19.日常に忍び寄る影
それから数日、何事もなく平穏な日々が過ぎていた。
「ここの所、ベルタ社の株価が上がっている」
「え?」
社長がデスクに肘を置いて手を組むとそう呟き、私は反射的にそう言った。
「ベルタ社と言うのは、うちが吸収合併を目論んでいる会社のことですよね」
その言葉に社長は少し眉を上げた。
「……言葉が悪いな。共同経営だ」
「あ、失礼致しました。でもベルタ社は確か技術力はあるのに経営の方は行き詰まっていましたよね。業績が落ちて、最近ずっと株価も落ちておりましたし」
だからうちが吸収合併……共同経営を考えているところで。
「それなのに株価が上がると言うのはどういうことでしょう」
「……おそらく」
「おそらく?」
「うちが買収に動いているという情報が流れたのだろう」
「え?」
もう買収って言っちゃったよ。……では無くて。確かに経営不振の会社がうちのような大手企業に吸収合併されれば、経営が持ち直すだろうと見込まれて株価が上がる可能性はある。
「で、ですが。そんなはずは……」
この事はまだ水面下で行われている事で、未だ公にはなっていない。だからもしそれが原因だとしたら――。
「……情報が漏洩している可能性が高いな」
「っ! ……そんな」
情報漏洩という事はすなわち社内から誰かが情報を持ち出したという事。つまりスパイがいると言う事だ。
……スパイ? うちに? 敵となる人物がいる? そう考えると胸が不安でざわめく。
「調査の必要があるな。この計画に関わっている人間は多くない。その中にいるか、あるいは」
「……あるいは?」
他に関わる人がいるのだろうか。
私は社長の答えを待つが、社長はこちらを一瞥した後、目を伏せた。
「いや。相手側が漏らした事も考えられるな」
「ベルタ社が?」
自社の株価を上げるために? でもうちに不信感を覚えられると契約がますます不利になるのではないだろうか。そこまでのリスクを冒す必要があるのか。
「……うちだけじゃないのかもしれないな」
「え?」
「買収話を持ちかけているのは」
「あ……」
わざと漏らして、うちの他にも買収話があるぞと強気の姿勢を見せているのだろうか。または他社に対して。
「とにかくこの事は内密にしておいてくれ」
「は、はい。もちろんです」
何だかきな臭い状況になってきた。こういう事はきっと今までだってあったのだろう。門内さんはこういう時、秘書としてどう対処してきたのだろうか。きっと秘書が門内さんだったなら社長は今後の対策を一緒に考えていたはずだ。でも、私はどうすればいいのか分からない。
……社長はこんな頼りない私が秘書で不安ではないだろうか。
そう考えている自分が一番不安感を抱いていたのだろう。社長はこちらを真っ直ぐに見つめてきた。心まで読まれそうなその瞳にどきりとする。門内さんに私の心の乱れは社長に響くと言われた。しっかりしなくては。
「……木津川君は」
「は、はい」
「最近、周辺に何か変わった事は?」
「え?」
周辺に? 私の周辺と言うこと?
