ペットと聖女は、同列ではありません
とはいえ、その新たな教育方針とやらを実行するためには、いろいろと学園への根回しや準備が必要となるらしい。実際に訓練をはじめられるのは来週からということで、凪はそれまでは今まで通りの日々を過ごすことになった。
そうなると、真っ先に気になるのはやはり、先ほど魔導騎士団の本部へ保護されたというエリアスとステラの安否である。アイザックも彼らを見舞うことを許可してくれているし、ふたりの無事な姿を見て安心したい。
だが、そう主張した凪に、シークヴァルトとライニールは揃って首を横に振った。
「おまえはついさっき、とんでもない魔力の使い方をしたばかりなんだぞ。いいから、少し寝てこい。今日中に目が覚めたら、ちゃんと本部に連れていってやる」
「シークヴァルトの言う通りだよ、ナギ。彼らのことは、心配いらない。きみの昔馴染みの子どもたちだ。誰も、無下に扱うことなどできないよ」
真顔でそう諭されてしまうと、ふたりに多大な迷惑と心配を掛けたばかりの身としては、あまりワガママを言うこともできない。残念ではあるが、少しベッドで休ませてもらおう――と思っただけのはずなのに、目を覚ましたときにはすでに翌日の早朝だった。
(……ええぇー)
寝ぼけ眼で枕元の時計を見た凪は、一瞬それが壊れたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。なぜなら、ものすごくお腹が減っている。
ぐぎゅるるる、と盛大に自己主張する胃を押さえつつ食堂へ向かった凪は、そこで元気いっぱいの声を掛けられた。
「おはよう、ルジェンダ王国の聖女! 今朝はとてもいい天気だな。昨日はとんだ醜態を見せてしまったが、改めてよろしく頼むぞ。妾のことは、気軽にニアとでも呼ぶがいい!」
「あ……おはよう、ございます。ええと、ニアさん。わたしのことは、ナギと呼んでください」
ぼーっと寝ぼけたまま挨拶を返した凪に、エステファニアが重ねて言う。
「ニア、だぞ? ナギ」
「ニア」
エステファニアは、なかなかフレンドリーな性格のようだ。コミュニケーション能力高いなー、と感心した凪は、そこでこてんと首を傾げた。
「いっぱい食べる、きみが好き……?」
思わずそう呟いてしまったのは、ほかでもない。にこにこと笑いながら丸テーブルに着いている黒髪の少女――スパーダ王国の聖女であるエステファニアの前には、たっぷりのメープルシロップと生クリームを添えた三枚重ねのフレンチトーストに、特大のスープカップで湯気を立てるミネストローネ。そして色とりどりのサラダと巨大なウインナーソーセージが二本、スクランブルエッグの載った厚切りベーコンに加え、フルーツヨーグルトにカフェオレという、大変ボリューム満点のメニューが並んでいたのである。
そんな彼女の向かいで、同じく朝食を取ろうとしていたらしいイザークの前にも似たようなボリューム感のメニューが並んでいる。その美味しそうな品々の前でイザークは、直立不動の姿勢で敬礼していた。
一瞬、なんでやねんと素でツッコみそうになってしまったけれど、彼にとっての凪は未公表ながら魔獣のお墨付きをもらった聖女であり、同時に職場の上司の可愛い姪っ子なのである。イザークがかしこまった対応になっても、仕方がないのかもしれない。
凪は彼に向けて、にこりと笑った。
「おはようございます、イザークさん。昨日、ザイン伯父さまにもお願いしたのですけど、人目がないところだけで結構ですので、わたしのことはナギと呼んでいただけますか?」
「おはようございます、ルジェンダ王国の聖女。大変申し訳ありませんが、その件については団長に確認の上、改めてお返事させてくださいませ」
思いきり引きつった顔で答えたイザークに、エステファニアが呆れかえった顔で言う。
「相変わらず、頭の固いやつだな。本人がそうしてくれと言っておるのだから、臨機応変に対応すればよいではないか」
「……エステファニアさま。うちの団長は、捨て犬を見つけるとつい拾ってしまうタイプなんです」
「む?」
唐突な話題変換に、エステファニアがきょとんと瞬く。
「大抵は里親を探して引き取ってもらうのですが、三年ほど前にやたらと団長に懐いて離れなくなった仔犬がおりまして。団長は、その仔犬をご自分で引き取って、今も大層可愛がっているのです」
「ほほう」
(ザイン伯父さま……なんていい人なの……!?)
