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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
26/57

26.階段は鬼門

 昼休み、リラックスしたくて少し風に当たろうと屋上へと足を向けた。普段はほとんど利用したことはないが、今は人がいる所には極力身を置きたくない。屋上ならきっと人は少ないだろう。

 そう思って扉を小さく開いた時。


「――までは分かりませんでした」


 どこかで聞いたことがある声の人が押し殺したような声で誰かと話しているのが耳に入る。だけどそれは目の前の相手とではなく、電話で誰かと話しているようだとすぐ気付いた。


 先客がいるなら残念だけど戻ろうかと思って扉を閉めようとした時、その女性は甲高い声で叫んだ。


「ま、待って下さいっ! あと少し、あと少しなんです! あともう一押しで木津川さんは秘書としての信頼を失うはずです!」


 そのセリフに思わず手が止まる。しかもこの声はやっぱり。


「ですから、お願いですから私を信じて――っは。ま、待って下さい、ま、またかけ直します」


 彼女は突然そう言うと、電話を切ったようだ。え、何? なぜ? もしかしてこちらの気配に気付かれた? 後ろは階段で隠れるには時間がないし、引いてもだめなら押してみろっ!


 私は向こうが扉を開放するだろう前に思い切ってこちらから扉を大きく解放する。すると彼女はびっくりしたような表情を浮かべていた。……やはり伊藤さんだったか。


「き、木津川さん、先輩、どう、どうしたの――ですか」


 彼女の動揺ぶりにかえってこちらの気が静まるから不思議だ。


「私は風に当たりに来たのよ。あなたは電話中だったみたいね」

「え、ええ。はい」

「……聞いてしまったんだけど」


 こういうのは先制攻撃するべきだ。


「何の事でしょうか」


 最初の動揺から立ち直ったのか、彼女は笑みを浮かべて見せた。意外と立ち直りが早いな。


「あともう一押しで私は秘書としての信頼を失うはずですとあなたは言ったわ」

「…………」

「今までの事は全てあなたがやった事なの?」

「何の事です」

「あなたがここに配属されてから、私はミスの連続だったわ。それをあなたがずっと助けてくれていたと思っていた」


 彼女は黙って聞いている。


「だけど本当はあなたが私のミスを誘い、それを助けるふりをしていたの?」


 よくよく思い返してみれば、彼女に関して不審な点は色々あるのだ。


 私が休みを言い渡された社長会合の日、何を意図してのものだったのかは不明だが、会場に彼女は現れた。社長は次の日、紙に書いて私に見せてきた。会場は誰かに伝えた覚えはあるかと。


 私が会議の開始時刻を間違え、準備に焦っていたあの日もそうだ。伊藤さんが準備してくれていた会議室を後にする時、澤村さんは私に尋ねた。伊藤さんに会議に参加する人数まで伝えていたのですか、と。彼女はあの時、私から受け取った資料の数と伊藤さんが用意した席とが一緒だった事に気付いたのだろう。


 そのどちらも私は誰にも伝えなかった。それなのに彼女は会場を知って訪れ、会議に参加する人数まで把握して準備していた。


 それにパソコンの不調はプログラムの構成が変えられている事が原因だと黒田君が言っていた。私が触って消去が始まる直前に触っていたのは伊藤さんだった。


 何より不審に思ったのはビザの件だ。確かに申請していた私の依頼をキャンセルし、ご丁寧にメール削除までしてみせた。明らかに悪意があって実行されたとしか思えない。……もっともこれに関しても彼女が私のパソコンをいつ触って削除したのかというのがはっきりしないのだけれど。


 しかしそれら全ては私の自信を喪失させ、信頼を落とし、そして伊藤さんの株を上げるものだったと考えれば納得がいく。状況証拠だけ集めて見れば彼女が怪しいことを示していたのだ。


「酷いです、先輩。自分のミスを全て人のせいにするおつもりですか? ……それとも私がやったという証拠でもあるんですか?」

「っ!」


 確かに物的証拠はない。ミスを誘う小細工ぐらいできたとしても社長室内でしか知り得ない事を彼女が知る事ができた証拠のようなものを掴まない限り、彼女をこれ以上問い詰めることはできない。


 それこそ、この世界が乙女ゲームの世界で彼女はヒロイン転生して未来予測をできる立場でも無い限り、彼女は知る事などできないだろう。しかしそんな事を言ったところで、一笑に付されるだけだ。


 黙り込んだ私に彼女は嘲笑するように口角を上げた。彼女のそんな表情を見たのは初めてで背筋が凍る。こんな笑い方をする子だったのかと。


「じゃあ、そういう事ですので、失礼致しますね」


 私の横をすり抜け、階段へと向かう。慌ててその後を追って腕を取る。


「ちょっと待って」

「まだ何か?」

「もしかして噂も? 私の噂もあなたが?」

「噂? ああ、先輩が枕営業したという噂ですか」


 あっさりと出したその言葉に顔が強ばると彼女は嘲笑した。


「先輩ってそういう人だったんですねー。私、びっくりしてしまいました。人は見かけによらないって言いますけど、本当ですね」

「違うっ! 違うわ! 私はそんな事をしてないっ!」

「何必死になっているんですか。いいじゃないですか、別に女の武器を使ったって。男女平等が叫ばれるこの世界でもまだまだ男が優位な社会で、女が上に行こうと思うならそれくらいしなくちゃ。私はそこまでできちゃう先輩の野心だけは尊敬しますよ。もちろん私はそんな真似は到底出来ませんけど。ああ、汚らわしい、私に触らないで」


