衝撃的な記録映像
イグナーツが、目を丸くする。しゃがんだまま凪を見上げ、ぽつりと言う。
「……せいじょ?」
「えっと、うん。わたし、ルジェンダ王国の聖女なんだ」
うふふー、と凪はイグナーツに笑ってみせた。
「お嫁さんと妹が揃って聖女だなんて、びっくりだね?」
「……びっくりだな」
ありがたいことに、ウィルヘルミナのお陰でイグナーツは正気に戻ったようだ。
しかし、まだどこかふわふわした様子であるため、油断はできない。
凪はイグナーツの前に膝をついて、ここぞとばかりにあざとく幼い仕草で小首を傾げた。
「でも今は、ちょっと忙しいから。あとで、ゆっくりお話ししよう? イグナーツお兄ちゃん」
「わかった、先にするべきことはしちゃわないとな。――おまえがルジェンダ王国の聖女ってことなら、おまえの護衛はそちらの方々にお任せするが、何かあったらすぐに呼べよ? 俺は、嫁と妹を同時に守れないような甲斐性なしじゃないからな」
(よし、勝った!)
どうやらイグナーツにも、『可愛い妹のおねだり』は有効だったようだ。
ほっとした凪は、にこにこと笑って答える。
「うん、知ってる。でも、わたしは大丈夫だから。ディアナさまのこと、絶対に守ってあげてね」
「当然だ。俺の世界一可愛くて尊くてエクセレントな嫁を傷つけるような輩には、この世に存在する価値なんてないんだぞ。きっちりぷっちりツブしてやるわ」
真顔である。
どうやらイグナーツは、順調に嫁に対する愛も拗らせているようだ。
彼ならば、間違いなく有言実行できるとわかっているだけに、まったくもってシャレにならない。
とはいえ、ディアナが嬉しそうに頬を染めているから、外野が何か言うことではないのだろう。
すっくと立ち上がったイグナーツに手を引かれ、立ち上がる。
「それじゃあ、本当に本当に、気をつけろよ? おまえはまだ十五歳の子どもなんだからな。本当なら、こんな危険なことなんてしなくていいんだから。少しでもイヤなこととか怖いことがあったら、すぐに周りの人に言うんだぞ?」
「だ、大丈夫だよー」
イグナーツの過保護ぶりは、ひょっとしたらライニールのそれに匹敵するのではなかろうか。
この世界の兄属性は、もしかしたら凪が知っているものよりも遙かに濃いのかもしれない。
若干引き気味にそんなことを考えていると、馴染んだ手の感覚に肩を引かれた。シークヴァルトだ。
「失礼、イグナーツどの。私は聖女ナギの護衛騎士、シークヴァルト・ハウエルと申します。彼女の安全については、私が責任を持って確保いたしますので、どうぞご安心くださいませ」
妙ににこやかに言う彼を、イグナーツが少し驚いた顔をしてまじまじと見つめる。
そして、ほっとした顔をして頷いた。
「そうでしたか。私が言うことではないかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。――ナギ、シークヴァルトどのの言うことを、よく聞くんだぞ?」
「うん!」
なんだかよくわからないけれど、イグナーツの凪に対する過保護度が少し下がった感じがして、ほっとする。
正直、自分に対する兄属性は、ライニールだけでいっぱいいっぱいなのだ。イグナーツには、ぜひともディアナのことだけに集中していていただきたい。
ものすごく微妙な空気になった中、慌ただしく向かった先には、現在凪に対する過保護な保護者代表であるライニールがいた。
こちらに気付いた彼が、柔らかな笑みを浮かべる。
マクファーレン公爵家の島流し計画から続く立て直し業務の最中、こんなことになってきっと疲れ切っているのだろうに、まるでそんな様子を感じさせない。
「ありがとう、ナギ。よく来てくれたね。さっそくだけど、前回のときと同じように進めてもらってもいいかな?」
「はい!」
魔力の灯りに照らされたそこは、静かな湖の畔だった。
どこまでも静謐な夜の闇の中、幻想的な光に包まれてほほえむライニールの姿は、一幅の絵画のように美しい。
(……うん。兄さんの足下に、うにょんうにょんと黒いチンアナゴが飛び出す不気味な水まんじゅうがなければ、完璧だったね!)
