はちゃんと覚えている。ほんの短い期間で大変な事もあったけど、君たちと生活できて楽しかったよ」


 そう言って私は唐揚げを一つ口にする。うん、外はからっと揚がっていて、中は肉汁がじゅわりと出てきて美味しいな。


「木津川にとってはもう随分昔の話って事なんだろうな」

「え?」

「……学園時代の事はもうとっくに過去の話で、今はすっかり社会人ですって顔してる」

「そ、そう?」


 私は思わず自分の頬を触ってみた。


「まあ、君はまだ大学生だもんね」

「ああ。だから出来ないことも多い」


 どこか悔しげに呟く松宮君。


「……逆にね、学生じゃないと出来ないことも多いよ」


 私の言葉に松宮君は眉を上げた。


「学生時代は家の出自である程度、上下関係は出来上がっているかもしれないけど、それなりに平等だったと思う。だけど社会人になったらそれがてきめんに効いてくるからね。上の者や力のある者には嫌でも屈しないといけない部分は多々出てくる」

「さっきの鷹見社長みたいにか? 強く抵抗できない?」


 そんな風に尋ねてくる彼に苦笑してしまう。


「まあ、ね。強引なだけじゃなくて、人の上に立つ者が持つオーラ、目に見えない人を支配する力っていうのかな。それが鷹見社長にはあるのよね。さっきも断りたかったのに最後は了承しちゃったの、見ていたでしょ」

「……木津川」

「あ、ごめんねー。食事の席で、しかも君にこんな話しちゃって。情けない所を見せちゃったね」

「いや。前は、学園にいた頃はさ……あんたには到底敵わないなって思っていたんだよな」

「ええ? でもそれは瀬野家としての力があったからよ? だから自由に動けていたわけだし、発言にも力があったと思うの」


 そう。力のない今は身動きが取れず、もがいている。そんな自分を想像して自嘲した。……それに自由気ままに動き回れていたのは、やはりどこか現実感がなかったんだと思う。


「でも自分が瀬野と同じだけの力を持っていても、木津川のようには行動できなかった」

「だったら、それは年の功ってやつかもしれないわ」

「だとしても、その時は敵わないなって思った」

「そ、そか。じゃ、じゃあ、余計に情けない所、見せちゃったわね。格好いい私で終わらせれば良かったのに」


 ごめんごめんと苦笑いしてしまう。


「そうじゃなくて。良かったなと」

「え?」

「俺でも手を伸ばせば、木津川に届く範囲なのかなって」


 彼の言葉にきょとんと目を丸くした。


「やだなー、松宮君。届くも何も、君がもう少し成長したら私なんて足下にも及ばないって。追い越し追い抜きなんてすぐよ、すぐ」

「……ん。でも人から与えられた力じゃなくて、自らの精神であんたを追い抜きたいと思う」


 え。何、その男前のセリフ、相変わらず格好いいな……。


「だからもうちょっと待って」

「え?」

「あんたを助けるにはまだ力が足りないのは自覚している。だから……もうちょっとだけ、待って」


 松宮君の純真な心が伝わってきて何だか胸が熱くなるやら、恥ずかしいやらで、つい笑いで誤魔化してしまう。


「え? 何なに? それって告白? 私に惚れると火傷するよ?」

「あ、それはない。純粋に人としてって意味だから」


 学園時代に言われた時みたいにまた即答された!


「冷たいな! こっちが凍傷受けたわっ!」

「あ、ごめん」

「……お願い。そこは謝らないで。何だか余計に振られた気分になったわ」


 苦笑いすると、松宮君も同じように笑った。そして私はふうと一息吐いて笑いを収めると、あのねと切り出した。


「今日、ここに連れてきたのはね、あなたが近い未来、人の上に立つ人間になるからなの」

「え?」

「あなたはとても真面目で正義感がある子だから、社会に出たら苦労することもいっぱいあると思うのね。社会なんて魑魅魍魎がうようよする世の中だから、正直、正義や綺麗事だけではやって行けない事も多々あると思う。そんな現状に心が折れる事もあると思う。もしかしたら社会の汚いやり方に手を染めた方がいいと揺れる事だってあるかもしれない」


 もちろん松宮君にはそうはなって欲しくはない。けれどそんな自分の理想を押しつける事は傲慢で、彼にとっても重荷になるだけだろう。


 私は酒に酔いしれる企業戦士の彼らを軽く見回す。ここで会社の愚痴や奥さんへの不満をもらしているのかもしれない。でもそれでまた明日からの仕事に向けて活力をつけているのだろう。


