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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
24/57

24.失敗から得るものと失うもの

 週が明けて三日過ぎた水曜日の事。

 そろそろビザの返事が来る頃だと思ってメールを確認しようとした時、社長が丁度部屋から出て来て私に尋ねる。


「ビザの手配はどうなった?」


 社長室に呼び出さず、わざわざ出て来て確認してくるとは珍しいなと思う。余程重要なのか。


「はい、ただいま確認しようと思いまして」


 そう言ってメールを立ち上げるが、まだ来ていない。


「……どうした?」

「い、いえ。何か手違いがあったようです。確認してみます」


 まさか何か記載漏れでもあったのだろうか。それならそれで返事が来てもおかしくないのだけれど。そう思いながら確認してみると。


「そ、んなまさか。確かにきちんと申請したのにどうして……」


 送った形跡もない。い、一体どういうこと。


「木津川君」


 社長の声にはっと我に返る。今は泣き言も言い訳も言っている場合じゃない。とにかく早くビザを何とかしなければ。


「私、今から直接行って参ります! 社長、旅券と必要書類をもう一度お貸し願いますか」

「……ああ」


 カバンを引っ掴んで椅子から立ち上がると扉へと向かい、勢いよく開放した。


 秘書室から血相変えて飛び出して来た私に周りの秘書さんは驚いていたようだが、その中で菅原室長だけは冷静だったようだ。私の腕をぐっと捕まえて引き留めた。


「木津川さん、一体何事!? 落ち着きなさい! 秘書はいつ何時も冷静によ!」


 叱責されて、はっと我に返る。それを見計らったかのように、菅原室長はゆっくりと尋ねてくる。


「どうしたの。何があったの。行く前に説明して」

「それ、はっ……」


 気持ちを落ち着かせると、それでも掠れる声を振り絞って言った。


「確かにパソコンから申請したはずなのに、社長に言いつかっていたビザの申請ができていなかったんです。ですから今から直接大使館に出向いて、お願いに上が――」

「ええっ!?」


 一際大きな声が上がる。伊藤さんだ。


「木津川先輩、どうしますっ!? ビザ申請から発行まで確か最低でも四、五日はかかるはずですよ。後三日しかありませんよね!? 今からじゃ週末にとてもとても間に合いませんっ! ああ、どうしようっ」

「……っ」


 彼女の動揺した高い声で余計に心がかき乱される。しかし、菅原室長は低い声で伊藤さんを窘めた。


「あなたも少し落ち着きなさい。それで書類はきちんと揃っているの?」


 最後の言葉は私にかけられた。


「はい、それはございます。社長に改めてお借りして、先ほど確認しましたところありました。間違いありません」

「そう。動揺している中でも他の重要項目をチェックできているのなら、上出来よ」


 菅原室長はぽんと私の肩を叩く。


「問題はビザだけど、確かに正規の手続きを踏んでいたのでは今から数日はかかるわね。大使館に行って直接掛け合っても無駄足を踏むだけよ。まあ、本当は瀬野の名前を使えば事足りるんだけど、極力使うべきじゃないわね」

「……はい」


 瀬野という大財閥家の会社である以上、どこかに借りを作るのは望ましくない。


「なので宮川さんに頼みましょう」

「え?」

「どう? 知り合いいる?」


 そう言うと、菅原室長は宮川さんに視線を向けた。


「あ、はーい!」


 宮川さんは手を挙げてアピールすると既に携帯を手に取っていた。


「元彼がそこの大使館勤務だから早速電話しますね」

「今は有名なフランス料理のシェフさんとお付き合いしているんだっけ?」


 野田さんは首を傾げて尋ねる。非常事態だと思うのに、世間話をする彼女のんびりした声を聞いているとなぜか落ち着いてくる。


「ええ、そうですね。前の彼がそうでした」

「違います。前々回の彼氏さんです。前回の宮川さんの彼氏さんはイタリア不動産の御曹司です」


 澤村さんが宮川さんの間違いをぴしりと指摘した。さすが絶対記憶者。入れた情報を引き出すのも早い。


「あら、そうだったかしら。でも今でもいいお友達よ」


 恐るべきは恋人関係を解消しても良い関係を続けて、広い人脈を維持させている宮川さんだ。


「ほら、世間話はあとあと!」


 菅原さんはパンパンと手を叩いて、のんびりした流れを切って場を引き締める。


 一見、外から少し見るだけでは彼女たちの有能さが分からない。けれど彼女たちが秘書に選ばれている理由は確かにある。それぞれの長所や才能を生かして秘書としての役目を全うしていることが分かるのだ。


 それに比べて私はどうだろう……。後輩との差に焦りを感じ、心乱れて仕事を失敗するだなんて、秘書として一番大事な何かが欠けているのではないだろうか。


 今そんな事を考えている場合ではないのに、痛みを伴って思わずにはいられない。


「じゃあ、ちょっと待ってね、木津川さん」

「え、あ。は、はいっ!」


 いつの間にか俯いていた私だったが、宮川さんの声で慌てて顔を上げて返事した。彼女は携帯を操作して電話を掛けるとすぐに相手が出たようだ。彼女は軽く挨拶を交わし、何やら愛の言葉を囁いているようだ。きっと彼女なりのタイミングがあるのだろう。


