16.前社長秘書、門内豊の助言
そんな訳で私たちは現在カフェに向き合わせで座っている。と言っても、私が普段入るようなカフェではなく、品格漂う一流ホテルのラウンジだ。注文を取りに来る店員さんもどこか気品がある。教育が行き届いているのか、高級ホテルという後光効果のためなのか。何にせよ、彼らの仕事ぶりにこちらも自然と姿勢が正しくなるし、一流のサービスは学ぶ所が多い。
そう思って彼らを観察していると、門内さんは少し笑って話を切り出した。
「木津川さんはいつも何事に対しても一生懸命ですね」
はっ。何だか気持ちが仕事モードになっていた。慌てて門内さんに向き直る。
「す、すみません」
「いいえ。こちらこそ先ほどはいきなりお誘いして申し訳ありませんでした」
「え、い、いえ! むしろ誘って頂いて……あの場から連れ出して頂いて、ありがとうございました」
頭を下げると、門内さんはいいえと小さく首を振った。
「っ、情けないです。門内さんのように優秀な秘書になりたいと思うのに、動揺してしまって。……私には門内さんにはなれない。――って、え? なぜ笑っているんですか?」
嘲笑とか冷笑ではなく、温かい笑みだが確かに笑っている。
「ああ、失礼致しました。嬉しいなと思いまして」
「え?」
ああ、私が門内さんのような秘書を目指しているって意味かな。でも誰もが目指したくなるよね、門内さんみたいな超優秀な人を。
「違いますよ」
顔にでも出ていたのだろうか。そう言われて、どきりとする。
「木津川さんが弱音を吐いてくれている事です。引き継ぎ中には、どんなに過酷で身体が辛くても私の前では一切弱音を吐いてくれませんでしたからね」
そ、そっか。あの時はとにかく付いていくのに必死で気を張っていたせいかも知れない。今はきっと気が抜けているのだろう。だからつい情けない事を門内さんの前でも呟いてしまった。弱い自分が出てしまっている。さっき頑張ろうと思ったところなのに、私って駄目だな。
再び殻に閉じ籠もろうとした私に彼はめざとく気付いて駄目ですよと言った。
「今日は私に木津川さんのお時間を下さいと言ったはずですよ」
「え?」
「仕事場の顔ではない、素顔の木津川さんのお時間を頂きたいんです」
片目を伏せて笑う彼に思わず目を見開いてしまう。
やばい、この人。天然の女性たらしだよっ。欲しい言葉を的確にくれる。言葉が少ない社長とは正反対だ。そう言えば優華さんの婚約披露パーティーで、社長がこの男は誰にでも好意的な事を言うと言っていたっけ。
しかしそうと分かっていても、やはり頬に熱が集まる。そうかと言って、誰にでも言っているんでしょうとか、女性に慣れていますねとか、相手が社長なら言っていただろう憎まれ口を叩けるような相手ではない。いや、そもそも社長がそんな事を言うはずも無いのだけれど。
とにかく社長相手でないと、私ばっかり恥ずかしい思いをするじゃないか。ええいっ、目の前の人物が社長じゃないことが口惜しいっ。
「あ、ありがとうございます、門内さん」
熱くなった顔を伏せて、それだけ言うのが精一杯だ。
門内さんはいいえとくすくす笑う。
「ところで今日の会社社長の懇親会ですが」
「……はい」
門内さんの言葉に私は顔を上げる。
「出席されていた皆様、木津川さんがいらっしゃらなくて残念そうにされていましたよ」
優しいな、門内さん。そんな訳がないだろうに、一生懸命言葉を選んでくれたのだろう。
そんな私の表情を読んだ門内さんが本当なんですけどねと苦笑する。
「……でも。それでも、いえ、それ以上に伊藤さんが立派に私の代わりを務めていた事でしょう。とても気の利く方なんです」
私はずるい。門内さんはそんな事はないと否定してくれるのが分かっていて、聞いているのだから。本当に私はずるい女だ。
しかし彼が出した答えは意外なものだった。
「え? ああ、先ほど社長にそう呼ばれていた女性の事でしょうか?」
「……え? ええ、そうです」
「もしかして、木津川さん。……ああ、なるほど」
門内さんは何が自分の中で合点したのか、笑みを零した。
「言葉が足りませんでしたね。今日、私が出席したのは木津川さんの代理です」
「…………。えっ!?」
「木津川さんが体調不良というお話で、急遽、私が駆り出されたんですよ」
と言う事は、社長は伊藤さんを私の代理にしたのではない……って事でいいんだよね。
「弱っていたのはお身体の方ではなかったようですが」
私は否定も肯定もせず、ただ口元だけ笑みを浮かべた。
「話を遡りますが、社長様方が今回、木津川さんの不在で残念にされていたと申しましたね。それには理由があるのです。こういう世界ですから、裏表が両極端な方で溢れています。もちろんそれは交渉の場では必要な事ですが、それでもやはり皆様も同じ人間です。気を許せない相手に心がお疲れになるものです」
私は頷く。狐と狸の化かし合いまで言うと乱暴だけれど、それに近い駆け引きはある。
「その中で木津川さんは裏表がありませんから貴重な存在なのです。いえ、正確には裏でも素直に顔に出てしまうという事でしょう。先ほども何か私におっしゃりたかったのでしょうか。ふくれっ面されていましたよ」
可愛かったですけどと門内さんはくすくす笑う。
うわぁーっ、顔に出ていたの!? しかも可愛いとかっ! またまた頬へ熱が一気に上気して、慌てて手で押さえる。
だけどよくよく冷静になってみると、交渉の場では相手の裏を読もうと画策する中で、私みたいな人間は格好の餌食ということでは?
