30.ヒーローは誰が為のヒーローか
社長室の扉をノックすると、会釈して社長室に入る。
「失礼致します」
「ああ、悪い。この書類を二時までに処理してほしいんだが」
デスクに書類が積み上げられている。相変わらずの素晴らしい量だ。ただいまの時刻、一時二十三分。文句を言っている暇はなさそうだ。
「はい、かしこまりました」
会釈して退室しようと思って足を止めた。医務室に連れて行ってくれた人が見つかったことだけは報告しておかなくちゃ。
「どうした?」
「はい。実は私を医務室へ運んでくれた方なのですが、見つかりました。情報セキュリティ室に行った帰りに声を掛けて頂いたんですよ。先ほど名刺を頂いたところです」
社長は黙ったまま聞いていて、私は名刺を取り出すと社長の前に差し出した。
「この方です」
「営業部の藤崎聡……君か」
「ご存知ですか?」
「名前だけな。営業成績の良い優秀な人物だと聞いている」
「そうですか。昨日のお話を聞こうと思っていたのですが、社長がお呼びだとのことで一度戻って参りました」
「……そうか。分かった。とりあえず君はこの書類に取りかかってくれ。それと菅原室長を呼んでくれるか」
「はい。承知致しました」
そして私が菅原室長に声をかけて社長室に行って頂いたかと思うと、すぐに社長室から出て来た。
「室長。もうご用は済んだのですか?」
「これからなのよ。行って来るわね」
「え、ええ? はい、お疲れ様です」
室長が去った後、時折電話を受けつつ、書類を処理する。何とか二時には間に合いそうだ。そうしている内に室長が藤崎さんを連れて戻って来た。椅子から立ち上がる。
「室長、彼は」
「社長が彼をお呼びなの」
「……そうですか」
社長が直接彼からお話を聞くと言うことだろうか。
「ああ、木津川さん。そう言えばさっき秘書課だって言っていましたね。でも社長秘書だったとは驚きました」
「ええ、あ、はい。まあ、ええ」
藤崎さんは笑顔でそう言うが、何と答えれば良いものやら。と言うか、何がどう驚きだったのか百文字以内で述べよ。……とは、言わないけどさ。
「藤崎さん、いいかしら」
「はい。では木津川さん、失礼致します」
「……はい」
社長もお忙しいとは言え、何だか慌ただしいな。
「おっといけない。私もあと少しだから早く済ませよう」
私が書類の処理を終わらせて社長にお持ちしようと思った頃、藤崎さんたちが丁度社長室から出てきた。
「あ、お話は終わりましたか」
「……ええ」
社長室に入った時と違って、曇った表情の藤崎さんに疑問を抱きつつ菅原室長を見る。しかし室長は中で何が起こったのか、表情を微塵も見せないで、こちらに声を掛けた。
「木津川さん、書類の処理が終わったの?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、提出しに行ってくれる? 私は彼を出口まで送るわ」
「……はい。分かりました。では藤崎さん、失礼致します」
「ええ」
会釈して彼が去るのを見て、社長室の扉をノックした。
「失礼致します、社長。書類をお持ちしました」
「ああ。ありがとう」
社長はあまり表情を変えないが、どこか重苦しい雰囲気が漂っている。
「社長? 藤崎さんにお話を伺ったのですか?」
「ああ」
「それで彼は何と?」
何も答えてくれないので話を促す。
「……伊藤君を呼んでくれるか?」
「え?」
「伊藤加奈君だ」
どうやら社長は私に話す気がないようだ。社長相手に問い詰めても仕方がないだろう。私は素直に頷いた。
「……かしこまり、ました」
社長室を出て伊藤さんを呼びに行く。
「伊藤さん、社長がお呼びです」
「何でしょうか?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべる。何だろうとは私の方が聞きたいのだけど。
「用件は分からないのだけど、来てくれる?」
「はい、ただいま」
彼女を伴って社長室を訪れると、社長は伊藤さんだけ残って私に下がるようにと言う。社長のただならぬ空気に不安感が募るが、私は会釈して退室した。
