17.休みを明けて
次の日。
いつものように社長室に呼ばれて入室する。
「おはようございます」
「……ああ、おはよう。これを頼む」
「はい。承知致しました」
あれから社長と伊藤さんはどうしたのだろうか。多分、デートとやらをしたわけではなさそうだけれど。聞いても良い……わけはないが、とりあえずお休みを頂いた事のお礼ぐらいは言っていいかなと思って口にする。
「昨日は――」
「昨日――」
なぜか社長とハモッてしまった。
「し、失礼致しました。何でしょうか」
「……いや、いい。先に言え」
社長より先に発言してもいいものか少し考えていると、顎で促された。
「え、えと。そうですか。それでは。昨日は、日曜日はお休みを頂いてありがとうございました」
当然の権利にお礼を言うなんて社畜の極みですよ!
もう一人の私が叫んでいるのはこの際無視しておこう。
「いや。他には」
「……い、以上でございます」
「そうか」
何だろうか、この空気感。非常に重い……。
「そ、それで社長のお話は何でございましょうか」
「昨日、あれから……門内とどうした」
「え? お茶をごちそうになりましたけど」
「それで彼は何と?」
何と? 一言で言うのは難しいんですけど。
「私の代理で会合に出席して頂いたという事をお聞き――あっ」
し、しまった。昨日は気持ちが一杯一杯で、それに関してお礼も謝罪もしていなかった。
「何だ?」
「え、あ、いえ。失礼致しました」
「……だから何だと聞いている」
え? 大した事ないんだけど。でも変な反応してしまったし、社長も聞かないと気持ち悪いかな。
「お礼と謝罪をお伝えするのを忘れました」
「そうか。それで?」
え? それで? 愚痴を聞いてもらったとか、励ましてもらったとか。……別に言わなくていいよね。
「いえ、以上です」
「……君たちはひたすら沈黙で茶を飲んできたとでも言うのか?」
「は?」
仕事がオフの時のプライベートな話の内容まで逐一報告しなきゃいけない義務でもあると言うの。そんな気持ちが含まれた口調が棘となって現れてしまう。社長はそれに反応して、目を細めて眉を上げる。
べ、別に、こ、恐くなんかないやいっ! 言いたいことを言ってやる。
「しゃ、社長だって、あれからプライベートの時間だった、訳ですよね。わ、私は社長のプライベートに干渉しましたか?」
「つまり、だから俺も口出しするなと?」
分かっているじゃないですか。そうです、その通りですよ!
そう答えようとして、社長の依然とした鋭い瞳にこくんと喉の奥で鳴った。
「そっ……そ、そこまでは言って、な、なかったり、そうじゃなかったり、で、ですかね……ハイ」
狼狽えながら視線をそらす私に社長はふっとため息を吐いた。
「そうだな。悪かった」
うっ……。そう素直に謝られると、ケンカ腰になってしまったこちらも何だかきまりが悪くなるではないか。
「え、えーっと。こちらもあの……申し訳ありませんでした。た、大した話ではなかったので。わ、私の仕事の近況を聞いて頂いて、助言を頂いておりました」
「……そうか」
この場の空気が少し和んだところで私も尋ねてみる。
「しゃ、社長は、昨日あの後はどうされた、んでしょうか」
「会社に戻って仕事だ」
「え?」
確かに休みの日も会社で仕事をする事があるが、昨日もそうだったのか。じゃあ……伊藤さんは?
「伊藤君?」
うぉぉぉっ! また考えを口に出していたよ。
普段、仕事内容を秘密厳守で生活している分、私的な感情でぽろぽろ言葉が零れてしまっているようだ。この場で頭を抱えてしゃがみ込みんでしまいたい。
「伊藤君とはあの場で別れたが」
「そ、そうですか」
あっさりとそう言い切る社長に余計気恥ずかしさを感じてしまう。これじゃあまるで、母親が他人の子供を褒めて拗ねている子供みたいじゃないかぁぁ。……しかし、あれ。待ってよ。では、社長の付き添いで会合に行ったわけではないのに、伊藤さんはなぜあの場にいたの? ……偶然? たまたま? 社長の会合が終わるあの時間帯にタイミング良く通りかかった?