 そう言って私の手を振り払う。


「……っ!」


 落ち着け。彼女は私を煽って煙に巻こうとしているだけだ。冷静にならなければ。


「あなたは私の信頼を落として何をするつもりなの」

「席が一つ空くという事ですよ」

「あなたが私と取って代わりたいの?」

「ええ、そうですよ。社長秘書の座は魅力的ですから」


 そんな可愛い考えならまだいい。私一人が代替わりし、会社が今までと変わりなく動いていくだけなら。だけどさっきの電話の応対から考えると彼女一人で行動しているわけでは無い。彼女の背後で誰か糸を引いている者が……いる。


 産業スパイ。


 そんな言葉が頭に浮かんでくるのは仕方が無いことだろう。でも証拠が何一つないのだ。あるのは状況証拠のみ。しかも一つ一つがあくまでも私を陥れるだけの小さなものだけで、スパイとしての決め手に欠ける。だけど、もしそれが目的ならこの事態はもっと深刻だ。


「……まさか、あなた産業スパイじゃないわよね」

「は?」


 彼女は小馬鹿にしたように眉を上げた。


「何を証拠にそんな事を言っているんです」

「さっきの電話よ! 誰かあなたに指示を与えている者がいるんでしょう」

「ひどーいっ。あれくらいの内容で私をスパイと決めつけちゃうんですか。あ、もしかして私を辞めさせようとする新手の新人いじめですか?」

「なっ……」


 挑発の言葉は悔しいが彼女の言う通りだ。それに今、特に実害が出ている訳ではない。彼女を企業スパイの可能性があると言って調査してもらうにはあまりにも状況が弱すぎる。むしろ彼女の言う通り、私が彼女を陥れようとする構図にしか見えない。


「それにね、先輩。この事を今の先輩が誰かに言った所で信用してもらえると思います?」

「え?」

「色々悪い噂が回っていますもんねー。ご存知でした? 先輩、社長秘書権限で色々好き勝手しているんですって。そんな先輩の言うことなんて信じてもらえるかしら? だって今の先輩、後輩の私に全ての責任を押しつけようとしているだけにしか見えませんよ?」

「まさか始まりの……全ての始まりの脚立の件もそうなの? あなたが手を回したの?」

「違いますよ」


 彼女は笑ってはっきりと否定した。


「白々しいですね。先輩が総務課に強制したんでしょう。社長秘書としての権限を使ってね」

「違うっ! 私はそんな事はしていないっ!」

「他人にとって真実なんてどうでもいいんですよ。人は面白く思う方の言葉を信じるのみですよ」


 そうだ。人は自分に不利益にならない限り、面白ければ嘘や噂を容易く信じたがるものだ。人と比べて相手の劣るところを見つけて優越感に浸りたがる。ずっとそうだった。


「先輩って気の毒な人ですよね。先輩は人を信じるのに、人は先輩を信じない」


 くっと喉が詰まる。そんな私を見て、伊藤さんはうっすら笑った。


「もう、止めにしたらどうですか?」

「え?」

「人を信じるから心が疲れるんです。だったらもっと人を疑えば良い。人なんて信じなければ良い」


 悪寒が走るほどの彼女の薄笑いに身体が震える。


「そう、誰も信じなければ良いのよ。自分の心を理解してくれるただ一人の人だけを信じて、後は全て信じなければいい」


 彼女はまるで陶酔した表情でそう言う。


 誰? 一体誰のことを言っているのか。もしかしたら電話の相手だろうか。その人が、彼女が唯一信じる人間なのか。だけど――。


「違う! あなたは間違っている!」

「……間違っている?」

「こちらがきちんと人と向き合って人を信じれば、きっと相手も同じように信じてくれる! 全ての人は無理でも自分の事を信じてくれる人だっている!」


 まるで自分に言い聞かせているようだ。


「ふざけないで! あの方が間違っているとでも!?」

「あの方……?」


 彼女はその人の為に動いているのだろうか。


「いいわ。だったら証明してあげます。もう少しあなたを追い詰めてからにしようと思っていたんだけど、遅かれ早かれそうしようと思っていたし」

「な、何を言っているの?」

「丁度良い機会ね」


 彼女は無邪気そうに笑うと弾むように階段を半ばまで下りていく。


「い、伊藤さん?」

「筋書きはこう。私はお昼、屋上へ木津川先輩に呼び出された。そこでこれまで犯したミスの数々を木津川先輩に庇ってもらっていたと証言するように迫られる」


 胸騒ぎがして、私はゆっくり階段を下りて伊藤さんに近付く。


「でも私はそれを脅えながらも拒否をする。先輩はだったら秘書課にいられなくしてやると脅してきた。ああ、ここで私がそんな人だとは思わなかったと先輩をなじる事を言ったとしてもいいかもね、すると先輩は逆上して私を階段から突き落とす」

