20.土曜日の約束
「あら、木津川さん、今帰り?」
廊下で総務課の浦本さんと出会って声を掛けられた。
「あ、ええ。浦本さんは?」
「今日はまだ残業なの」
「そう。お疲れね」
「あら、木津川さんに比べたらまだまだよ。大変なんでしょう。秘書業って」
そう問われて私はただ苦笑する。浦本さんは廊下に人気が無いのを確認すると、小さな声で言った。
「あの。ごめんなさい」
「え?」
「課長にはきつく口止めしたはずなのにあの脚立の件、漏れたみたいなの。今……あなたの噂が立っているでしょう」
「……ああ。ううん。浦本さんのせいじゃないわ」
「以前の噂も聞こえてくるのだけれど……大丈夫?」
彼女は心配そうに眉をひそめた。
「大丈夫、とは言えないけどね」
「そ、そうよね。ごめんなさい。悔しくて喉まで出かかるんだけど、あなたが我慢しているのに私が勝手に動くのはと思って……」
そうね。今、躍起になって火消しに回ったら逆に、火に油を注ぐことになる気がする。
「噂の出所に心当たり、ある?」
「いいえ。ないわ」
「そう。……でも気を付けた方がいいわ。社長秘書を狙っている人とか結構いるから。今年は秘書課の希望者募集が無かったみたいだし。まして社長秘書は女性の憧れだからね。あなたに嫉妬している人はいるわ」
社長秘書を狙っている……か。かつ脚立の件を知っている人間となると必然的に絞られてしまう。
「木津川さん?」
ぼんやり考える私に心配そうに声を掛けてくれる浦本さん。
「あっ、ううん。じ、実際、社長秘書はイメージほど華やかなものではなかったりするのだけどね。休みだって少ないし。今週は久々に休みをもらえたけど」
「そうなのね。でも良かったわね。あなたも色々疲れている事でしょうし、ゆっくり休んでね」
「……ありがとう」
「ええ、じゃあ、私はこれで。……難しいとは思うけれど、あまり気落ちしないでね」
「うん。ありがとう。ではまたね」
そして私たちは別れた。
家に帰ってカバンを放り投げると、自身もベッドに身を投げ出して一息つく。
「……はぁ」
明日からの土日はぽっかり予定が空いてしまった。いきなりのお休みにただ戸惑ってしまう自分がいる。せっかく待望のお休みなのに、しかも二日の連休なのに、まったく晴れた気持ちになれない。むしろ休みをどうやって過ごせば良いのか、憂鬱な気分でいっぱいだ。
このままだとこの二日間、家にただ一人休んでいるのでは焦りだけが生まれ、月曜日からの気持ちの切り替えをうまくできないに決まっている。だからつい誰かに話だけでも聞いてもらいたいなという気持ちが芽生えてしまう。
しかし一方で、親や支社にいる幼なじみの透子には会社のことで散々心配を掛けてきたので、今回また会社での事を相談したらきっと心配するだろうと想像できるだけに、やはり電話を掛けるのをためらってしまう。
「……はぁ。どうしよ」
再びため息を吐いてベッドの上でごろりと寝返りを打ち、枕元の携帯をしばらく眺めていたが、やがて決心が付く。月曜日からまた頑張って取り戻すためには、やはり心を一度リセットしなければならない。
「よしっ」
そしてやにわに起き上がって携帯を手に取ると早紀子さんに連絡を入れた。コール音が二つ聞こえて繋がる。
気合い入れて電話したはずなのに、思わず携帯を持つ手に力が入った。
「こんばんは、晴子さん」
「こ、こんばんは、早紀子さん。あの、今、お時間、大丈夫? ……デート中とか」
まずお伺いを立ててみる。彼女はリア充ですからね。爆発物につき、取り扱いには十分注意しなければ。
「ふふ、大丈夫よ。今、家で一人だから」
「そう、良かった。あ、あのね。と、突然すぎて申し訳ないんだけど、明日の土曜日か明後日の日曜日か、空いている? ら、ランチとかお茶でも、とか……」
「日曜日はごめんなさいね、予定が入っているの」
少し嬉しそうな声だからこれは有沢先生とデートかもしれない。いいな、やっぱりリア充は声にも張りがある。
「でも明日午後からだったら空いているわ。え、何? もしかして久々に会えるの? 土日がお休みなんて珍しいわね! 雨でも降るんじゃないかしら」
何だか嬉しそうな声をしている早紀子さんに、申し訳なさが立って、しどろもどろになってしまう。こんな彼女に私の相談に付き合わせていいものだろうかとまた気になってきてしまった。
「え、あ、うん。そ、そうなんだけどね」
「なあに。らしくなく、ずいぶん歯切れが悪いわね。私と晴子さんの間でしょ、何でも言って頂戴」
