10.新入社員、伊藤加奈
「あ、室長。カレンダーを変えていいでしょうか?」
カレンダーに書き込まれた予定などがあるので、野田さんは菅原室長にそう尋ねた。
「ええ、お願いね。あ、それはいつものように念のためにしばらく残しておいて頂戴ね」
「はい。承知致しました」
野田さんが請け負ってカレンダーを破ると、六月のカレンダーが顔を出した。季節毎に花が描かれているカレンダーなのだが、この時期はやはり紫陽花だ。青や紫やピンク色など色とりどりでとても美しい。そう言えば紫陽花の色は土壌の酸性度によって変わると聞いたことがある。
「もう梅雨時期なんですね」
宮川さんがそう言うと、室長は頷いた。
「六月ともなると蒸し暑くなってくるわね。冷房を入れるのには少し早いし、室内はむしろ一番暑い時期かも知れないわ」
そうか。もう仕事の新年度月から二ヶ月も経ったのか。早いなー。……ん? あれ?
「そう言えば、菅原室長」
「ん? 何?」
「入社式が終わってもう二ヶ月経ちますけど、秘書課には新入社員さんは入らないのですか。他の課では新入社員さんが入っていますよね」
まだスーツ姿が馴染んでいない若い社員さんが顔を引き締めて廊下を歩いているのを見かけると、微笑ましい気持ちになる。
「ええ、そうね。一年目ではまず入らないわね。秘書課は機密情報で一杯だからね。他の課では許される少しのミスもここでは許されない事もあるから新入社員には酷なのよ」
なるほど。秘書課はそこそこ仕事に慣れた人が来る所だったのね。私が新入社員の時に秘書課を希望しても通らなかったのはそれもあったのか。
「どこの部署でも一緒だけど、一年目はまず希望の課を聞いて、そしてそこでの適性を見るために二、三ヶ月働いてもらうのよ。そして合わなければまた次の部署に異動してもらうの」
「え、そうでしたっけ。支社勤務の時は営業部を希望していたわけではなかったのですが、配属されてからずっとそこでしたよ」
希望する部署を書く欄が確か第三希望まであったけど、営業部だけは書かなかったのになぁ。
「人気の部署というものは必ず存在していて、新入社員さんの希望ばかり聞いていたらどうしても偏りが出てしまうから、必ずしも希望の課には配属されないのよね。あなたが一度営業部に配属されてそのままだったというのはその部署に適性があると見なされて、異動させなかったんだと思うわ」
私は営業に適性があると見なされていたのか。それは初耳です……。
「じゃあ、秘書課には研修制度はないという事なんですか?」
「ああ、ごめんなさい。言葉が足りなかったわね。秘書課も研修生として入れるわ。でも最低でも入社して二年目の人になるでしょうね」
確かにいつまでも入れないとなると、秘書課の人材が足りなくなってしまうものね。
「もしかすると、そろそろ入るかもしれないわ。これに関しては人事部の社員さんの采配一つだから」
「へえ……」
私にも後輩ができると言うことかな。年齢的には私の方が宮川さんや澤村さんよりも上だけど、秘書としての経験としては一番下だから後輩が入って来るなら少し楽しみかもしれない。良い子が入って来るといいな。
私は期待に胸をふくらませた。
「社長、失礼致します」
「ああ」
社長に呼び出されて一つ会釈すると入室し、そして社長のデスクまで近付いて行く。
お呼びでしょうかと言うべきか。しかしお呼びだから私を呼びつけた訳で、こういう時はどう言うのが正解なのだろうか。何のご用ですか? では上から目線だし……とうんうん考えていたら社長は口を開いた。
「秘書課に研修生として一人配属される事になった」
「え、本当ですか! どんな方ですか?」
「彼女だ」
社長は電子化された履歴書を出しているようで、私はパソコンモニターの側に寄って覗き込んだ。
そこに映し出されている彼女の姿は、肩までの髪を軽くウェーブをかけていて、くっきりと二重の大きな瞳をした可愛い子だ。そしてそんな彼女の姿は、かつて支社で働いていた頃の後輩を彷彿させるような顔立ちの女性だった。先輩、先輩と慕ってくれていた、可愛い後輩だった。
「美紅、ちゃん……」
我知らずぽつりと呟いた。
「新入社員の伊藤加奈君だ」
社長の言葉にはっと我に返り、私は社長を見た。
「え、あ、はい。……え? 新入社員さんですか?」
「ああ」
「あの。菅原室長には一年目の新入社員さんは秘書課には配属されないと伺ったのですが」
「……そうだな。ただ例外はある」
「あ、もしかして優秀な方なのですか」