伊藤さんが社長室から出てくるまでの時間はそれこそ、一分が一時間にも思える程の長い時間に感じた。一体何の話をしているのだろう。不安感がピークに達した時、伊藤さんが社長室から出て来た。
何だか目が赤い。……泣いていたのだろうか。
「伊藤さん? 一体どうし……」
「社長が木津川先輩をお呼びです」
「え? あの――」
さらに声を掛けようとしたが、伊藤さんはそれだけ言うと社長秘書室を去って行った。黒田君ではないけれど、嫌な予感がしてならない。胸をドキドキさせながら、入室を許されて社長室へと入る。
「あの、社長。一体何が?」
「先ほどの彼、営業部の藤崎君に話を聞いた」
「はい」
「彼は昨日、昼休みに屋上で休憩しようと上がったそうだ。そこで人の言い争う声が聞こえたらしい」
言い争う声。そう言えば私も誰かと言い争っているシーンが思い浮かんでいた。先ほど彼女が呼ばれた事を考えると、おそらく相手は伊藤さんだったのだろう。
「私と……もしかして伊藤さんが争う声ですか?」
「ああ。さっきここに来る時に秘書室で伊藤君を見かけて、相手が彼女だと気付いたらしい」
「そうですか。それで彼は……何と?」
不安な気持ちを抱きながら尋ねると、社長は少し眉をひそめた。
「……君が伊藤君と話していたのは、彼女を責め立てる言葉だったらしい」
「責める?」
「君のミスの全ては伊藤さんにあると言っていたそうだ」
「わ、私がですか!? 私が本当にそう言ったと!?」
そんな、そんなはず、あるわけが無い。……でも。本当に私は彼女にそういう事を言わなかったと言えるのだろうか。私はずっと優秀な彼女に劣等感を抱いていたし、そのせいか、ペースを乱されていた気がする。
そんな気持ちでいた中で、この記憶を失った一週間の内に何かに苛立った私が彼女に八つ当たりしたという事が本当になかったと言えるのだろうか。違うと言い切れる自信が今の自分にはない。
「い、伊藤さんは何と?」
「屋上に呼び出され、君に責められていたそうだ。秘書の研修を辞退しろとまで言われていたらしい」
もはや言葉も無く、茫然としている私に社長はさらに言った。
「伊藤君はもみ合っている内に君が階段から落ちたと。……いや、遠回しには言っていたが、君が彼女を突き落とそうとして逆に君が落ちたと」
「えっ!? わ、私が彼女を!?」
嘘。そんな、いくら何でもそんな事をするはずが……。
「さ、さっきの彼は……藤崎さんも私が伊藤さんを突き落とそうとしていたと、そ、そうおっしゃっていたのですか?」
「……いや。ただ、君たちがもみ合っている様子は分かったらしい」
どうして彼は何も言わずに立ち去ったのだろう。そして伊藤さんも私に何も言わなかったのだろう。
その答えは社長が出してくれた。
「藤崎君は立ち聞きしていた後ろめたさから名乗らず立ち去ったが、やはり気になって君に声を掛けたそうだ。伊藤君は木津川君を怪我させてしまった負い目があって、自分さえ我慢していればいいと思ったらしい」
何だか先回りされている感が否めない。そう思ってしまうのは自己防衛本能からの被害妄想なのだろうか。
「君の言い分は――と言いたいところだが、記憶を失っているわけだから申し開きは期待出来ないな」
「……っ」
そうだ。何も言えない。けれど第三者が入った事で、伊藤さんの言い分に真実味が高まったのは確かだ。そして信じて欲しいとも言えない。私自身が私を疑っているから。
自然と俯いてしまう。
「はい。私から申し上げることは何も……ございません」
「……とりあえず君には伊藤君と関わるのを止めてもらう」
その言葉に弾かれたように顔を上げた。社長の表情は相変わらず無表情で、その意図を読み取る事はできない。そして言葉で説明もしてくれない。
自分で自分が信じられない。だから社長に信用してもらおうなどと思う事は図々しいと思う。思うけれど……。
「承知、致しました」
私が言えるのはそれだけだった。




