25.ミスは仕組まれたもの?
「木津川さん、少しいいかしら」
宮川さんに人気のない会議室に呼び出された。と思ったら、菅原室長も既にそこにいた。
何だろう、雰囲気が重い。
「あのね。先日のビザの事だけど」
「あ、はい。その際は本当にお世話になりました!」
私は頭を深く下げた。おかげで先週末には間に合って、貴弘様は海外へ高飛びする事ができた。ちなみに失礼な物言いは承知の上だ。
「そ、それはいいの。頭上げて話を聞いてくれる?」
「はい」
宮川さんは少し困った顔をして、菅原室長を見た。すると室長は頷いた。
「あのね……室長にはもうお伝えしたんだけど、あなたはビザを申請していたはずなのにできていなかったと言っていたわよね」
確かにそう言ったと思って、おずおずと頷いた。
「木津川さんはね、申請していたらしいのよ」
「……え? どういう意味でしょうか」
私は宮川さんと菅原室長の顔を交互に見る。
「あの時、確かに私は申請していたつもりだったのですが、確認してもメールには残っていませんでした」
「ええ、あのね。確かに申請できていたのに、後からキャンセルのメールが入ったそうなのよ。彼が確認したらそういう状況だったと教えてくれたの」
「えっ!?」
そんなメールは見当たらなかった。一体なぜそんな事が起こっているの……。
それまで黙っていた室長が口を開く。
「どうやら誰かがあなたの仕事を妨害したと考える方が自然ということね」
「……そんな、まさか」
「社長秘書って言うのは、会社の中枢を担う社長に付いている分、色んな情報も握っているわよね。それはあなたも自覚しているでしょうから、仕事に関して余計な事は一切口を開かない努力をしているのを知っているわ。それを面白くない人間もいるって事よ。あなたのミスを誘って、最終的には失職に追い込んで、口の軽い秘書を付けようと目論んでいる輩もいるってお話」
まあ、そんな秘書は危なっかしくて最初から弾かれるだろうけれどねと菅原室長は肩をすくめた。
つまり内部犯という事だろうか?
「それともう一つ。あなたって何気に有能なのよね」
「……は?」
そ、それは絶対ない。人よりも記憶力は悪いと思うし、不器用だし、立ち回り悪いし、要領も悪い。一生懸命やってようやく普通の秘書として使えるぐらいで、ここの秘書さんたちのように特出した才能がない。
そう言うと、室長は笑った。
「まあ、それは言える」
ぐさり。自覚していても、改めて人から念を押されると言葉がナイフとなって突き刺さるものなのである。
宮川さんが室長ちょっとそれはと言って苦笑すると、室長はまあ待ちなさいと続けた。
「でも少なからぬ欠点を上回る努力をしているから好感が持てるし、本番には強いタイプだからね。真っ直ぐすぎて感情も顔に出やすいタイプで裏表を分けられないけど、その分嫌味がないし、疑心暗鬼の世界で安心できる相手でもあるのよ」
あれあれ? フォロー回に入ったかと思いきや、何だか褒められている気がしないのはなぜなのか。思えば門内さんも同じような事を言ってくれたけれど、そっと優しく労るようにオブラートに包んでくれていたんだな。はは……。
「つまりね、あなたのヘッドハンティングの可能性もあるって事」
「引き抜きという事ですか? まさか。それだけはないですよ」
手を振って否定すると、室長はすぐさまにっこり笑って頷いた。
「うん。まあ、それもそうね」
速っ! 否定が速すぎますよ、室長! 宮川さんは、くすくす笑ってばかりいないで少しくらいフォローなさいよねー。
それにしてもよくよく考えたら、社長は門内さんを瀬野家ご当主のお祖母様仕えにして、素人同然の私を起用したって、随分とリスクの高い事をしていたんだなぁ。社長様ってば、勇者か!