凪の伯父は、犬派であるらしい。彼女の中で、ザインに対する好感度が一気に上がった。
「普通に大型犬の仔犬だと思って育てていたら、やたらと大きくなったので調べてみたところ、実は狼との混血種だったというオチがつくのですが。まあ、それは置いておくとしましょう」
「それは、狼犬というやつか?」
(……え。狼犬って、その辺に捨てられていていいものなの?)
犬と狼とは、似て非なるもの。その両者の混血とて、普通の犬とはかなり違う存在であるはずだ。もちろん、きちんと躾をすれば、一般の家庭犬と同じく大切な家族になれるのだろう。だが、それは生半可な覚悟と努力で叶うものではないと聞いたことがある。
カッコいい狼犬に憧れる気持ちはあるけれど、野生化したそれはちょっと――いやかなり怖いぞ、と思っていると、イザークは淡々と話を続けた。
「はい。ちなみにその狼犬の名前は、ファングといいます」
ファング――牙、か。
カッコいい名前だなあ、と思っていると、イザークが小さくため息を吐く。
「ファングは、基本的に団長の命令しか聞かないのですが……。やはり、世話をする人間にはそれなりに懐くものでして。以前、団長が長期任務に行かれた際、自分が世話係を任じられましてね。朝晩の散歩と食餌の世話、歯磨きにブラッシングといったことを毎日しておりましたら、ファングが尻尾を振って自分に寄ってくるようになったのですよ」
「それは可愛いな」
「本当に。わたしも犬が好きなので、羨ましいです」
ほほえましい話を聞いて笑うエステファニアとともにうんうんと頷きながら、凪はひそかに『よっしゃ!』と拳を握りしめる。
(なんという幸運! 将来、わたしがわんこをお迎えすることになったときには、ザイン伯父さまかイザークさんに、お世話の仕方を教えてもらおう!)
思わぬところで、犬飼いの先達をゲットできた。狼犬をきちんと飼育できた実績があるなら、大抵の大型犬は大丈夫なのではなかろうか。腕のいい獣医にもツテがあるかもしれないし、ぜひ詳しい話を聞かせていただきたいものである。
遠く曖昧だった将来の夢が、唐突に現実味を帯びてきた。凪がまだ見ぬもふもふの家族との未来に胸をときめかせていたとき、なぜかイザークが表情を暗くした。
「そうですね。大変、可愛らしかったです。それに、ファングはとても賢い子なものですから、食餌の時間になるとわざわざ呼ばずとも遊び場の森から帰ってきましてね。エサの器を持った自分の周りをぐるぐる回りながら、甘えた声で催促しているところを――ちょうどお帰りになった団長に、目撃されてしまったのです」
「……おお」
エステファニアが、ものすごく複雑そうな顔になる。きっと凪も、同じような顔をしているのだろう。
「よほど、腹が減っていたのでしょうか。ファングは、帰宅した団長に気付くと一度飛びついて顔を軽く舐めたのですが、すぐに自分のほうへ戻って『ゴハンください』と可愛らしくアピールをはじめました」
「それは……何やら、おまえのところの団長が気の毒になってくるな」
はい、とイザークが重々しく頷く。どうやらこの世界でも、『飼い犬が自分以外の人間にあまり懐くと、しょんぼりしてしまう法則』は適用されるらしい。
「そのとき団長は、何もおっしゃらなかったのですが……。いつもなら長期任務のあとには、全力の甘えモードで突撃してくるファングがすぐに離れていってしまったことに、ひどく寂しそうなご様子だったのです。自分は、あのような団長を二度と見たくはありません。ですので、ルジェンダ王国の聖女さまとの交流につきましては、慎重に慎重を重ねて対処したいと思っております」
なるほど、と凪は神妙に応じる。
「ザイン伯父さまより先に、イザークさんとわたしが仲よくなってしまうと、たしかにしょんぼりされてしまうかもしれませんね……」
