11.明滅する
「今年は秘書課の募集が無くてがっかりだわ……。秘書課に希望を出そうと思っていたのに」
「あれ? でも確か秘書課には新入社員が入ったと聞いたけど」
化粧室の個室に入っているとそんな話が聞こえてきた。自分が所属する課だから、どうしても気になって聞き耳を立ててしまう。
「え、嘘っ!」
「本当。私、見たもの。すごく可愛い子だったわよ」
「募集、無かったわよ?」
「まれに社長権限で採用する事があるらしいわ」
え!? 初耳です! ……あ、でも私が採用された時は社長権限だったんだろうか。
「えーっ!?」
「若くて可愛い子だったから、社長、顔で選んだんじゃない?」
まさか。社長がそんな事をするはずっ! …………な、無いよね?
「うっそ、やだもーっ。それだったら許せなーい。って、あのイケメン社長だから許しちゃうけど」
「現金ねー」
二人はそんな会話をしながら化粧室を後にした。
社長室に入って、すぐ部屋の点滅している照明に気付いて見上げた。ちょうど応接間上の電灯だ。
「あ、こちらの電灯、点滅しておりますね」
「ああ、後で替えを持ってくるよう頼んでおいてくれ」
「はい、かしこまりました」
他もチェックしてみるが、今のところは問題ない。社長のデスク周りの照明も問題なさそうだ。
「それとこの書類の処理を頼む」
そう言って社長はどさりと積み上げられた書類に一瞥する。
「はい、承知致しました」
「ああ、頼む」
どうしよう。あの事、社長に直接聞いてみようか。
迷いながら突っ立っている私に社長は眉をひそめた。
「どうした?」
「え?」
「何か言いたい事でもあるのか?」
「あー、えーそう、ですね」
「何だ?」
「ええっと……伊藤さんの事ですが」
口ごもる私に社長は目を細めた。
「彼女が何か?」
「ええっと……か、可愛いですよね」
「……は?」
「目がくりくりっとしていて、言動もこう女の子らしくて」
「……一体何が言いたいんだ?」
社長は呆れたような表情を浮かべた。
社長のせいですよ! 何で私がこんな事で悩まなきゃいけないんですかっ!
「だからっ! 伊藤さんは可愛いですよねって話ですっ!」
くわっと目を見開いて言ったら社長は私に気圧されたのか、ああと呟いた。
っ! やっぱりそうなんだぁぁ……。
「た、畳と秘書は新しくて可愛い方がいいって言いますもんね……」
「は?」
「いえ、失礼致しました」
「お、おい」
私はがっつり書類を胸に抱きかかえると、会釈して退室した。
自分のデスクに戻って書類に一度目を通すと、さほど急用の件ではないようだけれど、それは私が判断していいところではないのだろう。それよりあんな態度を取って気まずいけど、社長室の電灯を替えなければ……。
書類を引き出しにしまい、鍵を掛けた。そしてスーツ上着を脱いでブラウス姿となり、足もヒールからスニーカーに履き替えて部屋を出る。
「あら、どこかに行くの?」
社長秘書室から出てきた私に宮川さんが尋ねてきた。
「あ、そうなんです。社長室の電灯が点滅しているので、総務課に行ってお願いして来ようと思いまして」
「そうなのね。お疲れ様です」
「はい。すぐに戻って来ますけど、あとよろしくお願い致します」
「はーい。行ってらっしゃーい」
野田さんはそう言って送り出してくれる。すると、伊藤さんが近寄って来た。思わずじっと見つめてしまう。うん、あなた可愛いね。
「木津川先輩、そんな雑用だったら、私が頼んできますから」
そんな雑用だったらって……。多分私を気遣ってくれているんだろうということは分かるのだけれど、少し言葉にするには強すぎるかな。
「ありがとう。でもいいの。こういった小さな一つ一つも仕事の内なのよ? 社長や社員が気持ちよく仕事するためにはね」
「……そうですか?」
冴えない表情を見ていると、今ひとつ理解してくれていないのかな?