「ここにいる働く人たちは自分の生活や築いた家庭を守るためだったり人それぞれだけど、少なくとも皆、大なり小なり秘めたる誇りを持っているものよ。だから人に踏みにじられたら痛みもあるし、悔し涙する事もある。皆、心を持っているのよ」


 松宮君の視線は自然と周りの人たちに移る。とても素直な青年だと頬が緩んだ。そんな彼だからこそ、偉そうに良い先導者になってだなんて言えない。でも……。


「忘れないで欲しいの。あなたの下には、一人一人心を持った人間がいるんだって事を。たくさんの人と触れあって心を感じて。色んな考えを受ける姿勢を見せてあげて」


 再び松宮君はこちらを真っ直ぐに見つめて来た。


「世の中には悪い人もいるけれど、それを上回る良い人もいっぱいいるわ。あなたの真摯な心が相手に伝われば、きっとたくさんの人があなたを信じて付いてきてくれるはずだから」


 なぜ私はこんな事を口走っているのだろう。まるで自分に言い聞かせるように、そして……誰かに伝えたいかのように。


「……分かった」


 神妙な顔をして頷く松宮君に、はっと我に返り、そして笑みを向けた。


「うん、君はやっぱり良い子だね。こんな世の中だし、色んな大人を見てきているから余計に癒やされるわー。もふもふしていい?」

「誰がもふもふだよ……」

「ふふ、冗談冗談。と言うわけで、先に生まれた者としての堅苦しいお話はここまでね。食べよ食べよ」


 私は松宮君のお皿にひょいひょいと取り分けていく。若い男の子だから、たくさん食べなきゃね。

 ふと鷹見社長と同じ事を考えている自分に苦笑してしまう。


「あのさ、今日は助けられて……良かったよ」

「うん。ありがとうね」

「それでさ、気付いているとは思うけど、鷹見社長には気をつけろよ」

「え?」

「女性関係が激しい人だって聞いているし。恋愛経験値が低そうなあんたなんか、ああいう男に関わると面白いように手の平でころっころ転がされるからな」

「ちょっと聞き捨てならないわね。誰が恋愛経験値低いのよ、誰が」


 むっとして睨み付けると彼はしらっとした表情で答えた。


「木津川晴子」

「がーん。名指しするなんてあんまりだわ、松宮君」

「ああ悪い。甘ったるい言葉を囁いてくれるような恋人がいたのか」

「いませんけど何か」

「……あ、普通にごめん」

「だ・か・ら。目をそらして謝るなーっ。余計に虚しくなるわっ」

「悪い悪い」


 松宮君は声を上げて無邪気に笑う。こういう所は普通の学生さんらしいなと思う。


「まあさ。冗談抜きで気をつけろよ。何でか分からないけど、鷹見社長はあんたに興味を持っているみたいだし」


 確かに何なのだろう。彼にとって私は何なのだろうか。

 難しい顔をしていると、彼は少し笑った。


「あんたには瀬野社長が付いているから大丈夫だと思うけど」

「……色々心配してくれてありがとね、松宮君」


 それについては何も言えなかった私に松宮君は一瞬眉を上げたが、ああと答えた。


 その後、食事が終わって精算の場で揉めたが、社会に出て自分で働いたお金でごちそうしてもらう約束で今回は私がごちそうさせてもらった。


「じゃあ、ありがとうね、松宮君」


 店先で別れの会話を交わす。


「こちらこそありがとう。でも本当に家まで送らなくていいのか?」

「やっだー。そんな事をしてもらって、私が松宮君に惚れちゃったらどうするの」

「ん、だな。じゃあ、帰る」

「つれないな。落ち込むわ……」

「冗談だよ。……ほら、あんたの横には立ち向かうには強敵過ぎる人間がいるからな」


 誰の事だろう? あ、横って事は瀬野社長か。うん、社長なら強敵だけど、それが何?

 首を傾げると、松宮君は苦笑した。


「あんたが相手じゃ、あの人も苦労しそうだな」

「はい? よく分からないけど私に失礼ですよ?」

「うん。いっそうの事、そのまま気付かないでおけ。面白いから」


 面白いって何よと眉根を寄せていると、松宮君がふっと笑った。


「何か色々あるかもしれないけど、自分らしく頑張れよ」

「私らしく……」


 って何だろう。何だっただろう……。

 困惑している私に松宮君は肩をすくめた。


「後先うだうだ考えるよりも心で行動しろって事」

「……そっか」

「うん。俺も頑張るよ。――ほら」


 彼は腕を伸ばして拳を差し出して来る。


「健闘を祈る」

「……うん。あなたもね」


 私は彼の拳に自分の拳を合わせた。

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