「そ、それって、で、でも秘書として致命的な事、ではないでしょうか」
「確かに交渉という意味ではそうかもしれません。それでも素直に表情に出せる存在というのは彼らにとって安心の場でもあるんですよ」
「で、でもっ。私も全てをさらけ出している訳ではありませんよ。交渉が少しでも有利に働くようにと、その方の背景を勉強したりします。そういうのもご機嫌取りと言えば、そうですよね」
相手に好印象を持ってもらうために、その人の事を一生懸命知ろうとしている。そういうことも相手が気付いてしまったら不快になる一つではないだろうか。
「それでもあなたの場合は上辺だけでは無くて、全力でそれに取り組まれているのが分かるから、好感度を上げようとしての言動なのだろうなと気付いたとしても憎めないんですよ」
「……そ、そう、いうもの、ですか?」
「ええ。それにね、皆さんがおっしゃるには、社長は冷たそうな雰囲気をお持ちの方ですから普段はとても話しかけ辛いそうです」
……あ、一人にしておくと孤高の狼になるあれか。
「でも木津川さんが一緒の時の社長は雰囲気が柔らかくなって話しかけやすいし、木津川さんが横でフォローしてくれるからとても助かるとおっしゃっていましたよ」
「え……」
目を見開く私に門内さんは優しげな笑みを浮かべた。
「ですから木津川さんは先ほど光栄にも私になりたいとおっしゃって下さいましたが、あなたが私になる必要はないんです。いえ、あなたはそのままのあなただからこそいいのです」
そのままの私? 時には背伸びをしたり、片意地張ってしまうような私だけれど、それでもそのままの私でいいのだろうか。
「そして社長もそれを望んでいるはずです」
「社長も……?」
「ええ。社長もあなたの裏表のない真っ直ぐな所に心の安らぎを抱いているはずです。そして私も正直、あなたと一緒に仕事をされる社長が羨ましいです」
え、えっとね、門内さんの方が凄いと思うわけよ。だってね。こんなセリフ、普通の人はシラフでは吐けないよ? それこそ分かっていてもとても嬉しくなってしまうではないか。恥ずかしいからもう言ってしまえ。
「凄い、門内さん。それって誰でも落ちちゃう口説き文句ですよ。さすがですね。うっかり惚れそうになりました」
「っ! あー、う、うーん。そう取っちゃいましたか。本当にそう思っているんですけどね。木津川さんは人の心に聡いお方ですけど、鈍感な所も多分におありですよね」
門内さんはそう言うと苦笑いした。
人を持ちあげておいて突き落とすなんてあんまりです、門内さん。
「しかしそれだけに……不安な面もあります」
門内さんはふと笑みを消した。
「先ほどの女性、伊藤さんでしたか。彼女は人の気持ちを煽るのが上手なお方でしたね」
門内さんはあの時間だけで彼女を観察し、分析していたのか。確かに彼女の言葉は計算なのか、無邪気さなのかまでの判断はつかなかったが、確かに動揺させられた。思えば、これまで何度も彼女の言動にペースを乱されてきた気がする。
「木津川さん、お気を付け下さい」
「え」
「あなたの心の乱れは社長にも響きます」
「は、はいっ!」
門内さんの重みのある言葉に身が引き締まる。
「大丈夫。あなたがこれまで懸命に築き上げてきたものは、きっとこれから先もあなたを助けてくれるでしょう」
「はい……?」
彼が何について言っているのが分からず、語尾が上がった返答となってしまう。
門内さんはそんな私に少し笑みを向ける。
「あなたには何ら恥じる所はありません。むしろ胸を張って堂々と自分を見せつけてやればいい」
いつもより少しだけ強引な彼の口調に思わず目を見張った。けれど私を理解してくれているようでとても嬉しかった。
「……はい。ありがとうございます」
私が心からの感謝を込めてお礼を言うと、彼ははっと照れたように笑った。
「あっ、す、すみません。いつもと違って弱気なったお可愛らしい木津川さんの姿に思わず熱が入ってしまいました」
最後にとどめとばかりに、胸きゅん発言を落としてきた門内さんはやっぱり真性の女たらしだと思った。




