18.過去の悪夢
門内さんと直接会って少し気持ちを取り戻し、また変わり映えしない、けれど穏やかな日常生活に戻るのかと思われた頃だった。
書類を抱えて廊下を歩いていると、女性社員さんたちの声が聞こえてくる。そう言えば前に勤めていた支社ではよくあんな風に同僚と話しながら歩いていたなと思う。まずは天気の話から始め、そして最近のニュースや会社の愚痴、そして話題の人や噂話などを。
「今日のお昼何にしようかな」
「私はもう胸が一杯よ。今日は瀬野社長のお姿を拝めたから。凛々しいよねぇ。クールビューティーって感じ」
「男性でもクールビューティーって使うの? 美形には違いないけど」
ああ、社長はやはり女性社員に注目されているのか。秘書の目から見ても格好いいもんね。……秘書の目から見ての意味が自分で言っていてよく分からないけど、仕事ぶりを間近で見ていてもって事だろう、きっと。
「あの冷たそうな瞳に見つめられたい」
直視されたら本気で凍結しちゃいますけど、それは覚悟の上ですか。
「まあ、確かにいいよねー。私もあんな上司の下で働くなら、身を粉にして尽くすわ」
おそらくブラックの上を行くブラックだけど、それは覚悟の上ですか。
余裕の気持ちで聞けたのはそこまでだった。次の言葉にぎくりと身体が強ばる。
「ああ、そう言えば、社長秘書をしている人って知っている?」
そうか、あれだけ注目を浴びる瀬野社長の秘書となると、一緒に話題に上っても仕方がないのかもしれない。だけど話題に上る事は必ずしも良いことばかりでは無くて。
「うん。社長と一緒の所を見たことがあるわ。あの人って、秘書のイメージの美人で頭脳明晰って感じはしないよね。何かきりっとしている感じで確かに秘書の風格はしていると思うんだけど、他の一般秘書さんと比べてみたら地味って言うか。まあ、自分が知らないだけで優秀な人なのかもしれないけど」
ええ、そうですよねー。現実は痛い……。
「あの人、以前支社勤務だったらしいのよ」
「ああ、そっか。その前、門内さんだったわよねー。イケメンの社長秘書さんで良かったんだけどねー。二人が並ぶとそりゃもう、女性に注目の的でさ」
冷然としたイメージの社長と物腰柔らかな門内さん。まるで正反対の二人だけれど、きっとお互いそれでバランスが取れていた事だろう。
「そう言えば、何で代わったんだろうね。ご尊顔を拝めなくなったのは残念よね。森中さんはどっち派? 私はやっぱり瀬野社――」
「それがさ。あんまりいい噂を聞かないのよ」
噂と言う言葉にどきりとする。一体……どういう。
「え? 瀬野社長が?」
「そうじゃなくて今の社長秘書の女性がよ」
「へえ……?」
「何でもね、今の社長秘書、以前の支社では男関係が激しかったらしいのよね」
途端にどくどくと心臓の鼓動が高鳴り、嫌な汗が流れ出す。まさか……。
「うそっ! あの人が? 別に派手そうな人じゃなかったよ?」
「そうだけど、最近あの人の評判悪いらしいのよね」
「評判って?」
「何でも社長秘書権限で好き放題にしているって話」
……違う。そんな事はしていない。
「え? 本当に?」
「ホントホント。最近、色んな所でそう噂されているんだから」
なぜあなたが本当だと……そう決めるの。本人が否定しているのに。
「へぇ……。人は見かけによらないものなのねーっ」
なぜあなたはそれを真実だと……そう決めるの。何一つ知らないのに。
彼女たちにそう言いたいのに喉の奥が詰まって言葉にできない。
「ほら、以前、会社がシステムトラブルで大変な事があったじゃない」
「あ、あった、あった」
「あれもね、詳しくは知らないけど彼女のせいだったらしいのよ」
「えーっ!? そうだったの?」
「そう。色々問題ある人みたい。だからね、今回もそんな関係で社長秘書に就いたんじゃないかって専らの噂よ。だって急に変わるの、おかしいじゃない?」
「うん、確かにそうだよね」
不確かな噂は確かな事実によって、より真実味を帯びていくのは何と皮肉な事だろうか。なぜ事実はいつも噂の味方なのだろうか。
「それって。……つまりそれってね、女の武器を使ったという事?」
「そうそう。あの人」
いや……やめて、あの言葉を出さないで。
「噂では、会社の上層部の――」
や、めてっ。
逃げ出したいのに身体が震えて動けない。
「男と寝――」
違う違う違うーっ!