「これまでと違った日常はあるか?」
「違った事……」
たくさんある。あるけれど……。でも職場の事は社長も当然知っているよね。つまり、プライベートでと言うことだろうか。
少し首を傾げて考えてみる。
でも特に……ないかな。そう言えば一度だけ鷹見社長と会ったけど、あれ以来は会ってない。そもそもこれまでプライベートもほとんど社長と一緒だったし。
「無いと……思います」
そう言うと社長は何か口を開きかけた。が、すぐに閉じる。
「社長?」
「いや。だったらいい」
「はい……?」
「これから何か気付いた事があったら、何でもいい、教えてほしい」
「……はい、承知致しました」
お昼になって秘書室へ行くと菅原室長に声を掛けられた。
「木津川さん、私、お昼に行って来るわね」
「あ、はい。承知致しました」
うちはブラックだ、ブラック企業だと思っていたが、お昼は交代制だが一時間もらえる。他の会社の秘書さんと会った時にお話を伺ったところ、お昼休みもデスクで昼食を取る時間くらいでほとんど席を立てないと聞くから、そういう面ではホワイトなのかもしれない。
だからこそ、先にお昼に入ってもいい時は社員食堂に久留間さんの限定スイーツを買いに走って行けたのだけれど……。
「……あなたは今日もお弁当?」
自分の過去の噂が流れているのだと知った今は、たくさんの人が集まる社員食堂に姿を見せられる程、強くは……ない。だから現在は自分のデスクでお昼を取る事にしている。
スイーツライバルである佐倉さんは私の不在をどう考えているだろうか。何も考えていないだろうか、あるいは私の噂を聞いて呆れているだろうか、それとも噂を信じて私の事を……軽蔑しているのだろうか。
「はい」
「あなた、忙しいのに毎朝作るの、大変そうね」
「いえ、夜の残り物を詰めているだけですから」
私は苦笑いした。
「そう。……あのね」
室長ももう聞いているのだろう。そもそも私がここに入る前から聞いていたのだとは思う。彼女は難しい顔をした。
「人の噂を気にしちゃだめよ……なんて言っても気になってしまうものだとは思うけれど。でもね、毅然としておきなさい。堂々として恥じることのないあなた自身を見せつけてやりなさい。そうすれば人はあなたを認めざるを得なくなる。あなたが努力して作ってきたものはあなたを裏切らないわ。――負けては駄目よ」
そう言う室長の言葉は誰かを彷彿とさせる。そうだ……門内さんだ。彼もまたそんな事を言ってくれたっけ。
支社にいた頃はずっと針のむしろで誰もこんな言葉を掛けてくれる人はいなかった。今、私はとても恵まれた環境にいるのだと思う。だから辛くても頑張ろうって思える。
「……はい。ありがとうございます」
私は感謝の意味を込めて深々と頭を下げた。
本日は金曜日だ。明日、明後日に仕事がなければ今週はとりあえず今日が仕事終わりとなりそうだ。まあ、休みなんてあり得ないでしょうが。
ただ、土日は役所や一般企業はお休みの所が多いから、その休み前に何かトラブルが起こらなければいいのだけれど。
「木津川君、この国へのビザを申請しておいてくれないか」
だから社長室に呼ばれ、社長から旅券や必要書類を渡されてそう言われた時、思わず目を見張ってしまった。
「え!? しゃ、社長、か、海外に出張されるの……で、でしたか?」
何も聞いていなかったけど、いつ!? まさかまた私が聞き漏らしていたの!? そんな重要な事を!?
その焦りが顔に出たのか、社長はすぐに否定した。
「いや、俺ではない」
そう言って黙ったまま視線をそらすので、仕方なく申請する名前に目を落とす。すると瀬野貴弘と書かれていた。社長の弟君だ。優華さんの婚約披露パーティーでは少しお会いしたけれど、社長や優華さんのクール系の顔立ちとは違って、人好きしそうな柔らかなタイプの顔立ちだった。きっと彼はお父上に似たのだろう。そして古代ロマンを求めて世界を飛び回っていると言う放浪癖のある人物でもある。しかして実態は海外での取引のパイプ役となっている。……ようだ。
社長はそれに関して何も言わないけれど、これだけ弟君が遊びで立ち寄るという外国でプロジェクトが立ち上がれば言われなくても気付くだろう。ただし、海外で遊び回っている事も本当のようで、行く先々の国で不定期に働きつつ過ごすこともあるらしいので、今回これがプロジェクト立ち上げの為か、本当の旅行か、現時点では定める事は難しい。
しかし瀬野家として、次男坊が定職に就かずこれだけ自由奔放というのは体面的にどうなのだろうと思う。もしかして世間的にはそう見せておいて、実は瀬野財閥の秘蔵っ子だったりするのだろうか。彼の仕事ぶりを見ているとあまりそうとも思えないのだけれど……。
まあそれはいいとして、今は日本に戻って来ていたのか。だったらなぜ自分で行かぬ。日本では仕事をしていないのだろうから暇でしょうに。
書類に目を落としたまま考え込んでいる私に社長は一つ咳払いして、私ははっとして顔を上げた。