 そんな彼女の様子をぎゅっと手を握りしめて立っていると、野田さんに椅子に座って待つように誘われた。


「木津川ちゃん、お菓子でも食べて待っていようよ。はい、これどうぞ」


 野田さんが一口サイズのチョコレートを渡してくれる。いつもなら喜んで頂く私だけど、さすがに今口にする事はできない。


「……ありがとう、ございます」

「こういうことは彼女に任せておけば大丈夫。心配ないわ。まずは心を落ち着かせなさい。あなた、真っ青よ。今にも倒れそうだわ。ほら口開けて」


 菅原室長は私の手の平からチョコレートを取るとフィルムをくるんと回してむき出しにして、口の中に押し込んできた。


「どう?」

「……美味しい、です」


 口溶けのいい甘いチョコレートにほっとして、緊張している自分を少しだけ解してくれる気がする。


「うん。よろしい」


 菅原室長は満足そうに笑う。


「……すみません」

「あのね、木津川さん」


 室長が腰に手を当てて、ため息を吐いた時。


「オッケーです。優先的にしてくれるそうです」


 電話が終わった宮川さんは笑顔でそう言った。


「……え。優先的って」

「間に合うって事よ、木津川さん。そうよね、宮川さん」

「はい、そうです。明後日までには発行すると約束してくれたから、もう心配しなくて大丈夫よ、木津川さん。この後、私が直に持っていくわね」

「と言うわけで。一先ず安心ね。どうよ? 持つべきものは人脈よね」


 さらに菅原室長は片目を伏せて笑ってみせる。


「菅原室長、すごいドヤ顔ですねー!」

「正確には任務遂行したのは宮川さんだけですが」

「細かいことはいーのよ、細かいことはっ!」

「そうそう。そもそも私が彼と出会ったのは、間接的に野田さんが関わっていたりするのよ。人と人との繋りというものは不思議と回り回っているのよ」


 盛り上がっている四人を私はただ茫然と側から見守ることしかできない。謝るタイミングを計っていると、ふっと会話が落ち着いた。その場を逃さず、私は深く深く頭を下げた。


「本当に申し訳ありませんでした!」


 俯いていても彼女たちの視線を感じて、身体中冷え冷えとする思いだ。どんなになじられても仕方が無い。そう思いつつも重すぎる沈黙に息が詰まりそうになった時、やがてため息が落ちてきた。


「木津川さん」


 そう声を掛けてきたのはやはり菅原室長だ。私は頭を下げたまま、はいと応える。


「顔を上げなさい」

「……っ。はい」


 恐る恐る顔を上げると、そこには怒りではなくて、呆れた表情をする室長の顔があった。

 私はどう反応すれば良いのか、戸惑っていたら、彼女は腕を伸ばして――。


「いたっ!」


 私の額に指を弾いてデコピンしてきた。地味に響いて額に手をやる。一方で状況が読めずに、ぽかんとしてしまった。


「あなたは分かっていない」

「……え」

「あなたが支社にいた頃の話は聞き及んでいるわよ」


 あの頃の事が一気に思い出されて、思わず胸元で握り拳を作る。そんな私の様子を横目で見ながら室長はため息を吐いた。


「支社にいた頃のあなた、周りに一切頼ろうとはしなかったんだって?」

「え……? それはだって……自分の責任でそうなりましたので」


 そうだ。周りに協力なんて求めるという考え自体ありえない事だった。


「あのね。会社っていうのは、チームワークの塊なわけ。一人一人の能力ももちろん大切よ。だけどね、お互い足りない部分を補助することによって、その人の良いところをもっとぐんと伸ばすことだって可能なの。お互いに良いところを引き出し、高め合うことによってさらに全体が飛躍できるのよ。チームワークの大切さは今のあなたになら分かるわよね?」

「……はい」

「それなのに、あなたはまた同じ間違いを繰り返すの?」

「っ! も、申し訳――いたっ!」


 再び室長からデコピンを受ける。痛いです、ホントに。


「そこは申し訳ありませんでしたじゃなくて、ありがとうございました、でしょう?」


 まるで子供を嗜めるように言われた。


「……うっ」

「そうそう。木津川ちゃんは社長お付きの秘書だし部屋も別室になっているから、つい別に考えちゃうんだろうけど、それでも私たちは秘書仲間なんだからさー。助け合うのが当然でしょ」

「私も求められれば、協力する事はやぶさかではございません」

「そうよ。それに木津川さんもね、色々私たちのことを手助けしてくれるじゃない。それなのに私たちが手助けするのはお断りなの?」

「そんな事っ!」


 でもきっと彼女たちにはそう思わせていたのかもしれない。新たな環境で気を張って、迷惑にならないように一生懸命頑張って背伸びして、また肩肘張って生きて来たのかも知れない。