「うそうそ、冗談よ。あなたは瀬野社長の秘書になるべくして生まれてきた人よ」
え。何で瀬野社長限定なんでしょうかね……。そこは普通の社長秘書ではいけなかったんでしょうか。
微妙な表情を浮かべている私を無視して顔を引き締めた室長は言う。
「ともかくね、あなたは最近気落ちしているみたいだけれど、もっと自信を持って。それと……気をつけて」
気をつけて……か。これも門内さんに言われたな。それだけこの職に就いている以上、重い責任があるという事なのだろう。
「……はい、分かりました」
私たちが秘書室に戻ろうとしていたところで、廊下に出ていた黒田君と鉢合わせした。以前はほとんど引きこもりだったそうだけど、最近は他のシステムエンジニアさんとも交流しているようで、部屋から出る事が多いようだ。
「あ、お疲れ様、黒田君」
「よー、お疲れ、づかちゃん」
そう言えば先日の社長のパソコンの件はどうなったのだろう。社長は何も言わなかったから直ったのかなとは思っていたけれど。
「黒田君、先日の社長のパソコンの件、どうだった?」
「んー、外れ」
彼にしては冴えない表情を見せた。
「え? 直らなかったの?」
「んーちょっと違う。引き続き原因調査する、と言ったところかな」
なぜか彼は菅原室長の方をちらりと見た。何だろう。知り合いなのかな? いや、知り合いも何も顔ぐらい見合わせているか。それより。
「大丈夫? 社長のパソコンを替えた方が良いの?」
「日常業務には問題ない。少し追跡調査するだけ」
「そうなの? 良かった。あ、そうだ。だったら、黒田君に私のパソコンも見てもらいたいんだけど」
「え?」
眉をひそめる彼にさっさと室長が促す。
「そうね、早いほうが良いわ。行ってらっしゃい」
「あ、はい」
急かされて私たち二人はセキュリティ室へと戻る。
「ねえ、菅原室長と知り合いなの?」
「何で?」
「さっき室長の事を見ながら話していた気がしたから」
「あー」
黒田君は少し上を見上げた。
「何となく苦手なんだよね、あの人」
「嘘」
「は? 何で嘘になるんだよ」
「今、右上見たでしょう。だからよ。目の動きと脳は連動していて、過去を思い出すときは左上を見るんだって。今、あなたは右上を見たから嘘って事」
私がどや顔して説明すると、彼は意地悪そうに笑う。
「ふーん? でも俺は左利きだよ」
「左利きだから何よ」
「左利きは右利きと視線も反対になるらしい」
「え、本当!?」
黒田君はふふんと鼻で笑った。
「詰めが甘いな。それに俺が左利きなのは確かだけど、づかちゃんの言う通り、嘘を吐いたよ。苦手だからって言うのは嘘」
「え?」
「そういうのは統計的みたいなもので、それが全てじゃない。あまり真剣に捉えすぎない方が良いよ。まあ、話としては面白いけどね」
「あらら、そうなの」
なーんだ、がっかり。
すると彼はぷっと吹き出した。
「何よ?」
「あんたにはそういうテクニックなんて使わなくても、何考えているか分かるなーと思ってさ」
「え、ホント。マジやばい。仮面をかぶるのよ、晴子」
自分の顔に手をやってエアー仮面を被せる。
「何その自己暗示」
彼は少し呆れたように笑うと、セキュリティ室の扉を操作して開けている。いつの間にか到着していたようだ。
「どうぞ」
「ありがとう。ではお邪魔します」
彼はパソコンが置いているデスクへと向かうので一緒について行く。私に椅子を差し出してきて、自身も椅子に身を沈め込ませた。
「で。何が不調なの?」
「あ、不調じゃないのよ」
「は?」
「ごめん、ごめん。説明するけど、あのね、ここだけの話にしておいてくれる?」
この部屋には彼と二人だけなのに、自然と小さな声になってしまう。
「ああ。いいよ。それにそんなに小さな声で話さなくても、ここは盗聴器妨害対策が万全だから誰も盗聴できないよ」
「盗聴って大袈裟だなぁ……。まあ、いいや。それでね、実は私が仕事上で送ったビザ申請のメールが私の知らない所で削除された上に、キャンセルメールまで送られているらしいの」
「……え?」
「今回は他の秘書さんの力を借りて間に合わせる事ができたんだけど、そもそも勝手にパソコンを操作されていることが恐くて。情報漏洩とかも気になるし、調べてもらえないかしら」
「だね」
彼はそう言うと挑戦的な瞳を浮かべた。
「この世界でも超一流の天才システムエンジニアの俺に対して挑戦してくるとはいい度胸しているよ」
「ん?」
何だか方向性がずれている気がしないでもないけど、やる気があることは良いことだね。
「漏洩の事は心配しなくていい。ありえないから。づかちゃんのパソコンに侵入したヤツはすぐに調べて吊し上げにしてやるよ」
そう言うと彼は両手を組んで指をぽきぽきと鳴らすと、左の人差し指をおもむろに一本立てた。
ん? 何ぞ? 何のルーティーン?
