14.鷹見社長と再会
私は会社を出た。そして夏の夜七時はこんなにまだ明るかったんだなと空を見上げて思う。最近は休みの日も社長と共にしている時間が多いせいか、明るい時間に一人はどこか心許なく感じてしまう。そう感じて慌てて頭を振った。
せっかく社長が気を遣って早く帰らせてくれたのに、そんな事を思っていてはだめだ。頭を切り替えよう。そう思って足を進める。
これくらいの時間ならまだ外食店が余裕で開いている時間ではあるけれど、食欲がなくて行く気力も無い。かと言って家で自炊する元気も無い。
どうしようかなとぼんやり考えて歩いていると、ふいに背後から自分の名前を呼ばれた。
「木津川さん? もしかして木津川さんじゃないですか?」
「……え?」
あまり聞き慣れない低い声に誰だろうと振り返った。
「木津川晴子さんでしょう? 瀬野社長の秘書の。社長会合でお会いしましたよね」
「……あ、は、はい!」
そこに立っていたのは鷹見財閥の御曹司、鷹見一樹さんだった。
「こんばんは、木津川さん」
「こ、こんばんは。お名前を覚えて下さっていたんですか、鷹見社長」
「ええ。綺麗な女性の名前は一度聞いたら忘れません」
ああうん。ナンパ男らしいセリフですねなどと今日はツッコむ元気も無いが、とりあえず、社交辞令でもとんでもない事ですとでも返しておこうか。
ぼんやり考えていると、彼はさらに話しかけてくる。
「今、お仕事の帰りですか?」
「え、ああ、はいそうです」
あ、言えなかった。自意識過剰みたいで嫌だと思ったけど、まあ相手も別にどうとも思っていないだろう。
「偶然ですね。私も帰宅中なんですよ」
「そうですか。偶然ですね」
早く一人になりたいなと思いながらも、とりあえず繰り返して言うと鷹見社長は苦笑した。いつもなら街で仕事関係の人と出会えばすぐに仕事モードに切り替えられるのに、今日はそれが上手く行かない。こんな事じゃいけないと思って会話を続けてみる。
「今日はお一人でいらっしゃるのですね」
いつもはお綺麗な女性を侍らせていらっしゃるようなのに。そんな言葉が隠されているようで、少し嫌味っぽく聞こえたかしら。
しかし鷹見社長は別段気にした風でもなく、むしろ大人の余裕の笑みでもってさらりと流される。
「ええ。もちろん私も一人の時はありますよ」
「そうですね。失礼な事を申しました」
「いえいえ」
街ゆく女性がちらちらと鷹見社長を見ながら歩いて行く。そっか、色男さんだもんね。世の中の女性の反応はこういうのが普通なのかもしれないわね。ただ私は今、超ぼんやりした頭だから、そういうのが全然感じ取れないわ。
ああ、でもそう言えばこの人、確か私のタルトを奪った宿敵だったわね。それだけは記憶にしっかり刻み込まれている。それはともかくここで二人、こうしていても仕方がない。そろそろお暇しようと口を開こうとした。
「木津川さん、これからお時間ありますか? ここで会ったのも何かの縁ですし、お食事にお付き合い頂けませんか? 以前お会いした時、あなたとはもう少しお話したいと思っていたんですよ」
「え?」
その言葉にはさすがに眉を上げてしまった。しかも断られるはずがないと確信する物言いも何だか気に触る。
そもそも一度しか会った事がない相手をいきなり食事に誘う? 私は今、さながら妖気探知アンテナのように、警戒で髪の毛が逆立っています。なお画像はイメージで、実際とは異なる場合がありますけどね。
私は目の前で微笑している鷹見社長を見ながらそう思う。
……あれ、いや、ちょっと待ってよ。そんな事はないかも。ほとんど知らないけれど、この人なら言っても何となく不自然は無いな。
妙な納得をしてしまうが、不意に瀬野社長の言葉が思い出される。鷹見社長には不用意に近付くなと。確かにあれだけの美女数人を連れても見劣り一つしない女慣れした人だと、普通の人は、いや、人から好意を寄せられる事に慣れた美女ですら鷹見社長の手の平の中でころころ転がされてしまうだろう。私などひとたまりも無いかも知れない。いや、ぺしゃんこにされるに決まっている。
恐い恐い。君子危うきに近寄らずだ。
「あ、い、いえ。その。申し訳ございません。しょ、食欲があまりなくて」
それは本当の事だ。夕食を抜こうかと考えていたくらいである。
「なるほど」
鷹見社長は笑みを浮かべる。
「確かにお疲れのご様子ですね」
「え、ええ。そうなんです」
良かった。分かってくれたか。
「では、行き先を変更しましょう。今のあなたに良い所があるんですよ」
「は?」
私が呆気に取られていると、鷹見社長は私の腕を取った。
分かってなーいっ!