「では頼む。航空券はビザが発行されてからでいい。ビザ発行に問題はないと思うが、出発は来週末辺りを予定している」
ん? 元々ビザは希望日までの発行が保証されている訳ではないから、通常ビザが取れてから航空券を購入するものだよね。それをわざわざ言うとは、むしろ何かスムーズに取れない可能性の理由でもあるのだろうか。
しかしそれを社長の顔から読み取ることは極めて難しい。
「はい、かしこまりました。では午後から大使館に参ります。……が、委任状が見当たらないのですが」
預かったパスポートやら必要書類を一通り確認してみたところ、委任状が見当たらない。
「大使館に赴く必要は無い」
「え?」
「インターネット申請の取り扱いがある国だ。そこから申請すれば良い」
「……え」
だったらこれだけの必要書類を揃えて、なぜ本人が申請しないのだ。外出せずともパソコン一つでできる事でしょうに。ますます解せぬ。プータローにも程があるよ? 弟君はパソコンを使えない人なのだろうか? そう考えるも――。
「では頼んだ」
社長の一言によって考えが遮断された。
「は、はい。承知致しました」
社長室を出て、私はビザ申請をしようとパソコン操作する。今は便利な時代になったものだと思う。この職についてからは休みをまともに取れないので、通販サイトで物を購入する機会が増えた。これから個人情報の必要書類の取り寄せなどもネットで簡単に行える時代が来るのだろうか。情報漏洩の話を聞いてから、少し不安な面もあるけれど。便利とリスクは常にワンセットのようだ。
「よし、出来た」
念の為、必要事項と写真ファイルを保存しておき、預かった旅券を返しに社長室へと戻った。
「申請を完了致しました。数日で手配できるものと思われます」
今日は金曜日だから遅くても水曜日までには手配できるだろうか。水曜日にちゃんと確認しておかなければ。
「……感謝する」
「いえ。それでは失礼致します」
「木津川君」
退室しようとした時、社長に声を掛けられる。
「はい」
「……悪い」
「え?」
「君に辛い仕事を頼んで」
「……え?」
どういう意味だろう。今でも休みないし、残業あるし、結構大変な仕事ですけど。
一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「では、特別手当を頂きますよ?」
「……そうだな。前向きに検討する」
社長の声が表情と同じく感情を隠すようにあまりにも平坦で、一瞬不安が過ぎる。しかし社長はすぐに話を切り替えた。
「ところで木津川君、明日、明後日の予定だが」
ああ、そう言えば。いつも直前になって言われるけど、今回はまだ予定を聞いていなかったな。
「特に何も無いから休んでくれ」
「え? 何ですか?」
何だか空耳のようなものが聞こえたような。……疲れているのかしら。
「だから休みだと」
「え? やすみ? ……やすみって何ですか?」
何の行事?
こちらは真剣に聞いているのに、社長はなぜか呆れた様な表情を浮かべている。
「仕事が休みだ」
「……それってもしや、人偏に木の休みの事ですか?」
「そうだ……」
「と言うことは、休んでいいと言う事ですか?」
私、今、ちょっと錯乱しています。
「そうだと言っている」
「休みって、あの休みですか? 家でごろごろしたり、外に買い物に出かけたりとかできたり、友人とお茶したりとかの、自分で自由にできる時間の事ですか?」
「…………」
社長はさすがにため息を一つ吐いた。
「そんなに仕事がしたいのならば、入れてもいいが」
「い、いえ、休みが休みなら休みます!」
何だかゲシュタルト崩壊しそうだ。頭痛くなってきた。
「あ、あの……ですが」
「何だ? まだ何かあるのか?」
「え、いえ。その、社長は土日どうなさるのかと……」
社長は意外そうに眉を上げた。
「それを聞いてどうする?」
どうする? そう言えば、聞いてどうするのだろう、私は。
「わ、私は聞いて一体どうするのでしょうか……」
おろおろとしながらそう言うと社長はふっと笑った。
「それを聞いているのは俺だが」
「……で、ですね。あ、あの」
これ以上、何を聞こうと言うのか。それでも口は止まらない。
「俺は人と会う予定がある」
「ひ、人と会う予定……。じゃ、じゃあ、私は。私は何をすれば、いいの、でしょう」
何だか酷く裏切られた気分になるのはなぜだろう。それに急に休みだよって言われても何をしていいのか分からない。休みをもらって喜ぶべきなのに、イライラするのはなぜなのか。
その表情が顔に出ているのか、社長は苦笑した。
「いつも君の休日を奪っているようなものだからな。たまにはゆっくり休め」
「ゆ、ゆっくり……」
「そうだ」
「ゆっくり……ですか」
「ああ。大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です。い、いえ、しょ、承知、致しました」
「……本当に大丈夫か」
混乱を極めた私に社長は眉をひそめたのだった。




