01.木津川晴子、二十八歳、会社の駒の一つです
※前作をお読み頂いた方へ
このお話は番外編(最終話)より前のお話です。二人の仲が進んでいないorむしろ後退したと思われるかもしれませんが、あらかじめご了承お願い申し上げます。
「かしこまりました、社長様」
私は晴子、木津川晴子、二十八歳。会社の駒の一つ、ただの平社員です。そんな私がデスクに山と積み上げられる書類を前に、社長に向けてにこりと笑みを作った。
昨年の初夏の頃まで私は営業部に勤めていた。けれど、パワハラ課長と職場に流れる自分の歪められた噂により神経がすっかり参ってしまった頃、交通事故に遭った。
目覚めた矢先に待ち受けていたのは、豪華な個室らしき病院のベッドの上、しかも全くの別人、大財閥家のご令嬢、瀬野優華さんという女性への転生。いや、今となっては、憑依という言葉が相応しいだろう。しかも当時は自分の事すらほとんど分からない記憶喪失に陥っているという二重苦の乙女――中身は二十七歳だったけど身体は乙女だからセーフですよね――となってしまった。
そんな私の前に現れたのが彼女の婚約者だという二宮悠貴さん。彼のご家族、ご親戚は政治家を何代にも渡って輩出している政治家一門だった。いわゆる、彼もまた良い所のお坊ちゃまクン、失礼、ご令息という訳だ。そんな彼を相手に最初は白を切るつもりだったけれど、あっさりと中身が別人と見破られ、私は早々に事情を話すことになる。と言っても、ほとんど自分の事は何も分からない状態ではあったのだけれど。
思いもよらない出来事で、これは巷で流行している乙女ゲームの登場人物への転生か、はたまたファンタジー世界にトリップかと歓喜したのも束の間、そもそも私は記憶喪失で乙女ゲームの世界だったとしても未来予測も立てられない身だという事と、また世界も魔王様による脅威がない事を歳が実に十近くも離れている彼にとくとくと説かれ、渋々納得させられた。
じゃあ、私は何をすればいいのかと問うと、とりあえず学園生活を適当に過ごせばと、実に的確で有り難きお言葉に泣く泣く頷くしか無かった。その中で、優華さんの意識が彼女の身体のどこかでリンクしていたのだろう、優華さんが誰かに階段で突き落とされた事に気付かされる。そして悠貴さんの話によると彼女の評判がすこぶる悪いと言う事も。
こんな何もかもが分からない状態で、悠貴さんに助けられながら彼女の中で学園生活を過ごすことになる。しかも上流家庭のお子様方が通う学園だ。とにかく勝手が違うし、何年も前に高校を卒業していて勉強の事など、記憶喪失を別にしてもすっかり頭から消え去っているし、また立場上、人から注目されて生活する毎日は苦行に近かったと言えよう。
それでも彼女が悪役令嬢と称される理由と彼女を階段から突き落とした犯人を持ち前の手足の早さを生かし……あれ、おかしいな、何だか荒くれ者みたいで聞こえが悪い、よし、行動の早さにしよう。そう、行動の早さを生かして探りながら生活していると、本当は優華さんが普通の女の子と何も変わらない傷つきやすい一人の少女に過ぎない事が分かる。
誤解されていただけだと、嵌められていただけだと気付いた私は彼女の名誉を回復することに努めた。
そうやって動いている中、最初けんか腰だった財閥家のご令息、松宮千豊君や図書館司書の水無月早紀子さんなどの協力者も増えた。徐々に周りの評判を回復し、クラスメートにも受け入れられていったかと思った矢先の事、優華さんを突き落とした犯人を知る事態となった。その事によって今度は自分が突き落とされることとなり、それを機に再び自分自身に戻ることになる。
戻った先の身体は入院で寝たきりの自分。そして交通事故に遭った自分の身を認識した。今まで自分は長い夢を見ていたのだと気づき、同時にパワハラを受けていた過去を思い出して絶望。もう目覚めたくないと頑なに現実を拒んでいた時、私に話し掛けてくる声が耳に入る。そう、夢の住人だと思い込んでいた優華さんとそのお友達だった。
私が優華さんの身体から離れた時、優華さんは自分の中の奥深くに身を潜めていた自分を完全に取り戻したそうなのだ。そして彼らは私の跡を必死に辿ってきてくれた。私にも戻って来て欲しいという熱い思いに心動かされ、私は目覚める事、また現実の世界で生きる事を選択する。