そんなはずはないだろうと思う。何せ優華さんの時の事があるので私にとっては、この偶然という言葉への信頼はすっかり地に落ちている。
一方、社長は考え込んでいた私に、ところでと話を切り出した。
「は、はい」
社長の前でぼーっと考え事をしてしまったと反省していたら、社長はメモ紙に何やら走り書きをすると、こちらに寄越した。
「誰かこれの処理は終わっている者はいるか?」
私はそのメモを確認して思わず目を見張り、視線だけ社長にやった。
「……いいえ。誰も」
どういう意図があるのだろう。困惑する私の表情を読み取ったようで、社長はいやと小さく首を振った。そして書いたメモをシュレッダーにかけた。
「心当たりがなければいい」
「はい、ですが……」
「いや、いい。分かった。今の事は忘れてもらって良い。君はいつもの業務に戻ってくれ」
社長がそういう以上、詰め寄って手を煩わせる事をすべきではないのだろう。私は頷いた。
「……はい。それでは社長の本日のスケジュールですが」
私が社長の顔色を窺いながら予定を読み上げようとすると、社長は手で止めた。
「いや、大丈夫だ。それより少しパソコンの調子が悪いようだ。この後、黒田君を呼んでくれるか」
「はい、承知致しました。それでは一度失礼致します」
「ああ」
私は会釈し、社長室を退室する。
とりあえず、まず黒田さんを呼びに行かないとね。自分のデスクを手早く整理して部屋を出る。そして秘書室に入ると、伊藤さんが明るい表情で駆け寄って来た。
「おはようございます! 木津川先輩」
「あ、ああ、お、おはよう、伊藤さん。昨日はごめんね、挨拶無しに別れて」
「いえ、そんな。別に全然気にしていませんよー。それよりですねっ! 昨日のイケメンさん、誰ですかーっ! あれからどうなさいましたーっ!?」
何だろう。キャラ、変わってない? 最初はもっと環境に不慣れな初々しさがあった気がするけれど。門内さんのお言葉で何となく警戒心を抱いている自分が色眼鏡を掛けてしまっているからだろうか。
彼女の声で、他の秘書さん方が寄って来る。
「なになに、何の話?」
「何と木津川先輩、昨日、すごく格好いい男性とデートだったんですよー!」
何言っているの、この子は。勝手に脚色しないで下さいよね。
私はすぐさま否定した。
「違いますよ、門内さんです」
「ああ! 何だー、門内さんか」
「あら、門内さん、お元気だった?」
私より前の社長秘書だったから、当然ここの秘書さん方は知っている。野田さんと宮川さんはそんな落ち着いた反応を見せた。
「皆さん、ご存知なんですか?」
「そうか、あなたは知らなかったわね。彼は木津川さんより一つ前の社長秘書だったのよ」
「そうなんですか」
そして彼女たちはあっさりと興味を失ったのを見て、伊藤さんはさらに続けた。
「えー、でも。すごく親しそうでしたよー。肩とか抱いちゃって」
うん、こうなると不思議だな。何となくイラっと来ますね。明らかにエスコートの手だろという話で。
「行きましょうと促されただけよ。それに門内さんはどなたにもとても優しくて親切なの」
昨日思い知ったよ。天然の女たらしめーっ。
秘書さん方は、まあ優しいと言えば優しいかと苦笑していらっしゃるので、門内さんの女たらし感に被害を受けたのだろうか。
「でも」
でもじゃないのよ。門内さんとの関係はそれ以上でもそれ以下でもないのだから。もうこの話はいいでしょう。それに私は急いでいるのだ。社長のパソコンが不具合だと、仕事も順調に進まないだろう。黒田君に早く見てもらわなければ。
「ごめんなさい。もう行くわね」
「どこかに行くの?」
菅原室長がそう尋ねて来た。
「はい。社長のパソコンが不調みたいですので、黒田さんを呼びに行って参ります」
「……黒田さんね。そう、分かったわ。行ってらっしゃい」
「はい」
まだ何か言いたそうな伊藤さんを残して、私は彼の元へと向かった。
情報セキュリティ室の前に立つと呼び出しボタンを押す。
「秘書課の木津川です」
「うーすっ」
呼び出し口から短い声が漏れて、扉の鍵が開けられる音が聞こえた。私は扉を開けると、黒田君は回転チェアをくるりと回してこちらを振り返った。私は彼の側まで近寄っていく。
「おはようございます、黒田君」
「よお、きっずー」
私は軽口を叩く彼にため息を吐いた。
「誰がきっずーよ、誰が。それに『ず』じゃなくて『づ』だからね」
「何で音しか聞いてないのに、分かるんだよ」
そう言って彼は嫌そうな顔をする。図星かっ!