「そのようだ」
なるほど。優秀で秘書課を希望していたりすると配属される事もあるって事なのか。他の部署での二ヶ月の研修で彼女の能力が認められたのかも知れない。そうか、そんな彼女が私の後輩に……。
「……あまり深入りし過ぎるな」
「え?」
彼女の写真に視線を戻してぼんやり眺めている私に社長がそう言った。
「伊藤加奈君と島崎美紅君を重ね合わせるな」
「っ!」
島崎美紅ちゃんとは支社での私の後輩だった子だ。パワハラ課長から彼女を守りたいが為に、課長の要求に応えようと頑張って来たつもりだった。だけど私がやった事は事態を悪化させ、かえって彼女を苦しめただけだった。そして本社へ異動となった私は彼女に償う事すらできなくなってしまった。
だからせめて彼女に似た伊藤さんに何かできるならと咄嗟に考えてしまったのだと思う。社長はきっとそんな私の考えを瞬時に察したのだろう。
「間違えるな。彼女は島崎君ではない」
「……はい」
社長に念押しされて私は頷いた。
そして彼女が配属された日。
「よろしくお願い致します!」
実際顔を合わせてみても、その顔立ちと天真爛漫な表情はやはり後輩を彷彿させる。だけど社長の言う通りだ。勝手に伊藤さんの中に美紅ちゃんの面影を探して、伊藤さん自身に向き合わないのなら彼女に失礼だ。気持ちを切り換えなければ。
「ここの室長の菅原秋子です。指示は基本的に私が出すことになっているからお願いね」
「はい! よろしくお願い致します!」
彼女が元気よく答えると、他の秘書さん方が次々と自己紹介をしていく。
「宮川美奈子です。よろしくね」
「澤村悠里です」
「野田鈴子です。分からない事は何でも聞いてね」
彼女は、一人一人はいと頷きながら応えている。そして。
「私は木津川晴子です。よろしくお願い致します」
「はい!」
「ああ、木津川さんは社長秘書よ。一応部屋は違うけど、この秘書室にも頻繁に出入りするからね」
菅原室長はそう補足してくれた。すると彼女は瞳を輝かせた。
「社長秘書ですか! すごい格好いい。木津川先輩、どうぞよろしくお願い致します」
木津川先輩と呼ばれて、とくん。胸が鳴る。
……駄目だ駄目だ。社長に言われたばかりなのに。しっかりしなくちゃ。
「よ、よろしくね。伊藤さん」
「はい! よろしくお願い致します」
そう思ってはいても、彼女のはきはきとした受け答えと明るい笑顔に自然と頬が綻んだ。
伊藤さんが配属されて数日経った頃だった。社長室に処理の終わった書類を届けると、社長は尋ねてきた。
「どうだ、伊藤君の様子は」
「はい。新入社員さんとは思えないほど、しっかりされた方ですね。作業も正確で速いですし、一年目で配属されてきた理由も分かります」
「君も指導しているのか?」
「はい。大半は澤村さんに指導を受けているようですが、伊藤さんには私と同じ歳のお姉さんがいらっしゃって親しみを感じているようで、すごく慕ってくれています」
私には弟しかいないけれど、妹がいたらあんな感じなのだろうと思う。
そう言って笑う私を黙ったまま見ている社長にぎくりとした。社長の目には深入りしているように見えただろうかと。
「あ。で、でも彼女は可愛い後輩だと思いますけど、伊藤さんは伊藤さんですから」
「……そうか」
「はい」
「それではこの資料を菅原室長に渡してくれるか」
社長は大きな封筒に入っている資料をこちらに渡してきた。
「はい。承知致しました。では、失礼致します」
「ああ」
社長室を出て秘書室へと向かい、室長に声を掛けた。
「菅原室長、社長から資料をお預かりしております」
「あら、ありがとう。確かに受け取りました」
「はい。お願い致します」
会釈して秘書室を出ようとしたところで、伊藤さんが駆け寄ってきた。
「木津川先輩!」
「あ、伊藤さん。どうしたの?」
「ええ。先日教えて頂いた個所なんですけど、もう一度確認してもいいでしょうか」
「いいわよ」
「ありがとうございます!」
彼女は手帳を広げてこちらに見せるので、一緒に覗き込む。
「パソコンのソフトがなぜか上手く行かないんです。この手順で合っていますよね」
「ああ、こことここの手順が逆ね」
手帳をとんとんと指さした。
「え! そうでしたか! 道理で上手く行かなかったわけですね。ええっと」
彼女は胸元のペンを取り出して手帳に書き直そうとすると。
「あ、あれ。何で。インクが切れている……」
手帳にぐるぐると円を描いても上手く出ないようだ。私は自分の胸ポケットからボールペンを取り出して渡す。