そうして目覚めた先で家族と優華さんたちに温かく迎え入れられた。そこへ彗星のごとく現れたのは……あれ? 彗星のごとくの使い方これで合っていたっけ? まあ、いいや。ともかく現れたのは切れ長の瞳で冷たそうだが端整な顔立ちの男性だった。
容姿が恐ろしいほど整っていてどこか風格あるその人に圧倒された。そして何よりも彼の鋭い眼光に身を小さくしていた私だったけれど、その人は優華さんのお兄さんで私が事故を引き起こしてしまった相手だと紹介を受けた。しかも何の運命のいたずらか、何と自分の会社の社長だったのだ。
そう、ただいま回想真っ只中いる私に対して訝しそうにこちらを見ている目の前の社長様でございますよ。ああ、そう言えばあの時、社長相手に、あなた誰ですか全く知らない人ですけど何かの態度を取った事もあったっけ。思い出しちゃったわ。そして今、改めてまた忘れよう、うん。
社長は大雨の日、支社で起こっているトラブル、つまり私が起こしたトラブルになる訳だけれど、それについて調査しにやって来る途中、ぼんやり赤信号で横断歩道を歩いていた私と接触事故を起こしたそうだ。そして私が眠り続けている間に社長方々は私の元職場を調査したり、人事異動の手配に動いたり、実に様々な処理を経ていたらしく、よし目覚めたな、ならば君は社長秘書に決定だという話になった。
と言うか、秘書の経験も無いのに何がどうなってそうなったのだと目覚めて早々頭を抱えたのだけれど、きっと世界の何らかの大きな力が働いたのだろう、多分。知らないけど。
それから社長秘書業に精を出して時は流れ、優華さんたちと出会って約一年後。
優華さんと悠貴さんの婚約披露パーティーが彼らの高校卒業後、大学一年目の五月の連休時に行われた。何せ日本を代表する大財閥のご令嬢と日本を動かす政治家を家族に持つご令息の婚約披露パーティーだ。マスコミも注目する盛大なパーティーとなり、私も優華さんのお兄さんである社長の秘書の立場として、また彼らのお友達として出席する事になった。
そう言えば、パーティー準備に駆り出されたりすることもあったけれど、まあボーナスが支給されたからそれはいいか。あれ? 考えてみるとあれって会社の経費では当然落ちないよね? 社長のポケットマネーだったんだろうか、などという話はまあ横に置いて。
その様なおめでたい席で私は以前のパワハラ上司と遭遇してしまい、優華さんたちや社長を巻き込んで一波乱あった。そこで自分の未熟さをも改めて痛感し、仕事に対する決意新たにという結論に至ったのだった。
そして現在。
そんなこんなの紆余曲折を経て、半端ない仕事量を毎日お渡しになってくる社長に純粋無垢の笑みを向けているという事になった次第である。
「改めて確認致します。今日中ですよね?」
「……ああ」
やればいいんでしょ、やれば。やってやるわよ。前秘書の門内さんだってとても優秀な方だったとは言え、ずっと社長についてやっていらっしゃったのだから、私にだって出来ないはず…………。で、出来るだろうか、この量。い、いや。やらなきゃ。負けるもんか。
あらよっと、書類を持ち上げると見えないだろうけど、一応会釈してみる。こつんと書類に頭がぶつかった。く、崩れる。秘書室はすぐそこだけど、何とかもってくれるだろうか。
「で、では失礼致します」
「ああ、木津川君」
何だろう。社長がこちらに回って来る気配がする。もしや少しでも減らしてくれると――。
「これも頼む」
私が抱える書類の崩れを直すと、その上にさらにぽんと何かを載せた。
デスヨネー。
「……かしこまりました、社長様」
テンション低く返事すると、社長は苦笑して扉まで歩いて開けてくれた。冷たき容貌の男前の割に意外と気遣いの人だ。まあ、これくらいの量を抱えていたら両手が塞がって自分では開けられないけれど。……あ、いや、そこまで計算して先に開けておくべきだったのは私の方か。
「ありがとうございます。では失礼致します」
そう言って社長室を出ると、自分のデスクに戻って書類を置いた。すると。
「あ……」
先ほど追加の書類を載せられたかと思っていたが、そうではなかったようだ。キャンディーが三つ載せられていたのだ。感謝する、あるいは悪いという意味だろうか。その場では見えない所に置くなんて社長も不器用な気遣いをする方だ。だけど。
「何これ。子供じゃないんだからっ」