決して強くはないけれど、振り解くことができなさそうだ。そもそももしかしたら今後取引相手になるかも知れない大企業の社長様相手に一介の会社員が手を振り解くなど無礼な真似は出来ないとは思うけれど。
それにしても随分と強引な人だ。瀬野社長も確かに強引な所があるが、相手の外堀を埋めてから動くタイプで、とにかく有無を言わさず引っ張って行く鷹見社長とはまた違ったタイプだ。二人のタイプは本当に正反対と言ったところだろう。
まあ、さすがに強引な行動に出てもさらう訳では無く、私との足並みは揃えてくれているけれど。それでもやっぱり相手の意向を無視して強引すぎるよね。
「いつもこんなに強引なんですか」
あ。しまった。もう少し柔らかな言葉に変換してから口に出そうとしていたのに、つい口から出てしまった。
その言葉に鷹見社長は少し目を見開いて、すぐにくすりと笑った。
「すみません。いつもはそうでもないんですよ。あなたとまたお話ししたいと思っていたのは本当なのですが、今日偶然あなたの姿を見つけて、少しお話ししたら一人にしておきたくないと思ってしまって」
「っ!」
こ、こやつ。さすがに女性慣れしておる。弱っている女性を察知して、つけ込むとはやるな、お主っ!
分かっていても動揺して言葉を失ってしまう。
「……すみません」
「どうして謝るんですか?」
「鷹見社長にまでご迷惑をおかけしたみたいですから。ご心配頂いた……んですよね」
「ああ、そんな事」
鷹見社長は笑った。
「もし面倒だなんて思っていたら、初めから声を掛けたりしませんよ」
「……そう、ですか?」
「ええ。それにあなたに興味があったから、これを口実にと強引に引っ張って来てしまった事に対しては申し訳ないと思っています」
さすがぼんやりしている私もここまで言われたら、どきりとしてしまう。
いやいや、何を考えているの。落ち着け、私。二度目なんだよ。一目惚れされる容姿でもないんだから、何か他の女性と違う何かを私に見たんだろう。ただそれだけの事だ。
しかし、どこまで行くのだろう。
「あの、どこまで……」
「いいタイミングですね。ここですよ」
鷹見社長が足を止めたそこは女性客が多そうなお洒落なカフェだった。意外に庶民的な店のチョイスに目を丸くした。
「さあ、入りましょう」
手慣れたエスコートで私を促して店内に入ると、店員さんにテラス席に誘導される。鷹見社長はこのお店のオススメを教えてくれてそれを注文した。夜にスイーツってどうよと思うけれども、スイーツ好きはいつ何時もスイーツの受け入れ体制が万全なのだ。
「心と身体が疲れている時はね、甘い物が一番なんです。ここはね、甘い物が食べたくなると来るんですよ」
「え、鷹見社長、甘い物がお好きなんですか?」
何だか親近感が湧いて、頬が緩んでしまう。
「実はね。こんなナリだからあまり大きな声では言えないんだけど」
「こんなナリ?」
「人にはよくお酒の方が似合うって言われるんですよ」
「ああっ! 確かに。例えばバーでワインを飲んでいる姿とか、家のバルコニーでワインを飲んでいる姿なんて似合いそうですね」
うんうん頷く。鷹見社長とワインはあまりにも容易く想像できてしまう。家のバルコニーで美女を前にワインで乾杯してそこからの。
「夜明けのコーヒーとか!」
私は人差し指を立てる。そして自分が口に出した言葉が脳に到達し。
