29.現れたヒーロー
次の日、社長は菅原室長を社長室に呼んで事の顛末を説明してくれた。室長は社長の言葉に頷く。
「分かりました」
「……ご迷惑お掛け致します」
「いいのよ。大変だったわね。それでどのくらいの期間を忘れているの?」
室長に頭を下げると、彼女は私に尋ねてくる。
「えーっとそうですね。忘れているのは過去一週間ぐらいのようです。手帳にその一週間で入った予定は記載しているとは思うのですが」
「そう、分かったわ。それで検査の方は? 脳の検査とかした? 頭大丈夫?」
えーっと、室長、頭大丈夫は結構酷いです。
私は苦笑しながら答えた。
「何も問題ないそうです。ただ、一過性の記憶障害だろうと」
「だったら良かったわ。とにかく皆にも協力をお願いしましょう」
「はい。それでは一度退室させて頂きます」
私は社長に向き直った。
「ああ」
そして私は菅原室長と共に社長室を出て、秘書室へと向かった。
「と言うわけで、皆も木津川さんに協力してあげてね」
「度々ご迷惑お掛け致します……」
頭を下げると、秘書さん方に次々と話しかけられる。
「とりあえず検査で何もなくて良かったわね」
「先輩が記憶喪失……ですか?」
「……それはお疲れ様です」
「ねえねえ、木津川ちゃん、記憶喪失ってどんな感じなの?」
「こらこら、野田さん、彼女は大変なのよ」
菅原室長は野田さんを嗜める。
「い、いえ。大丈夫ですよ。確かにこういう事って、興味ありますよね。えーっとですね。今回は――」
「今回?」
以前もありましたとか言うと、またややこしくなっちゃうよね。
「あ、い、いえ。何と言うか、普通なんですよね」
「普通って?」
「自分の事は分かるし、仕事の事は分かるし、ただ一週間分が抜けたんだと思うだけですね。いつもの日常と変わったという感覚でも無くて、昨日の続きという感じです」
前回は仕事に関する記憶を全て失っていて、日常にぽっかり穴が空けられた気分だったものね。
「なるほどー。そういうものなのね」
そう感心したように言うのは野田さん。
「あ。あくまでも私の感覚は、ということですけど」
「でも不安じゃない?」
「そうですね、確かに。大事な予定が入っていたのに、予定の記入漏れとかあったらと思うと恐いですね」
後で、走り書きしているメモも確認しておこう。
「……あなたって仕事熱心ね。普通、もっと自分の事を心配しない?」
宮川さんは苦笑した。
そう言えば、社長にもそんな事を言われたっけ。けれど、今はただ仕事に穴を空けるような真似をする事だけが一番恐ろしいと思う。
「何にせよ、私たちがフォローするから安心しなさい」
菅原室長が場を締めると、他の秘書さん方も大きく頷いてくれた。
「ありがとうございます。お願い致します」
「ええ。それでは皆、仕事に戻りましょう」
室長の声で各々がデスクに戻る。その中で、伊藤さんがこちらに小走りにやって来た。
「木津川先輩」
「あ、伊藤さんもごめんね。迷惑かけるかもしれないけれど、よろしくね」
「……本当に記憶を失われたのですか」
何だろう。彼女は訝しそうな瞳を向けてくる。まあ、失った記憶は一週間程度なものだから、私自身、記憶喪失って言われてもピンと来ないのよね。
「え? ええ」
「昨日の事……この一週間の事、全く思い出さないのですか」
「ええ。ごめんなさい。あ、もしかして何か伊藤さんにお願いでもしていた? 手伝ってもらっている事があったのに任せっきりとか……」
慌てて手帳を見る私の様子に彼女は申し訳ないと思ったのか、強い視線を緩めた。
「あ……い、いえ。ただパソコンのソフトの使い方を教えるとおっしゃっていたので」
「え、そうなの? ごめんなさい。手帳には書いていないようだから言ってくれて良かったわ。後で教えるわね」
「ええ、お気になさらないで下さい。ではお願い致します」
「ありがとう」
私は手帳の今日のスケジュール表に書き込む。
「……先輩」
「ん?」
「手帳に書いたスケジュールって、お持ちの電子端末にも入れていましたよね」
「ええ、そうよ。会社から支給されているの」
黒革の手帳、ならぬ黒革のカバーがかかった電子端末だ。
「二度手間じゃありませんか?」
「確かにそうね。でも手帳の方が持ち運びいいし、すぐに書けるから私は手帳の方が好きなのよね。ただ電子端末はオフィス外でも必要情報を検索できたりして利点がいっぱいあるし、両方使いしているわ」
ちなみに自分の電子端末も持っている。なお、スイーツ写真や情報が満載である事は言わずもがなだ。スイーツ情報やら今まで食べた物を管理するという面では電子端末様万歳である。
「……そうですね。だけど電子端末は紙に比べてリスクがありますね」
「ん?」
「情報管理の面です」
「ああ、確かにね」