彼女が発する言葉が聞きたくなくて必死で耳を塞いだ瞬間、必然的に抱えていたファイルや書類が音を立てて散った。いや……その落ちる音すら聞こえなかった。頭の中にガンガンと鈍い音だけが響く。
けれど彼女らは私が立てた音に気付いたようで、それと同時に私の姿に気付いて慌てて身を翻すと逃げ出すように去って行った。
どうして? どこから? 誰がそんな話を? いつから? いつからそんな噂が再燃していたの? どこまで? 誰にまでこの噂が回っているの?
本社へと移ることになった時、過去の事は振り返らず、全てを捨ててきたつもりだった。新しい地でゼロからスタートしようと、そう思って……。それなのに、なぜ今になって。
身体中の力が抜けて、崩れそうになる身体を壁に手をやって支える。
支社にいた頃、会社内で流れる噂のほとんどは話半分で聞き流していた。そして時には先ほどの彼女のように軽く受け答えしていた気もする。けれど、実際は私たちの会話の外で、自分自身が受けたように傷ついている人もいたのかもしれない。自分の知らない所で歪められた噂に傷ついて泣いていたのかもしれない。そして、もしかしたら誰かにとって私も加害者の一人だったのかもしれないと今になって思う。
だから? だから私は今、その報いを受けているのだろうか。
……落ち着け、落ち着くんだ。私は鏡に映る自分の姿に恥じない生き方をしてきたのだから、何も恐れる事はない。そう、人の噂なんて私には関係が無い。――そう言い切れたらどんなにいいだろう。
一方で、自分のどこか冷静な部分が目の前の重要な書類を広げている現状を認識する。
「拾わ……なくちゃ……」
ぽつりと言葉が出た。
ああ、そうだ。拾わなくちゃ。例え私にどんな噂がされていようとも私は今、社長秘書なのだ。それを全うしなければ。
ようやくぼんやりしていた自分から戻ると、深呼吸する。
「しっかりしろ、木津川晴子」
そう小さく呟くと、床に広がった書類を拾おうとしゃがみ込んで膝をつく。しかし決意したのに思いの外、震えている指先を左手で一度ぎゅっと握りしめると書類を集め始めた。さらに少し離れた所に広がった書類に腕を伸ばして取ろうとしたその時、踏みしめる足音がしたかと思うと一瞬早く誰かの手によってふわりと持ち上がった。
はっと顔を上げるとそこにいたのは、腰を屈めてこちらを見下ろす黒田君だった。
「大丈夫?」
「……あ、ありがとう、黒田君。大丈夫」
もしかして彼に聞かれただろうか。強ばってしまった笑みに黒田君は前髪をかき上げて面倒そうな表情を浮かべたかと思うと、私の横にしゃがみ込んで言った。
「だから俺は人間との付き合いってやつは面倒で嫌いなんだよね。知らない相手に対して勝手にイメージを作り上げてさ、それでいて自分の想像と違ったからと言って勝手に失望されたり、落胆されたり、果てにはそういう噂を立てられたそっちが悪いとか責められたりさ。――うんざりだ」
そうか、やっぱり彼に見られていたのね。人嫌いだと言われる彼もきっと過去にそういう事があったのだろう。そしてこれは彼なりの慰めだろうか。
「そうね……」
書類を胸元にぎゅっと抱きかかえた。
「人付き合いは本当に大変よ。でも……。それでも助けてくれるのもまた人なのよね」
「え?」
私は黒田君に笑みを浮かべた。
「あなたみたいにね」
そう言うと黒田君は少し困ったような表情を浮かべた。
「やっかいだね」
「……やっかいね」
黒田君はふっと笑うと肩をすくめた。
「だいたいさ。ぱっと見ただけでも、づかちゃんを見ていたら分かるよな? 男に対して色仕掛けとかありえないだろ。色気皆無どころか女子力ゼロ以下なのに。マイナスだよマイナス。噂をするならもう少し真実味のある噂にしろって話だよな?」
「ちょっと酷いわね。皆無って何よ皆無って! おまけにマイナスとか! 言い過ぎでしょ」
「本当の事じゃん。何? それとも色香があるつもりなの?」
「い、いや、あるとは言わないけども」
「だろ。――さてと。ほら、全部ちゃんとあるか確認して」
黒田君は書類を私に押しつける。私は書類の落とし忘れがないかチェックする。大丈夫だ。
「全部あった?」
「ん。ありがとう。これで紛失までしたら社長の信頼を本当に失ってしまうものね」
「…………」
黒田君は一瞬苦い表情をする。
「黒田君?」