困ったな、どうやって説明しようと思っていると、室長から声がかかる。
「木津川さん、あとは私が言っておくわ。あなたは行ってらっしゃい」
「はい、ありがとうございます。それでは行ってきます」
お礼を言って私は総務課へと向かった。
総務課はいつ訪れても人が忙しくぱたぱたと動き回っているのが見えて、声掛けがためらわれる程だ。
「すみませーん」
「はーい」
しかし声をかけるとすぐに一人の社員さんが寄って来てくれた。こういう所は我が勤める会社ながら、とても教育されているなと思う。
「ああ、木津川さん、こんにちは」
「浦本さん、こんにちは」
彼女は同じ年齢の浦本百合子さんだ。仕事もよくできる彼女とは同期で、顔を合わせることも多く、気心が知れた女性である。
「今日はなあに?」
「社長室の応接間の電灯が点滅してしまってね。電球をもらえる? あ、後、脚立も貸して欲しいんだけど」
「え? もしかして今回も木津川さんがやるの?」
「ええ。慣れたものよ」
私は腰に携えたウエストポーチを指さす。この中には数種類のドライバーが収められている。
「やーだっ、木津川さんったら。脚立担いで歩く姿はもう電気工だしっ!」
ぷっと吹き出した浦本さん。いや、あながち間違いでは無い。
「そうなの。時々廊下で手伝う事があるんだけど、総務課の出動部隊と間違えられているのよ」
「あら。木津川さんなら、こちらはいつでも受け入れオーケーよ?」
「あはは、ありがとう。でも本当に毎回担いで会社を練り歩くのもどうかと思うし、秘書課の脚立を申請してみようかしら」
ただ経理課となると、以前の事があってあまりいい心証はないかもしれない。うん、本当に反省しています。
「うーん、それは難しいかもね」
彼女はそう言うと、顎に手をやって少し首を傾げた。
「経費削減が叫ばれているし、当面足りなくて困っているわけじゃないから、秘書課が必要としていると言ってもちょっと厳しいかな」
「そっかぁ。そうだよね。結構使う機会多いんだけどなぁ」
だったら社長のポケットマネーで何とかならないものかと悪魔のささやきがむくむく湧き起こってくる。ちなみに自分でお金を出すのは嫌だ。ああ、嫌だとも。
「そうね。木津川さんは、本来ならうちがすべき事をしてくれている事が多い訳だから、経理課に掛け合ってみてもいいわよ」
「あ、いえいえ。そこまで無理して頂きたいわけではないの。ただ秘書課にあれば便利だなという軽い気持ち程度なだけだから気にしないで」
わざわざお手間を取らせてまですることじゃないし。
「それに申請するにしても、こちらから手順を踏んで正式に申請するから」
「そう? 真面目ね、木津川さんは。そこがまたいいんだけどね。まあ、とりあえず今は電球、すぐに用意するわね」
「うん、お願いします」
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
「あら、また脚立担いで戻って来たの。総務課も相変わらず忙しいのね」
「そうなんです。ああ、やっぱりマイ脚立欲しいなぁ」
脚立と電球を受け取って秘書室に戻ってきた私は宮川さんと菅原室長に応えた後、少しぼやいた。そして澤村さんに尋ねてみる。
「申請書を出してみて、通ると思う?」
「おそらく却下されると思います。過去同じような申請がありましたが、全て却下されております。それに何よりも秘書課には置く場所がありません。なお、正確には置くスペースが無いのではなく、秘書室の景観を壊してしまうという意味です」
「……はは、そうですよねぇ」
きっぱりと言われて苦笑してしまう。
そもそも日常の業務に必須というわけではないものね。
「それに最近はLED照明に切り替わってきたから、脚立で電球替えの出番もいよいよ少なくなって来るんじゃない」
これは野田さんだ。
「なるほど、一理ありますね。――あっと、いけない。それでは失礼して、電球交換に行って参ります」
そう言うと秘書室を通り抜け、さらに一人用にしては少し広い自分の社長秘書室に入った。すると電話が鳴ったので慌てて脚立を置くと、電話に駆け寄って応答する。
「はい、はい。二時ですね。はい、承知致しました」