「私は現在持たされていないのですが、そういうのは盗まれちゃったらどうするんですか?」
「セキュリティもあるし、アクセス制限も掛けてもらっているから大丈夫よ」
「……そうですか。じゃあ、安心ですね」
伊藤さんはそう言うと笑った。その言葉にどこか引っかかりを覚えながら私は頷いた。
一応、社長の仕事内容に関してはしっかり手帳に書いているようだけれど、他の社員さんから頼まれた事などは伊藤さんの例からして書き留めていないかもしれない。黒田君にも念のために声をかけてみよう。
そう思って彼の元へと行く。
「黒田君。木津川です」
「ほーい」
彼の軽い返事があって、鍵が解除される。
「今日はどうした、づかちゃん」
椅子をくるりと回して彼はそう笑った。
「んー、あのね。私、君に何かお願いしていた事やお願いされていた事ってあった?」
「は? どういう事?」
「実は昨日ね、階段から落ちたらしくてね」
「えっ!? 大丈夫?」
黒田君は椅子から立ち上がって、こちらにやって来た。
「初耳だよ」
「うん、今言ったからね」
「じゃなくて……。で、検査してもらったの? づかちゃんの事だから病院とか行ってないんじゃないの?」
何で皆、私の心を読むのよ。
「いえ、病院には行ったのよ。それは問題なかったわ」
「そう。だったら良かったけど。で、何が問題なわけ?」
「えーっと、あのね。ちょっとばかり記憶、無くしちゃって」
「……はい?」
黒田君は全く意味が分からないとでも言いたげに眉を上げた。
「うーんと、ここ一週間くらいの記憶を失っちゃってね」
「はあぁっ!? そういう事って本当にあんの?」
「あるようですねー」
二度目でーす。
えへへへと誤魔化し笑いしてみたら、黒田君はハァとため息を吐いた。
「何それ、目茶苦茶問題ありじゃん」
「あはは、そっかなー」
「そっかなー、じゃないよ……」
でも二度目だから、比較的慣れているんですけどね。
「ごめんごめん。それで何か君にお願いしていた事とかされていた事とか無かったかなと不安になって聞きにきたの」
「いや、別に俺の方は何も無いけど。それより大丈夫? いつまでの事を忘れているわけ?」
「そうね。先週の火曜日から昨日の階段から落ちたらしいという事くらいまでかな」
「……そう。どうせ忘れるなら、もっと前から忘れられていたら良かったのに」
「黒田君、ありがと。……大丈夫だよ」
黒田君は私の頭に手をやると、くしゃりと撫でた。
「づかちゃん、気を付けて」
「え?」
「何だか嫌な予感がする」
「やだ、そんな非科学的な感覚の事をシステムエンジニアの黒田君が言うの?」
「……そうだね。確かにそうだった。気にしないで」
黒田君はそう笑ってみせたけど、ええもちろん、気になりました……。
情報セキュリティ室からの帰りだった。
「あれ……君」
「え?」
前からやって来た人物が私の顔を見て足を止めた。二十代の後半くらいだろうか。爽やか風の青年だ。知人ではない。この一週間で会っていなければだけれど。
「あ、いや」
ここの社員のようだから大事にはならないかもしれないけど、知らないと言うのも悪いな。そう考えていると、彼もまた歯切れ悪そうに言った。
「間違っていたら悪いんですけど、もしかしてあなた、階段の踊り場で倒れていた……人かな」
「えっ! も、もしかしてあなたが私を医務室まで運んでくれた方ですか?」
「あ、ええ」
「その節はどうもありがとうございました」
慌てて頭を下げた。
「あ、いや、すみません。お礼を言ってもらうつもりで声を掛けたんじゃなかったんですけど、顔を見たらつい声が出てしまって」
「いえ、とんでもないです。お名前が分からず、お礼ができなくて困っていたんです」
「僕は医務室に運んだだけでしたから名乗るのもおこがましいと思いまして。かえってお気を遣わせてしまったようで、すみません」
彼は手を頭の後ろに当てて、照れ笑いした。
「そうだったのですか。あ、ご挨拶が遅れました。私は秘書課の木津川晴子と申します」
「僕は営業部の藤崎聡と申します」
私たちは常日頃からの癖というやつで名刺交換する。
「本当にありがとうございました」
「いいえ」
「あの、藤崎さん。実は少しお尋ねしたい事がございまして」
「……ええ」
「昨日、私が――」
「あ、木津川さん、ここにいたの!」
「え?」
前からやって来た宮川さんが声を掛けてきた。
「あら、ごめんなさい。お話し中だったかしら。社長がお呼びなんだけど」
「あ、はい。すみません。ただいま参ります」
私は藤崎さんに視線を戻す。
「すみません。またお話を伺っていいですか」
「ええ。分かりました。いいですよ」
「ありがとうございます。それではまた」
私は会釈して社長室へと急いだ。