「感覚よ感覚。それより、きっずーは止めてよね」
「だって木津川さんじゃ、よそよそしいよ」
「でも何だか傷物みたいじゃない」
「じゃあ、づかちゃん」
「まあいいけど、普通に木津川じゃ、だめなわけ?」
「長い」
「はいはい。分かったわよもう」
諦めて再びため息を吐く私を見て、黒田君はにっと笑った。
「元気そうじゃん」
「っ! おかげさまでね。……ありがとう」
彼なりに場を明るくしようとしてくれていたのかも知れない。
「ところで何の用? また何かエラーが起こった?」
「あ、いえ。私じゃなくて、社長のパソコンが調子悪いみたいで見て欲しいそうなの」
「……ふーん」
黒田君はそう言うと椅子を再び回してパソコンに向かう。目の前には相変わらずいろんな種類のモニターで一杯だ。
「えーっと、社長室に来て欲しいんだけど?」
「ここからでも遠隔操作はできるから」
「あら、そうなんだ。それは失礼致しました」
「ちょっと椅子に座って待っていて」
それだけ言うと黒田君はとんでもなく早い指使いで、正確無比にキーボードを叩く。もはやどこをどう打っているのかさえ分からない。さらにモニターを見てもさっぱり分からない英数字がすごいスピードで羅列されていく。
一体彼の頭の中でこれらがどう処理されているんだろうか。私は見ているだけでめまいを起こしそうだ。
そしてやがて彼はふと手を止めると椅子に背を任せた。ぎしりと椅子が鳴る。
「ふーん。やっぱりそっちか」
「何か分かったの?」
「分かったというか、分からなかったと言うべきか」
何ですか、その哲学的な答えは。まあ、哲学の何たるかは分かっていないけど。
「でもそっちは俺の本職じゃないんだよなぁ」
彼は何だかぼやいているが、何を言っているのかさっぱりだ。埒が明かないので尋ねてみる。
「どういう意味?」
横から黒田君の顔を覗きこむと、横目でこちらを見てくる。
ちなみに彼は綺麗な顔立ちをしているのに、人嫌いで女はもっと嫌いだそうだ。それを聞いた時、女で悪かったわねと言ったらあんたは女じゃないからまあ許すよと答えたので普通にこめかみローリングの刑を一発お見舞いしておいた。
「だから俺が頭脳のインドア派なら、そっちのセキュリティ部門は体力のアウトドア派みたいな? まあ、俺にかかれば、もちろん担当できなくはないけど」
「もういい加減、分からない例え話と自慢話をしないで、どが付く素人にも分かるように要点を言いなさいな」
「ま、いいから行くよ、づかちゃん」
そう言うと彼は椅子から立ち上がり、部屋の棚から何やら大きな荷物を取り出して肩に掛けた。おそらく修理の機材が入っているのだろう。
「わあ、大仰ね。パソコンの修理ってウイルスが侵入したとかじゃなくて、物理的なわけ?」
「……まあ、物理的に侵入しているとお考えのようだから」
「え?」
「いいから行こう」
彼に促されて私たちは部屋を後にする。そして秘書室でひと挨拶してから社長室へと向かった。私がノックするとすぐに返事があり、私は扉を開ける。
「失礼致します。黒田さんをお連れ致しました」
「入ってくれ」
「はい、では失礼致します」
私が先導して、彼を社長室へと招き入れた。
「失礼致します」
「出向いてもらって悪かったな」
「いえ。先に調べさせて頂きましたが、パソコン内部は問題なさそうですね」
「そうか」
「はい。では、早速始めさせて頂きますが、よろしいでしょうか」
黒田君が何か失礼な事を言わないかと心配していたけれど、きちんと対応していて良かった。そう言えばさっき秘書室を通った時も、口数は少なかったけれど普通に敬語を使っていたな。ってことは何ですか? ため口は私に対してだけですか? 一応、私、彼より年上ですよね? おまけに『づかちゃん』ですからね。……まーいいけど。
黙って控えていた私が目に入ったのか、彼は手を挙げるとひらひらと振った。
「あ、案内どうもありがとう、づかちゃん」
「づかちゃん?」
社長の眉がぴくりと上がった。ええ、私の事らしいですよー、ははは。
さてと。ここで見守っていても仕方が無いので、私は仕事に戻りますか。
「では社長、失礼させて頂きます」
「ああ、分かった」
「黒田さん、後はどうぞよろしく。……くれぐれもどうぞよろしくお願い致します」
社長様に失礼な事を言うんじゃないよという思いを込めて念波を飛ばすと、彼は頷いた。
「分かってる、分かってる。心配すんなって。じゃあね、づかちゃん」
うん。君のおかげですっごい心配になりましたよー。
黒田君の軽い態度に一抹の不安を残しつつも、私は職務に戻るため退室した。