「申し訳――っ」

「だからぁ。分かってな――」

「あ、ありがとうございましたぁっ! これからもどうぞよろしくお願い致しますっ!」


 再びぺしりと額をやられてはなるまいと思って、一歩後ろに下がると自然に大きな声になってしまったが、そのまま頭を下げた。

 一瞬の沈黙の後、部屋は笑いに包まれた。


「よしっ、それでよろしいっ!」

「あはは。だけど体育会系の元気の良さねー」

「あら、可愛いくて良いじゃない」

「木津川さんは宮川さんより一つ年上です。可愛いという言葉は相応しくないかと」

「何故よー。あなたも私に対して、可愛いものは可愛いと言っていいのよ?」

「いえ、遠慮させて頂きます」


 宮川さんと澤村さんはそう言い合っていると、菅原室長は再びパンパンと手を叩いて二人を制した。


「はいはい。そこまでね。そして木津川さん、これからもその姿勢でね」


 菅原室長はそう言うと、最後に表情を引き締めた。


「それと――」


 菅原室長はそう言いながら、今度は厳しい瞳をそのまま伊藤さんに向ける。


 そういえば、新人の伊藤さんもまた、さっきあの輪の中に入れずに静かに控えていたんだなと今更ながらに気付いた。


「伊藤さん。秘書は何が起こっても動じない心が必要よ。さっきのあなたの動揺の仕方では他の人の不安まで煽るでしょう。すぐに出来るようになれとは言わないけれど、もっと自制するよう気をつけなさい」

「はい! 申し訳ございませんでした」


 彼女はぴんと背筋を正し、深々と頭を下げる。そんな彼女に菅原室長は頷くと言った。


「それともう一つ。どんなに不可能だと思われることでも、出来ないと口にすることは駄目。自分ができる最大限の努力をしてみせるの」


 私も秘書になったばかりの時、室長に教わった心得だ。


「もちろん何でもかんでも安請け合いしなさいという意味ではないわよ。どうなるか現時点では分からないけれど、やってみるという姿を見せるの。もちろんその際は出来るとは断言せずに、どうしても無理ならお許し下さいと初めから言っておくこと。それと逐一経過を報告することね」

「はい。分かりました。ありがとうございました」


 言葉は伊藤さんに向けられているが、私にとっても勉強になる。初心を忘れない為にもメモっておこうと手帳を取り出した所で、伊藤さんはこちらに向き直った。


「木津川先輩にもご迷惑をおかけ致しました。申し訳ありませんでした」

「え、あ、ううん。私には謝らなくて大丈夫よ。私こそもっとしっかりしなきゃいけないのに、釣られて動揺してしまってごめんなさい」

「いえっ! 私が大袈裟に叫んでしまいましたから、木津川先輩を余計に動揺させてしまいましたよね。以後、気を付けます」

「こちらもね。気を付けるわ。一緒に頑張りましょう」

「はいっ!」


 そんな私たちの一連のやり取りを他の秘書さん方が静かに見守っていた。



 私は自分の秘書室に戻ると、ビザ発行依頼者の情報を宮川さんに托した。

 これでビザの問題は解決したと言っていいだろう。けれど問題はまだ残っている。そう……社長だ。


 私は重苦しい気持ちのまま、社長室をノックすると、くぐもった社長の低い了承の声が聞こえた。


「……失礼いたします」


 今日ほど重い扉はないだろう。ゆっくり開放すると足を踏み入れた。そして開けた時と同じくらいの緩やかさで扉を閉める。私はさらにゆっくりと歩み、社長のデスク前に立った。


「社長、先ほどのビザの件ですが」

「ああ」

「明後日までに発行できるとのことです。……わたくしの不手際でご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」


 私は深々と頭を下げると社長はそうかの一言だけで、それ以上何も言わない。きつく咎められるよりキツいかもしれない。だけど言葉足らずだと気付いたのだろう。社長はさらに言った。


「顔を上げてくれ」

「は、はい」

「ご苦労だった」

「っ! ……い、いえ」


 そんな事を社長に言わせるつもりで頭を下げ続けたのではなかったのに、さらに自己嫌悪してしまう。どうして頑張ろうと思った矢先にこのような事が起こってしまうのだろうか。社長はそれでもこんな私にももう一度チャンスを与えてくれるだろうか。


「報告は受けた。もう下がって良い」

「っ!」


 社長の端的な答えに私は目を伏せる。


「……はい、承知致しました」

「木津――」


 掠れながらも何とか返事した私に目を細め、社長が何か言おうとしたところで、電話のコール音が響いた。社長が私を止めようとしたようだが、一瞬早く会釈すると失礼致しますと私は社長室を後にした。


 正直電話が鳴って、ほっとした。慰めにしろ、叱責にしろ、これ以上社長から何かを言われるのはとても辛かったから。けれどそんな風に思ってしまう自分が一番嫌だった……。

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