「一分だ」
「え?」
「一分で調べて上げてみせる」
彼は一瞬こちらに向かってにっと笑う。
おぉっ! ちょっと違うけど、予告ホームランですか。イケメンが言うとより格好いいですね。
「はい。お願いします!」
「おうっ」
そして彼は一気に集中するとキーボードに手を掛けた。
まるでピアノの演奏でもしているかのような流れる指使い、かつ超ハイスピードでキーボートを弾いていく様はとにかく何度見ても圧倒されてしまう。私もこれだけ早くキーボードを打てるなら、今の仕事を半分の時間でできそうなんだけどなぁと思う。多分、慣れとかだけの問題じゃないんだろうね。
そう言えば社長もパソコン処理が早そうだな。あれだけたくさんの事案を毎日処理するんだもんね。私ももっと頑張らなくては。
ぼんやりそう考えていると、彼がふっと手を止めるのが目に入った。時間を計っていた私は時計を見下ろすと、おぉ、とれびあーん! 素晴らしい、丁度一分だ。
「お、終わったの?」
「ああ」
黒田君は椅子を回転してこちらを見た。私はこくんと喉を鳴らす。
「そ、それで誰だったっ!?」
「それが……」
「う、うん」
「だめだ。分からない」
がくっ。まさかの回答に肩ががくりと落ちた。
「……って、こらっ! ずっこけたよ! さっきの格好良い発言は一体何なの? 世界でも超一流の天才システムエンジニアさんとやら。それに意味ありげにためないで、すっと言いなさい。誰かと思ったじゃない」
「まあまあ、落ち着きたまえ」
黒田君は少し苦笑いしながらそう言った。
「確かに削除された形跡はあったよ」
「うん、それで」
「だけど、不審なアクセスはなかった」
「と言うと?」
「他のパソコンから侵入して消された訳じゃない。つまり、づかちゃんのパソコンから直接消されたって事だよ」
「……え? 私のパソコンを使って?」
何と大胆な犯人なのだ! ……いや。問題はそこじゃなかった。
「そうなると俺にできるのはここまでだな。この部屋みたいに社員証をかざして、入室者の管理をしているわけじゃないからね。づかちゃんのパソコンから指紋を採取して割り出すか、秘書室に防犯カメラでもない限りは誰の手によるものか分からないよ。お手上げだ」
彼はため息を吐くと言葉通り両手を挙げて見せた。
「そんな……」
黒田君まで分からないだなんて。いや……可能性はそれだけじゃない。
「あるいは黒田君を超える天才がいるという可能性もあるわ」
そう言うと黒田君はあからさまに表情を不快そうに歪めた。
「俺を超える天才がいるとは思わないな」
「うんうん。自分を天才だと思っている人は皆そう言うのよ」
私の言い方に黒田君はますますむっとする。
「ごめんごめん、冗談よ。あなたが超一流なのは分かっているってば」
苦笑してそう言うと、彼は肩をすくめた。
「大方、づかちゃんが席を立った時に誰かがやったんだろう。席から外れていた時はなかったの? メールの削除時間と送信時間を見てみると、づかちゃんの勤務時間内だよ」
「そりゃあ、席を立つ時はもちろんあるけど、そんな時はどんなに短く済む用事でも絶対にパソコンの電源を落としていくもの。情報管理に関しては慎重に慎重を重ねていたわ」
それに誰かが開けた時に履歴が残っていてログインできないようにIDとかパスワード保存できる、オートコンプリート機能も不便だけど絶対使わなかった。毎回毎回、入力するのは正直面倒だけれど、そういう拙いことでも怠る事で情報流出なんてなったら大変だものね。
そう言うと、彼はつがちゃんは真面目だねぇと笑う。
「じゃあさ、IDとかパスワードを知っている人間は? 何回かログインを失敗している事もあるんだよね」
「あー、ごめんなさい。それに関しては私の可能性が高いわ。時々打ち間違えているみたいでログインできない事があるから」
「ふーん。これからセキュリティ対策強化のために三回間違えたらロック掛けて、解除に差し入れ要求するからよろしく」
黒田君はそう言うと、ウインクして親指を立てた。人嫌いとか言っていたけど、よく話すし、よく笑うし、眉唾物だな。それにしても。