社長のスケジュールを確認して承り、電話を切った。
電子管理もしているが、手帳にも予定表を書き込んでいるので追加しようとして胸元に手をやるが、ペンが見当たらない。さっき上着脱いだ事を思い出して、後ろにかけた上着からペンを取り出すとメモを取る。
「これでよしっ」
私はブラウスのポケットにペンを収めると立ち上がった。そして社長室の扉を前にブラウスを腕まくりする。そしてノックするとすぐに返事があったので、扉を全開せずにお伺いを立ててみた。
「社長、今、お話よろしいでしょうか」
「ああ」
「来週の木曜日に湯河原様がお目にかかりたいそうです。二時に予定を入れさせて頂きました」
「分かった。それより……」
かなり離れていても不審そうにこちらを見ている社長が伺える。うん、確かに私は今、不審人物だ。
「なぜそんな所から話している」
「あ、はい。それともう一つなのですが。……今、電球の替えをしてもよろしいでしょうか」
社長が在席中にどうかと思うが、電灯の点滅はどうしても気が散ってしまうので早く替えた方がいいだろう。
「ああ、構わないが」
「はい。それでは失礼致します。電球が切れている方の電灯を一度オフしますね」
壁に設置されている電気のスイッチを押してオフにする。昼間だし、社長のデスク周りはライトが付いているから仕事の邪魔にならないだろうし、電球の替えにも問題なさそうだ。
私は肩に脚立を乗せて部屋に入り、切れている電灯の下まで行って位置確認する。
うん、テーブルを動かさなくても大丈夫そうだ。
そして少しばかりのかちゃかちゃという金属音を鳴らしながら設置した。しかしなぜか視線を感じて社長の方を見ると、眉をひそめている。
何ぞ?
「まさか君が替えるのか?」
「はい、そうです。総務課の方も人手が足りないようでしたから、脚立をお借りして電球を頂いて参りました。LEDですから次に替えるのは十年後くらいになるんでしょうか。便利な時代になりましたね。ただ、もう少し安くなるともっといいんですけど」
私は社長に背を向けて、本当にいらない雑談をしつつ脚立に登りながら言った。こういう事があるからパンツスーツをつい履いちゃうんだよね。本当はスカートだって履きたいんだけどなー。
「おい、待て。だった――」
社長が何かを言いかけているので、脚立の頂点一歩前から振り返って社長を見下ろした。社長は椅子から立ち上がっている。うん、絶景かな、絶景かな。なかなか良い眺めである。
「はい? あ、上から失礼しております」
「……いや、もういい。電灯に集中しろ」
「はい。ありがとうございます。それでは」
一度電灯を見上げると、私はウエストポーチからドライバーを選別して取り出す。
職人かとぼそりツッコみが聞こえた気がしたけど気にしない。
私は電灯カバーを手で押さえながらネジを外していく。四隅外れた所で、カバーをそっと外した。
結構重みがあるな、一度カバーを下ろそう。そう思っていると。
「受け取ろう」
いつの間にかこちらに近寄って来ていた社長が低い声でそう言った。
あっ、び、びっくりした。音もなく近付かないで下さいな。それにいるならいますよーって、もっと早くそして大きくアピールして下さいよねっ。危うく私のガラスのように繊細な心が砕け散るところでしたわよ。……と言おうと思ったけれど鼻で笑われそうなので、やめておいた。
「あ、ありがとうございます」
しかし、それはともかく、何てこと。社長の仕事の邪魔をしてしまったわ。おまけにすみません、社長様なのに手伝わせてしまって……。
失礼なのは分かっているけれど脚立に乗ったまま上から謝罪すると、いいから集中しろと言われた。でもそのおかげで私はそのまま電球を交換する事ができるので助かるのは助かるけれど。
さらに私は総務課から受け取った電球をウエストポーチから取り出した。
交渉の場の上にあるこの照明はリラックスできるように少し赤味の帯びた電球色が採用されている。一方で、社長のデスク付近の照明は集中できるように、基本的には少し青みが強い昼白色に設定されているが、一日中それでは疲れるので照明の色を変える事ができる調光タイプとなっている。