「えとあの、あの、ね。そ、相談があるの。ううん、そ、その……ホント言うと」
「うんうん」
「あ、あのねっ。ぐ、愚痴なのっ!」
私は思い切って早紀子さんに言う。いざ会ってから愚痴る方が余程嫌な思いをさせてしまうだろうし。でも、呆れられたかもしれないと少し身を固くしていると、早紀子さんはなぜか弾んだ声で返してきた。
「あら本当に!? 愚痴のお相手に選んでもらえて光栄だわ!」
「え、な、何で!?」
思わず叫んでしまう。
「だ、だって愚痴だよ? 私、愚痴るんだよ? きっとぐだぐだなのよ? へろへろで管を巻くかも知れないのよ?」
「晴子さん、へろへろで管を巻くって、お昼から酒盛りでもするの? まあ、それもいいかもしれないわね」
そう笑って早紀子さんは続ける。
「構わないわよ。私は晴子さんが弱音を吐ける相手って事でしょ。とても嬉しいことだわ」
「え……」
早紀子さんの言葉に一瞬ぽかんとする。だけど、心にその言葉がじわじわと染みてくる。職業上、会社の機密情報を知る機会も多く、それを秘密裏にしなければならないため、会社では同僚や職場仲間にはいつも一つ一つの言動に気をつけている。だから秘書になってからこっち、ずっと誰かに気を許すことなどできなかった。まして、うっかり愚痴を吐き出す事なんて到底出来なかったのだ。
「晴子さん、お休みも少ないし、ストレスを解消できる機会も少ないから溜まっているんでしょ」
そうか。こんなにも胸にずんと響くのは、もしかすると毎日少しずつそういった思いが器に溜まってきて、あふれる寸前だったのかも知れない。優華さんになっていた時、ストレスでゴミ箱に叫んでいたけれど、近頃はそんな力すら湧いてこなかった。それだけ身体も疲れ切っていたのだろう。
「……うん。でも、本当にいいの?」
「あのね、晴子さん。頼られるって、嬉しいものなのよ。それに私が何か悩んでいて、晴子さんについ愚痴を吐いてしまったら迷惑なの?」
「っ! そんなことないっ!」
相手に見えるわけがないのに電話を耳に当てたまま、ぶんぶんと首を振ってしまった。
「でしょう? だから明日、楽しみにしているわ」
「……ありがとう。本当にありがとう、早紀子さん」
「とんでもないわ。明日午前中は少し仕事が入っているので、待ち合わせは二時頃でもいいかしら」
「ええ。私は大丈夫。もし長引いたり、駄目になった場合は遠慮無く言ってね」
そう言うと早紀子さんは冗談っぽく笑う。
「何が何でも終わらせるし、無理でも他の人に押しつけるから大丈夫」
「……な、何か恐いな。あ、あの、ホント無理なく。――じゃあ、いつもの所でね」
「分かったわ。じゃあ、また明日ね」
「ん。お休みなさい」
そうして電話を切った。
早紀子さんとの電話だけでも励まされた私は、さっきまでの落ち込んだ気持ちが浮上して、明日を楽しみにしつつ、美味しく食事を頂き、そして気持ちよく睡眠を取ることができた。
というわけで本日土曜日、お昼は各自取って、久々に早紀子さんと午後からカフェすることとなった。
時間通りにロングで藍色のワンピース姿で現れた早紀子さんは、今日は長いストレートの髪を編み込みで一つにまとめており、小顔がより際立っている。化粧もいつもと違うようで素材の良さが引き立ち、さらに華やかになっていて、本当に綺麗でモデルさんのようだ。
思わず自分のお洒落感のないシンプルなブラウス、パンツ姿を見下ろして、女子力が低下していることを改めて気付かされる。そう言えば最近忙しくて、社会人たる服装は心がけてはいるものの、普段はほとんどパンツスーツ姿だけにお洒落には気を遣っていないかもしれない。何だかまた一つ嘆息を漏らしてしまう。
「こんにちは、晴子さん」
明るい早紀子さんの挨拶に、はっと我に返って慌てて返事をする。
「早紀子さん、こんにちは。今日は突然ごめんなさいね」
「もうっ。だから、それはもういいんだってば」
早紀子さんは少し拗ねたような表情をすると、私の肩をそっと押した。
「それよりね、早速カフェにでも入りましょう」
「あ、ああうん。私のお気に入りの所があるの。ここからすぐの所なんだ。そこに案内するわね」
「ええ、よろしく。楽しみだわ」
「あ、ところで仕事は大丈夫だった?」
歩きながら尋ねてみる。
「ええ、全然問題ないわ。押しつけてきたから大丈夫よ!」
ぐっと親指を立てる早紀子さん。えーっと、それって大丈夫じゃない気がするんですけど?