「ちょっと待たぬか、ナギ。そなた、自分がペットと同列に扱われることに異論はないのか?」
エステファニアが胡乱な眼差しで見つめてくるのを、凪はきょとんと見返した。
「仔犬の頃から、ずっとザイン伯父さまのそばにいる家族のファングと、昨日が初対面のわたしが、同列なわけがないではありませんか」
「ぬ……?」
困惑した様子のエステファニアが、首を傾げる。
「とはいえ、わたしはザイン伯父さまにとっては血の繋がった姪ですし、昨日のご様子からして、今後はきっと可愛がっていただけるのだと思います。ただ、ザイン伯父さまの部下さんであるイザークさんにその先を越されるのは、ちょっと複雑なお気持ちになられてしまうかもしれません。そういうことですよね、イザークさん?」
「その通りです、聖女さま。ご理解いただけまして、大変嬉しく思います」
ひどくほっとした様子のイザークに、凪はにこりと笑いかけた。
「ですが、わたしがこの国の聖女であることを公表するのは、今年の秋頃と予定されているそうです。わたしを聖女と呼ぶのは、それ以後にしていただけませんか?」
「なるほど、了解いたしました。そういうことでしたら、自分はあなたさまのことを当面、シェリンガム男爵令嬢と呼称させていただきますが、よろしいでしょうか?」
生真面目に問いかけられ、この世界に来てはじめての呼称に若干戸惑ったものの、ここが順当な落としどころだろう。
「はい、よろしくお願いいたします。ところで、わたしもこれから朝食を取ろうと思っていたところなのですけれど、ご一緒してもいいでしょうか?」
普段なら、そのとき食堂にいた誰かと一緒にテーブルを囲むのだが、今日はエステファニアという超VIPがいるからなのか、食堂にほかの団員の姿はない。
凪の申し出に、何やら「飼い犬と、聖女が同レベル……ではなく、聖女が飼い犬以下……?」とぶつぶつ呟いていたエステファニアが、ぱっと破顔する。
「もちろんだとも! 妾は、自分以外の聖女と会うのははじめてなのでな! そなたとゆっくり話をしたいと思っていたのだ!」
「わたしもです、ニア。では、すぐに自分の朝食をいただいてまいりますので、どうぞおふたりは先に召し上がっていてくださいね」
そうして、本日の厨房担当の一員だったルカと「おはようございまーす、今日はチーズオムレツでお願いしまー……ああぁああ、昨日は勝手なことをしちゃってごめんなさいぃいいー!」「りょうかーい、チーズオムレツね。うん。昨日は本当に、ものすごくものすごく、ものすごーく心配したから、もう二度とあんなことはしないでね?」という会話を交わしたのち、オムレツにサラダと薄切りトースト、普通サイズのミネストローネに搾りたてのフルーツジュースという朝食の載ったプレートを持って戻ると、エステファニアが驚いた顔をして見つめてきた。
「そなたは随分、小食なのだな?」
「そうですか? むしろわたしは、ニアの細い体のどこにそんなに食べ物が入るんだろうと不思議だったんですが……」
思ったままを素直に言うと、エステファニアはえっへんと胸を張る。
「フィールドワークで魔獣の行動追跡をしていると、食べられるときにしっかり食べておかねば、次はいつ食事ができるかわからなかったのでな! ここの食事は、本当に美味で嬉しいぞ!」
「なるほど、そういうものなんですね。……聖女のお仕事もなかなか大変そうですし、わたしも頑張ってニアのように――」
「お話の途中で申し訳ありません、シェリンガム男爵令嬢。通常の聖女派遣業務では、聖女さまのお食事時間は必ず定時に確保されるものです。あなたさまは、どうぞそのままでいらしてください」