いやまあ、本当に便利な世の中だこと。
電球の替えを全て終え、腕を伸ばして社長から電灯カバーを受け取りながら言った。
「あ、社長。この後すぐにお茶をご用意致しますね」
「……だから君は上に集中しろ」
社長は少し呆れた様に窘めてくる。あら、社長って意外と心配性なのかしら? いやでも、確かに自分の目の前で脚立から落下して怪我でもされたら迷惑か。
「あ、はい。承知致しました」
私は再び上を向いて電灯カバーを手で押さえながら、手早くネジを回して留めていく。
「……手際いいな」
「そうですか? ありがとうございます。学生の頃は背の高い部類でしたから、電球の替えやら掲示板の貼り紙など結構お願いされていたんですよね。今でも会社の中で時々手伝うんですよ。だから総務課の人間と間違えられるくらいで。あははは」
……よ、よく考えると笑えない。私は咳払いした。
「だから慣れているんです。――っと、出来た!」
「ゆっくり下りて来い」
はいはい、大丈夫ですって。社長は心配性だなぁ。
そう油断していると、最後の一歩足を踏み外し、受け止める社長の腕の中に……という少女漫画的展開は全くなく、がっちりしっかり無事に地面へと降り立った。
うん、さすがだ、私。女子力皆無だねっ! まあ、実際社長の手を煩わせて後のことを考えると寒気がするので、女子力皆無で良かったんだよ、結果的には。
そうやって自分を励ましておくことにした。
そして壁まで歩いて行って電気のスイッチをオンすると、ぱっと電気が灯る。私は社長に向き直った。
「それでは電球の交換、完了です」
「……ご苦労だった」
なぜだか疲れた様子の社長の労いに感謝する。
「はい、ありがとうございます! それでは一度失礼して、お茶をお持ち致しますね」
「ああ……。木津川君、さっきの話だが」
脚立を片付けて再び肩に乗せたその時、コンコンと社長室の扉が叩かれた。外から伊藤ですと声が聞こえる。
伊藤さん? 一体何の用だろう。
そう思ったけれど社長が頷いたので、脚立を置いて私が扉を開放した。
「はーい」
「失礼致します。お茶をご用意致しました」
「えっ……」
何とタイミングの良いこと。
社長に同意を得ようと視線を向けると、相変わらず何を考えているのか分からない無表情顔だ。仕方が無いので、私は再び伊藤さんに視線を戻す。
「あ、あら、伊藤さん、気が利くわね。丁度、お茶をお持ちしようと思っていたの」
「そうですか。良かったです。そろそろかと思いまして、お持ちしたんです」
「ありがとう。じゃあ、代わるわね」
お盆を受け取ろうと手を伸ばしたが、伊藤さんはにっこりと笑って首を振った。
「いえ、社長のデスクまでお持ちします。木津川先輩は電球を替えたばかりでしょうから」
「あ……。そ、それもそうだったわね」
自分の格好を思い出して慌てて手を引っ込めると、彼女はデスクまで歩み寄り、手慣れた手つきで丁寧にお茶を置く。そしてこちらに戻って来た。
ただそれだけなのに、まるでそれは洗練された秘書が社長にお茶を持ってきた映画のワンシーンを見ているようだった。
「それでは私はこれで失礼致します」
伊藤さんがそう言うと、私ははっと我に返った。
「あ、ありがとう、伊藤さん」
「……ご苦労」
社長も続いてそう言うと、伊藤さんは嬉しそうに頬を染め、一礼すると社長室を後にした。
なぜだか胸騒ぎを覚えて、既にない彼女の姿を追うように扉をぼんやり見続けていた私だが、社長はいち早くデスクへと戻る。釣られてそちらを見ると、社長は湯飲みを持ちあげ、そして――。
「っ!?」
ダストボックスへとお茶をひっくり返していた。
驚いて固まっている私に、社長はついと視線を向けると口元だけ少し笑みを湛えて言った。
「木津川君、申し訳ない。うっかりお茶を零してしまった。もう一度淹れ直してくれるか」
「……っ。は、はい。か、かしこまり、ました」
肝の冷える社長の行為に情けなくも、喉が詰まって掠れた声しか出なかった。
もしかすると自分が淹れたお茶しか飲まないという事だと思って嬉しさを感じる人もいるかもしれない。けれど私はこの時、酷く不安に襲われた。
そしてそれはこれから起こる事を確かに予兆していたのだ。