私の苦笑いに気付いたのか、早紀子さんは肩をすくめた。
「冗談よ冗談。ちゃんと私なりの仕事をこなしてきたわ」
いつもと違って少し不快そうにため息をつく早紀子さんに首を傾げてしまう。そう言えば、仕事と言っていた割に格好が妙だよね。明らかにお出かけ用の服だ。
「仕事って? 学校での仕事ではなかったの? いつもはもう少し動きやすい格好していたよね」
「あら、ばれてしまったわね。実は午前中、お見合いだったのよ」
「ふーん、そうだったんだ……って、えぇっ!? お、お見合い!?」
軽く流れそうだった言葉の意味を反芻して驚いた。
「そう。まあ、親も向こうの方もお見合いとは言わなかったけどね。親には会わせたい人がいると言われて、一応顔合わせしただけ」
「も、もしかして分かっていて、行ったの?」
「まあね。断れないって言うから。これはきっと父親の画策ね。私が司書になると言い出した時は理解あるフリしていたのに」
悔しそうにそう言う早紀子さんにどうしても尋ねてみたくなる。
「それでどうしたの?」
「遠回しにお断りしたわ。うちの親も向こうの方もお見合いだとは一言も言わなかったんですものね。だからこちらもとぼけたフリして、これからデートなんですと嬉しそうに言ってやったわ」
「……はは、強いな早紀子さん」
「だって私には彼が……有沢先生、え、英司さんがいるんですもの」
途端に声が小さくなって顔を赤らめる早紀子さん、可愛すぎるぞ乙女か! リア充か!
心の中でツッコミながら道すがら、そんな話をしていると店に到着した。
私が今回選んだカフェは森の中のカフェがコンセプトにされており、店の周りにたくさんの木々が植えられていて、贅沢にも本当に森の中でお茶している気分になれる所である。
時間帯が上手く合ったようで、すぐに入店できるようだ。今日は天気がいいので、私たちは一番の人気席、テラス席を選んだ。冬はさすがに寒いけれど、真夏でも木陰になっているため、暑さが和らげられて過ごし易い場所だ。
「素敵な所ね」
早紀子さんは周りを見て、楽しそうに笑う。
「そうでしょう。たまたま休みの日に散策していたら見つけて、それからお気に入りになったの。心をゆっくり休めたい時に来るんだ。まあ、あまりお休みが無くて、最近は滅多には来ないんだけどね」
「……晴子さん、疲れているのね。あなたの上司さん、社長様って結構ブラック?」
何だか同情の瞳を受けているような気がして、思わず慌ててフォローに走る。
「あっ! 確かに色々社長に引っ張り回されて、今の仕事は大変ではあるんだけど、色々な世界を知る事ができて勉強になるし、充実もしているのよ!」
「あら、そうなの。なーんだっ。好きなのね?」
にこにこ楽しそうに笑う早紀子さん。
「うん、そうだね。でもそれは早紀子さんもでしょ。お互い何だかんだ言って、仕事好きだよね」
「……あー、そっち来たかぁ」
早紀子さんがなぜかがくりと肩を落としているが、店員さんがやって来る素振りを見せたので、慌ててメニュー表を広げて早紀子さんに見せる。
「ここはね、パンケーキが有名なの。それでいいかな?」
「ええ、お任せするわ」
「お茶は何にする?」
「紅茶ストレートがいいかな」
「ん、分かった。あ、すみません」
手を挙げて店員さんを呼ぶ。バイトだろうか、まだ学生らしい幼さを残した可愛い店員さんが寄ってきた。
「ご注文よろしいですか?」
「はい、おすすめパンケーキ二つと紅茶ストレート二つ、お願い致します」
メニューを指さし、さらに二本指を立てながら言った。
「はい、それではご注文を確認させて頂きます。おすすめパンケーキ二つと紅茶ストレート二つですね」
「はい」
「はい、かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
そう言うと店員さんが去って行くのを見守って、私は早紀子さんに向き直った。さて、どう話切りだそうかなと考えていると、早紀子さんはにこりと笑って先に口を開いた。
「じゃあ、それで? お話、聞きましょうか」
私は早紀子さんの気遣いに感謝しながら、これまでの顛末を、いや愚痴を吐露し始めた。