「君は私に厳しいなっ! さっきの仕返しな訳?」
「さあね。それで、どう?」
「IDとかパスワードを知っている人だけど、社長と……そうね、あなたくらいでしょうね」
「え? 何? まさか俺も疑われていたりするの?」
怒ってはいないけれど、意外そうな顔をしている。
「そんな訳ないでしょ。だったらそもそもあなたに頼まないわよ」
「そっ。ならいいよ」
黒田君は椅子に身を任せて軋ませると破顔した。こちらとしては笑っている心境ではないんだけどなぁ。
「とりあえずさ、気をつけなよ。少なくとも周りにはそういう人間がいるって事なんだからさ」
「それは重々身に染みておりますよ」
室長にも言われたところだし。
「心当たりとかある?」
「……ない」
「ふーん。で、誰?」
「だから無いってばっ!」
「その顔で無いとか言われてもなぁ」
ど、どの顔だ? 私は頬に手を当てる。
「お、憶測で人を疑うのは良くないと思うの」
「と言うか、その時点でもう疑っちゃっているよね」
「うっ、確かに。でもとにかく変な先入観を与えないように今は内に秘めておく」
「了解。それにづかちゃんがぼんやりしてメールを削除した可能性も捨てきれないしな」
「あのね。仮に間違って削除することはあっても、キャンセルメールまではしないわよ」
「それもそうでした」
黒田君は肩をすくめた。
「とにかくね、一人一台のパソコンを与えられているわけだから、基本的に他の人のパソコンを扱う事はないの。それに私の部屋は他の秘書さんたちとは分かれているから余計にね」
「他の秘書さんたちがづかちゃんの部屋に入ることはないの?」
黒田君は足を動かして、椅子をゆっくり左右に揺らしながら言う。
「もちろんあるわ。社長室への通り道だから社長や私に用事がある時とかね。でもさっきも言ったけど、私はたいてい席に座っていて、知らない内に誰かが私のパソコンを使うって事はありえないとは思うんだけど」
「でも実際に使われているわけだからね。本当に消さずに席を立った事はないの?」
「そ、そう言われると……自信がなくなってきたかも」
社長に呼び出された時とか、少しの時間ならいいかと思う事も無くは……無いかもしれない。
「づかちゃんって、洗脳されやすいね」
念押しされて自信を失っている私を黒田君は小さく笑う。
「でもほら、日常的に行っている事って、今日もきちんとしたかなって不安にならない? 家の鍵を閉めたかなとか、ガスのチェックをしたかなとか」
「うん、ないね」
「……あ、そうですか。とにかく削除した人の事は気になるけど、黒田君でも分からない以上置いておくとして、対策だけは取っておきたいわ。もっと強固な対策とか無いかしら?」
一番の問題はそこだよね。
「うーん。こっちで完全管理してもいいけど、そうなると俺が面倒だから初歩的だけどとりあえずはパスワードを変えてみたら?」
今、俺が面倒とか言わなかった!? ちゃんと仕事してよねーっ。でもまあ、まずそれから試してみようか。
「あー、パスワードね。うん、分かった。定期的に変えるべきなんだろうけど、頻繁に変えると自分でも分からなくなって来るのよね」
「ああ、それはお気の毒に。凡人にしか分からない悩みだろうから理解出来なくてごめんね」
「うっさい! 超ド凡人で悪かったわね」
黒田君は吹き出した。
「ホント面白いよな、づかちゃん」
「女性に向かって言うセリフじゃないけどね」
「うん。女に向かって言っているつもりじゃないから大丈夫」
女か……。瀬野社長が私を秘書として側に置いてくれているのは女扱いされていないからって事かな。女扱いしてもらって仕事で大目に見て欲しいわけじゃない。むしろ女だからって贔屓されるのはごめんだ。ごめんだけど。
「……づかちゃん、俺が悪かったです。ごめんなさい」
「うん? 全然怒ってないよ?」
「それが本当だったらこの指、離して下サイ……」
そう言われて黒田君の方を見ると、無意識に彼の頬をつねっていた私だった。