「づかちゃんも苦労していたんだな」
「え?」
「いや、づかちゃんは苦労知らずで、脳天気なだけかと思っていた」
「……脳天気って何よ、失礼ね。結構これでも色々あって――」
「うん、普通にごめん。他人の為に怒れる人間だもんな。それって、人の気持ちが痛いほど分かるからって事なんだよな」
そう素直に謝られるとどう反応すれば良いのか分からない。
少し戸惑っていると黒田君は立ち上がって、手をこちらへと差し伸べた。私は彼を見上げる。
「さあ、いつまでここに座ってんの。立ちなよ、木津川晴子」
「……っ、ありがとう」
私は差し出された彼の手を取ると、立ち上がった。
社長室に入り、まずは社長に挨拶する。
「ただいま戻りました」
「……ご苦労」
「資料をご用意します」
「頼む」
私はデスクを回って社長の側に立つと書類を分類して、説明しながら積み上げる。その様子を無言で見守っている社長。何だかこちらの様子を覗っているような気分になって落ち着かない。
社長の前では自然にしなくちゃ。自然に。でも社長ももしかしたらもう耳に入ってきていたりするのだろうか。どうぞ聞いていませんように。社長には知られたくない……。
心の中で祈りながら、ようやく書類を分類し終わった。ほっとして社長の元から離れようとしたその時。
「冷房が」
それまで沈黙でいたのに突然話し始めた社長に思わずびくりと肩が跳ねた。反応しすぎだ。落ち着け、私。
「は、はい?」
「冷房が利きすぎのようだ」
「あ……。は、はいっ!」
私は慌ててデスクにあったエアコンのリモコンを取ろうと手を伸ばしたが、社長は一瞬早く私の手を取った。
「……えっ!?」
「手の血色が悪い」
社長はそう言って、わずかに震えて冷え切っていた私の指をまるで確かめるように大きな手の平で包み込んでくれる。
ああ、そうかと思った。きっと私よりもずっと前に社長の耳にも入っていたのだろう。そして私が動揺しているんじゃないかと心配してくれていたに違いない。不器用な気遣いが何とも胸に来る。
一方で、社長にまで気を遣わせるだなんて、我ながら未熟で出来の悪い部下だと思う。それでもこの温かさから手が離れようとはしない。――離したくなくて動かすことができない。
「……すみません」
手が温かい人は心が冷たいだなんて嘘だ。言葉はなくても、こんなにも私の心を温かくしてくれるのだから。社長の温かさで強ばっていた表情も震えていた指からも力が抜け、私を落ち着かせてくれる。
やがて、いつもより少しだけ速い心臓の音もいつの間にか正常に戻って来た。社長にただこうやって手を握られるだけで落ち着くとは、私って現き……んっ!?
しゃ、社長に、て、手を握られているっ!?
「うひゃああぁっ!」
漸く現状に気付いて私は慌てて手を振り上げた。社長に一体何をしてもらっているのだ、私!
頬が上気する。そしてさっきせっかく落ち着いた鼓動がまた速く打ち出した。
「し、失礼致しましたっ!」
私は大慌てで両手を背中に隠すと、社長は少し眉をひそめたように見えた。ほとんど表情が変わらないが、いつもより何となく不機嫌そうに思うのは、き、気のせいでしょうか。
勢いよく振り上げすぎた? け、決して、い、嫌だったからではございませんよっ!? 単に恥ずかしかっただけで。し、しかし、ここはひとまずフォローしておかねば。
「あ、あのっ」
えっと。と、とりあえずここはお礼だよね。そ、それから。
「あ、ありがとう、ございました。お、落ち着き、……い、いや、今、落ち着いてない、あ、違う。そうじゃなくて」
言葉が上手くまとまらない。そして律儀に無言のまま待つ社長に余計動揺してしまう。つまり身体の緊張が解けて、張り詰めていた気持ちが緩んで、そして心が。
「あ、えと、つまりっ。そう! こ、心が温かくなりました! …………って、はっ!?」
ふと自分が口に出した言葉の意味に気付いて我に返る。
うわぁぁぁっ、何、社長相手に恥ずかしい事、言っているのー、私ーっ!
もはやパニックになって思わず頭を抱えた。
「……そうか」
「へっ」
頭に手をやりながら、恥ずかしさのあまり若干涙目で覗き見すると。
「だったらいい」
そう言って社長はふっと笑った。
どくんっ!
身が凍りつきそうだった先ほどとは違う、熱を伴って大きく心臓が跳ねた気がした。