さっそく先輩聖女のエステファニアに倣おうとした凪だったが、どこか青ざめたイザークに止められ、ほっとした。
「そうなんですね。わたしは一度の食事であまりたくさん食べられるほうではないので、よかったです」
何しろこの体は幼少期から、食事のほとんどが総合栄養食だという味のないクッキーもどきと、水だけだったのだ。ありがたいことに、美味しいものを美味しいと感じる味覚はちゃんとあるのだが、胃の小ささはいかんともしがたい。あまり一気に詰めこむと、胃がもたれて気分が悪くなってしまうこともあるし、やはり無理はしないほうがよさそうだ。
それにしても、優雅な手つきでカトラリーを操り、ボリューム満点の食べ物をどんどん口にしていくエステファニアを見ていると、クラスメートのマッスル美少女を思い出す。
(リディアは、ちゃんと食べないとお腹が空いて倒れちゃうこともあるって言ってたっけ。何もしなくても、ゴハンをきちんと食べているだけで極上筋肉が維持される代わりに、ゴハンが足りないと動けなくなる体質ってのも、ちょっと大変そうだよね……)
今日の午前中の授業には体育が予定されているし、お昼にはきっとたくさん食べるんだろうなあと考えていると、エステファニアがふと思い出したように口を開いた。
「ナギ。そういえば、そなたは今この国の魔導学園に、一生徒として通っているのであったな?」
はい、と頷いた凪に、エステファニアは笑って続ける。
「そうか。実は妾も、アシェラ傭兵団で妾の受け入れ体制が整うまでは、この国の魔導学園に、スパーダ王国からの短期留学生という形で厄介になることになったのだ。さすがに聖女の留学は前代未聞らしいが、他国の王族が留学してくることは珍しくないそうだし、イザークも妾の護衛として同伴して構わんと言われたのでな。まあ、短い間のことにはなろうが、よろしく頼むぞ」
「あ、そうなんですね。もしかしたら、わたしと同じクラスだったりするんでしょうか?」
魔導学園の警備システムは、王宮のそれに準じるという。凪同様、聖女であるエステファニアを、ある程度の自由と他者との交流を確保した上で保護するには、やはり魔導学園が最も適当だということか。
おそらくエステファニアは、最初から『妾、聖女ぞ?』という形でやってくるのだろうが、凪と同じクラスにしておいたほうが、面倒ごとの管理は一括でできるはずだ。
しかし、エステファニアは首を傾げる。
「どうだろう? 妾は今十七才ゆえ、普通ならばそなたとは違う学年になるのではないかな」
「聖女さまが留学してくるというのは、まったく普通のことではないので、その辺はあまり気にしなくてもいいと思います」
それもそうか、と笑い合うエステファニアと凪は、気付いていなかった。
黙々と食事を口に運ぶイザークが、今後の任務に対する不安で「胃が痛い……でも、ここの食事めっちゃうま……」と、ものすごく複雑な気分になっていたことを。そして、そんな彼の様子を厨房から眺めていた魔導騎士団の団員たちが、憐憫の眼差しとともに「がんばれー」「陰ながら応援してますよー」と、心からのエールを送っていたことを。
「スパーダ王国の魔導学園は、どんなところなんですか?」
「さてな。話を聞いた限りでは、この国の魔導学園のシステムとそう変わらんと思うが……。妾は、学問といえば家庭教師から学ぶばかりだったから、残念ながらよく知らんのだ。だが学園というのは、同じ年頃の子どもたちが大勢集っているのだろう? 何やら、緊張してしまうな」
そして、これからの学園生活に胸をときめかせているエステファニアを見ながら、イザークが「危険な魔獣の群れを前にしたときにも、少しは緊張してくれたらいいのに……」とぼやいていたことにも、ふたりの聖女はまったく気が付いていなかったのだった。