これっくらいで、私のご機嫌が取れるほどお手軽な女だと思わないで下さいよねーだっ。そう思いながらもキャンディーを一つ口に入れ、緩む頬をさらに膨らませた。
この会社では形式上、個人秘書である社長秘書とグループ秘書である一般秘書の二つに分けられている。デスクがある部屋としても一応分けられてはいるが、上司を支えるという意味では同じ仕事だし、色々協力し合っているので、朝のミーティングなどでもご一緒させて頂いている。
グループ秘書である部屋には現在、四人の秘書さん達が在籍している。野田鈴子さん、澤村遊里さん、宮川美奈子さん、そして菅原秋子さんの四人だ。
野田さんは私よりも一つ上で、とても気さくな方で明るくて男女ともに人脈が広い。私がここに入ったばかりで緊張してガチガチになっていた時も、まず真っ先に明るく声を掛けて下さった方である。会社内の噂にも耳が早く、情報収集にとても長けている。
一方で、さすがに秘書と知り得た情報に関してはしっかり口を閉めている人だ。相手の情報を引き出そうと思えばこちらも何らかの情報を与えるべきで、秘書業である以上難しそうだが、彼女はそのさじ加減が絶妙だという事なのだろう。
まあ、スイーツ最新情報の収集に関しては私の方が上なんですけどね。
澤村遊里さんは私を含めた中で最年少だが、彼女は絶対記憶能力者だそうで、度々お世話になっている。羨ましいと思う反面、良いことばかりではないそうで、今でこそ人との付き合いは人並みとまでには行かないまでも何とかやっているが、小さな頃は大変苦労したらしい。しかしここに入って、何よりも野田さんの明るさに救われたのだと言う。
今もあまり口数は多くないがここぞと言う時には発言してくれる頼もしい秘書さんだ。
まあ、私も一度食べたスイーツに関しては絶対記憶しているんだけどね。
そして宮川美奈子さんは私よりも一つ下だ。美人でスタイルが良くて、色気があるのに聡明そうな理想の秘書と言った彼女で、これまで付き合った男性は百人とも二百人とも、まことしやかに囁かれている。噂ほど当てにならないものはないと身に染みて分かっている私は一度直に尋ねてみたけれど、女は謎が多い方が良いのよと艶やかに笑ってはぐらかされた。その笑みには女性でもうっかり惚れそうだ。
お付き合いの相手は年齢も下から上まで、国籍問わず、職業問わずお付き合いされているそうだ。こんな恋多き彼女だが尽くすタイプらしく、交際中はその人オンリーで浮気は一切ないらしい。
まあ、私もスイーツに関して食べた品は数知れず……って、それはもういいか。
最後に菅原秋子さん。彼女は最年長で秘書室の室長だ。色々個性ある秘書さんをきちんとまとめあげる素晴らしい秘書さんである。もちろん仕事ぶりも完璧で、室長の失態をこれまで見たことがない。
一度、室長ほど優秀な方がどうして社長秘書を希望しなかったのか尋ねてみたところ、自分は人をまとめ上げる司令塔の方が性に合っているからよ、社長秘書だとそうはいかないものねとおっしゃった。そして、それに瀬野社長は人使い荒いでしょう、私には無理無理と手を振って、普段私たち秘書は無理という言葉は言っちゃだめと窘める室長がそう笑いながらご回答して下さった。
そんな個性のある方々と現在一緒に仕事をさせて頂いている。仕事は大変で残業も多く、休みは社長の会合に付き合わされて、まともに休息を取れないがとても充実した日々を送っている……とでも言っておこうか。休みがまともに取れないけれど。ええ、休みがまともに取れないけれど。大事な事だから何度でも言いますよ。
と言うか、社長こそかなりの仕事量をこなしているはずなのに、あれだけ精力的に動き回れる社長の身体は一体どうなっているのだろうか。召し上がっている物が良い物だから? 男性だから? あるいは私が並みの女性らしく、か弱いからそう思うだけだろうか? うん、それなら納得だ。
そう言えば明後日はまた社長会合だったっけ。ああ、また私の休みが消えていく。
私はそんな事を考えながら処理していく。ともすれば単調作業で眠くなるところを何とか正気のまま保つことができるのだから、心の中の愚痴だって必要だよね。そして書類が随分処理できたなあと笑みを浮かべていると内線電話が入る。社長からだ。
「……はい、ただいま参ります」
ようやく減ったと思われた書類が先ほどよりも堆く積まれることになるのはほんの一分後の事だった……。