「どうぞ、使って」
「すみません。ありがとうございます! えーっと、こことここが逆でー」
一生懸命書き直している彼女を微笑ましく見ていると、彼女が室長に呼ばれた。
「伊藤さん。少しいいかしら。手伝って欲しいのよ」
「あ、はい! ただいま参ります!」
伊藤さんはぺこりと頭を下げる。
「木津川先輩、ありがとうございました」
「いえいえ。頑張ってね」
「はい! ……あ、ペンもありがとうございます」
彼女はペンを返して来ようとしたけれど私は止めた。
「今、無かったら困るでしょ。とりあえず持って行って。私はデスクに戻るだけだから」
「あ、ありがとうございます。少しお借り致しますね。では失礼致します」
彼女はもう一度ぺこんと頭を下げると、室長の方へ駆けて行った。向こうでは室長に、こら早足はいいけれど走らない、と窘められている。私も最初の頃、室長にそう言われたなあと笑ってしまった。……さてと、私も戻ろう。
自分の部屋に戻ってしばらくデスクで業務をこなしていると、社長から内線電話が入り、私は社長室へと向かった。
「失礼致します、社長」
「今週の金曜日、皆木産業の沢井社長に会食を誘われているんだが、空いていたか?」
私は手帳を取り出すと確認する。
「はい、空いております。ではここに予定を入れますね」
「頼む」
胸ポケットからボールペンを取り出そうとして。
「……あ」
そう言えば伊藤さんに貸したんだった。そのままデスクにあるペンを持って来るのを忘れていた。油性ペンはあるが、それは手帳やメモが無いときに腕に書くためのものだ。手帳に書きこむには太すぎるし、裏に滲んでくるのは間違いない。
「すみません。社長、少しボールペンをお借りしてもよろしいでしょうか」
私はデスクの上のペン立てに視線を落とす。
「いいが、珍しいな」
「それは」
何も伊藤さんに貸したとわざわざ言わなくていいか。
「先ほどインク切れしてしまいまして」
「そうか」
そしてペンをお借りして手帳に書き込んだ。そして後はこれを電子端末の方にも入れるのだ。正直、私としては手帳の方が使い勝手がいいのだけれど、タブレットに予定を入れておくとアラーム音で示してくれて、忘れ防止にもなって便利な面もある。
「ありがとうございました」
私はペンを元に戻す。
「ああ。それとこの資料の仕分けを頼む」
「はい。かしこまりました」
手が痺れるだろうと思われる資料の量に少し苦笑いしながら私は返事した。
次の日。
「木津川先輩! おはようございます」
会社の入り口で出会った伊藤さんがにこにこ笑いながら朝の挨拶をしてくれた。
「おはよう」
「先輩、すみません。昨日、ペンをお返ししないまま帰ってしまいまして」
「ああ、大丈夫よ」
彼女は鞄からペンを取り出すと、こちらに返した。わざわざ鞄の中で保管してくれていたのか。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
特に高級品のペンでもないけれど持ち心地が良くて使い慣れたペンでもあったので、やはり返ってくるに越したことは無い。そう思って改めて彼女を見ると、今日は向日葵の形をした可愛い耳飾りを付けている。
一方、私と言えばしゃれっ気がまるで無い。唯一のおしゃれはセミロングの髪を後ろで簡単に留めているバレッタだろうか。これだけは種類豊富に持っていて毎日変えている。誰も気付かないけど。誰も気付いてくれないけど。ええ、大事な事じゃ無いけど二度言いましたよ。
「伊藤さん、そのイヤリング、あ、ピアス? 素敵ね」
「ありがとうございます。ピアスです」
「もしかしてどなたからかの贈り物?」
伊藤さんは嬉しそうにしているので、茶化すつもりで軽く尋ねてみた。すると彼女は頬を紅く染める。……あ、了解ッス。自分から話を振っておいて何だとは思う。しかし万年独り身の私としては心の中でちっと舌打ちしてしまったのは許して欲しい。
「は、はい」
「伊藤さんの好きな人なんだ?」
「す、好きだなんて! で、でもとても尊敬する方で、敬愛していて……お、お慕いしています」
お、お慕い……。この時代にお慕い……。な、何て謙虚な子なんだ。
伊藤さんの純粋さにくらくらしそうな中、彼女は小さく笑った。
「これを贈って下さったあの方に報いる事ができるよう頑張りたいと思います」
あー、うん。そうね……素敵。
「うん、頑張ってね」
「はい」
彼女はそう言うとさらに笑みを深めた。