「……はっ。はぁっ!?」
自分で言っておいて、思わず目を見開いて叫んでしまった。
ぎゃあぁぁぁっ、何を口走っているんだ私。一気に熱が顔に集まってくるのが分かった。あああぁ、誰か今すぐショベルをギブミー。そこの花壇を掘り起こして、この身を隠してしまいたいです。
何ともはた迷惑なことを考えている一方、鷹見社長と言えば目を丸くしていた。
「すみませんすみませんすみません。今の無しの方向でっ。お願いします、今の言葉忘れて下さい復元不可能までに記憶から抹消して下さい!」
思わず頭を抱えて謝るとそこで鷹見社長が吹き出した。
「そんな事を真っ正面から言われたの、初めて」
でしょうねっ! 私も生まれて初めて口にしましたよ。ホントだよ!
鷹見社長は笑いが収まらない様子で、それでも必死で押さえようと顔に手をやって、くつくつと喉の奥で笑っている。
は、恥ずかしすぎる……。
「何だったら、木津川さんもバルコニーでワインから夜明けのコーヒーまで俺に付き合ってみる?」
「……へっ!?」
今度は鷹見社長の言葉の理解がようやく追いついてきて、青くなる。
「そそ、そんな。めめめ、滅相も無い事でございますっ!」
私は両手を挙げて頭をぶんぶんと振った。
「そう、振られちゃったか。残念だな」
鷹見社長はようやく笑いが収まってそう言うと、今度は冗談っぽく笑って肩をすくめてみせた。そこで鷹見社長が砕けた口調になった事に気付く。さっきの一連の流れから、二人の間にあった壁が取り払われた感じだ。元々、鷹見社長の方が年上だし、私からしたら敬語で話されるより肩の力が抜けていい。
「木津川さんは? お酒は飲める方?」
「え、あ、い、いえ。あまり得意では。人付き合い程度なくらいです」
「そっか。じゃあ、食事くらいなら付き合ってもらえるかな」
「あ、は、はい。そ、それぐらいなら大丈――っ!?」
し、しまった。流れで軽く安請け合いしてしまった。
鷹見社長は悪戯が成功した子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
……うっ、やられた。
「じゃあ、約束だよ」
「え、あ、あの。い、いえその」
い、今のは言葉のあやでして。
その時、店員さんが目の前に運ばれてきたコーヒーと美味しそうなチョコレートパフェに思わず目を奪われた。
「お待たせ致しました」
「あ、ありがとうございます! お、美味しそう」
「ここのチョコレートは欧州で厳選された最高級の素材で作られたクーベルチュールチョコレートに同じく世界最高品質のミルクを使っているんだ。その分、お値段は張るけど、女性たちが少し贅沢したいときに選ぶパフェなんだそうだよ」
「そうなんですか? それは知りませんでした」
スイーツ好きを公言している身としてはお恥ずかしい限りですね。
「結構、穴場的な所だからね」
鷹見社長に勧められて、パフェを頂きながら応対する。アイスクリームが目の前で溶けていくのはどうしても見るに堪えないものね。
「よくご存知なんですね」
「まあね。良かったら今度はザッハトルテの美味しいお店に連れて行ってあげるよ」
「本当ですか! 楽しみにしています」
「うん。俺も楽しみにしているよ……本当にね」
鷹見社長はそう言うと、また笑いがこみ上げてきたようで抑えた声でくすくすと笑った。