「……突き落とす? 私が? あなたを?」


 まるでライトノベルみたいね。こんな時なのに頭の片隅でそんな事を思ってしまう。それともこれは本当に乙女ゲームの世界だとでも言うの? 彼女が怪しいのは明確なのに、まるで証拠がない。本当に彼女はこの世界の何もかもを知り尽くしているんじゃないかと、そんな錯覚にすら陥る。


 でも違う。そうじゃない。ここは現実なのだ。現実だからこそ、私が彼女を突き落とすなんて事はあり得ない。……そうだ、ここは現実だ。もし彼女が産業スパイなら証拠はきっとここに。


「何言っているの。私はあなたを突き落とさない。その真実は揺るがないわ」

「真実? 真実なんてここにいる私と先輩しか知り得ませんよ」

「え?」

「真実かどうか、誰も検証してまで知りたいとは思わない。人は他人の噂話をして面白おかしく生きる事ができるならそれだけでいいんですから」


 憎らしげにそう言い放つ伊藤さんももしかして過去に何かあったのだろうか。


「伊藤……さん? あなた」

「人が信じたい噂というものはね、事実からいくらでも作れるんですよ」


 ……そうだ。事実にたくさんの尾ひれがついて出来上がったものがきっと噂なんだろう。


「それをここで証明してあげますよ」


 身体を張ってでも証明しようとする彼女に冷や汗が流れる。


「ば、馬鹿な事は止めなさい、伊藤さん」

「ホント、みーんなバカばっかりですよね。弱い人間の方の話を信じたがる。今、立場的に弱いのはどっちでしょうか。木津川先輩? それとも私?」

「伊藤さんっ!」


 どうしよう、どうすれば彼女を止められるのか……。じわりじわりと間合いを詰めていく。


「私が怪我すれば、さらに私は守ってあげたい弱い人間なりますね。可哀想な私は先輩から八つ当たりされて怪我しましたって」

「止めなさい! あなたが敬愛するその人はあなたが身体を張ってでも結果を残さなきゃ、認めてくれないような愚かな人間なの?」

「あの人を侮辱しないでっ!」

「だって愚か者じゃない!」


 思わず叫び返してしまう。


「あなたはすごく可愛いし、素直で頭も良いし、仕事もできるじゃない。彼はどうしてそんなあなたを理解しようとしないの。何よりもどうしてそんな男に執着するの。素のままのあなたじゃ、どうしていけないの!」


 彼女は一瞬目を見張り、そして顔を歪ませた。


「だって……そんなんじゃ認めてもらえないのよ。それじゃ、駄目なのよ」

「伊藤さん?」

「それだけじゃ……足りないのよ。認めてもらえないのよ」

「だったら私が認めるわ! ええ、そうよ。こうなったら言うわよ。あなたに嫉妬していたわ」


 顔が紅潮するのが分かる。


「悔しいけど、優秀なあなたにずっと嫉妬していたの!」

「……っ!」


 私は階段を下りて彼女に近付き、手を伸ばした。


「だから。ほら、手を取って。私があなたを認める。あなたは素晴らしい人よ。……だから私の手を取って」

「信じ……られない」

「信じて良いよ。自慢じゃないけど、色んな人に君の気持ちは手に取るように分かるよと褒められるのよ。あなただって分かるでしょ?」

「でもそれ……褒められてないし」


 伊藤さんは今にも泣きそうな表情で笑う。彼女のその表情になぜか胸が痛んだ。


「そう言えば、社長にもそう言われたわ」

「……ですよね」


 そう笑うと伊藤さんは震える手を伸ばした。ほっとして、彼女が伸ばす指先を握りしめようとしたその時。


「先輩って本当に――お人好しバカ。……バカ」


 伊藤さんは笑みを消して、こちらに伸ばしたはずの手で拳を作ると足を一歩下げた。彼女の身体ががくんと傾く。


「伊藤さんっ!」


 一気に詰め寄り、傾く彼女の身体を引き上げようと力強く腕を引いて戻した。


「きゃっ!」


 甲高い声を上げながらも彼女は何とか階段へと両手を突いて崩れこむ。


 良かったとほっとした途端、自分の身体が傾いているのに気付いた。どうやら引き上げる力が勢い良すぎたようだ。反動で自分の身体が階下へと崩れて行く。


「あっ……」


 ああ……やっぱり階段は鬼門だ。こういう所で言い争いはするべきではなかったわ。これからは崖と階段で言い争いすることだけは断じてするまいぞ。それにしても、うわーんっ、正面から落ちるのは滅茶苦茶恐いですっ! ああもう、せめてせめて骨折とかしませんよう――。


 考えられたのはそこまでだった。そして。

 何だ今の音、おい君大丈夫かと薄れ行く意識の中で聞こえた気がした。


 その後は……暗転、である。

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