ものすごく残念な気分になったけれど、この作業はすでに経験済みである。
『キレイになーれ』の聖呪でチンアナゴを黙らせ、その後黙々と触っていくという過程を繰り返していけば、数十個もあった魔導鉱石はすべて正常化することができた。
それにしても、と凪は思う。
(フレイムドラゴンさんをおかしくさせた男の人と、この魔導鉱石は別口だったのかな? フレイムドラゴンさんの巣の近くにも、これと同じ魔導鉱石があったみたいだし……。ひょっとして、フレイムドラゴンさんの守りの魔術が強すぎて、この魔導鉱石じゃおかしくさせられなかったから、わざわざ直接来たってことだったり?)
シークヴァルト曰く、『枯れきった』『じじくさい』犯人があれほど険しい山の奥に足を運ぶなど、よほどあの場でスタンピードを起こしたかったのだろう。
――フレイムドラゴンは、本当に大きな魔獣だった。
もしあの巨体を中心としたスタンピードがこの国を蹂躙していたなら、想像を絶する被害が広がっていたに違いない。
今更ながら、心底ぞっとした凪に、魔導鉱石の状態確認を終えたライニールが声を掛けてきた。
「お疲れさま、ナギ。それじゃあ、きみは先に戻って――」
そのときライニールに抱きついたのは、疲れ切っている彼に無理矢理にでも治癒魔術をかけてしまいたかったからだ。
ただ――当面、自分のすべきことがなくなって、この国にすさまじい被害をもたらした者たちの存在を改めて思い出し、急にものすごく怖くて不安になったのも、本当で。
「……ナギ」
柔らかく抱き返してくれた兄の手が、とんとんと優しく背中を叩いてくれる。
「ありがとう。……大丈夫だよ。もう、何も怖いことはないからね」
「……うん」
今、世界で一番自分のことを愛してくれていると、無条件に信じられる人。
けれどきっと、イグナーツがディアナを選んだように、ライニールも凪以上に大切な誰かを選ぶ日がくるのだろう。
それはとても喜ぶべきことなのに、想像するだけで少し寂しい。
(うー……。自分がブラコン気質なことは、充分自覚してるんだけどさ)
こうしてライニールにくっついているだけで、不安や恐怖といったマイナスの感情が消えていくのがわかる。
それはシークヴァルトでも同じといえば同じなのだが、不用意に彼にくっつくと、恋する乙女の心臓が全力で暴れ出してしまう。
やはり癒しという点では、ノーダメージで非常に高い効果を得られるライニールが一番だ。
その事実をしみじみと再確認した凪は、思う存分ライニール成分を補充してから、ゆっくりと腕を離した。
「兄さん。あんまり、無理はしないでね」
「わかってる。大丈夫、きみに叱られるようなことはしないよ。――シークヴァルト、ナギを頼む」
「ああ」
ライニールに促されたシークヴァルトが、当然のように抱き上げてくる。……以前、東の砦で少しはこの運搬スタイルにも慣れたと思ったのだが、少し時間が空けばそんなものは簡単にリセットされてしまうらしい。
(ぎゃ……逆に考えよう、わたし! これはつまり、シークヴァルトさんの抱っこに、心臓がばくばくする余裕があるってことだよ! 東の砦のときより、少しは成長を――うん、全然している感じがしないよね!)
自分でもわけのわからないことを考えているうちに、視界が変わる。そこはルジェンダ王国魔導騎士団の本部である、レディントン・コートだった。
談話室のスクリーンでミロスラヴァ王国の状況を見ていたらしいソレイユとセイアッドが、こちらに気付いて勢いよく立ち上がる。
「ナギちゃん! シークヴァルトさんも、お疲れさまです!」
「お疲れさまです。ナギが戻ったということは、そちらの状況はすべて落ち着いたということですか?」
セイアッドの問いかけに、シークヴァルトが頷く。
「まあ、大体な。とはいえ、後始末はまだまだ残っているが……。こちらは、何も問題はなかったか?」
そのとき、ソレイユとセイアッドが揃ってものすごく微妙な顔をした。
凪は、首を傾げてふたりに問う。
「何かあったの?」
ソレイユが、半笑いで答える。
「えぇと……いろいろあったといえば、あったんだけど。――シークヴァルトさん。今、お時間大丈夫ですか?」
「ああ……?」
訝しげなシークヴァルトに、ふたりが揃って気遣う目を向けたあと、セイアッドがスクリーンの操作パネルに指を滑らせた。
「これは先ほど、レングラー帝国の聖女さまが、ミロスラヴァ王国の王太子殿下に呼びかけられたときの映像です。その……特に、シークヴァルトさん。どうか、ものすごくしっかりと心の準備をしたうえで、ご覧ください」
――ほんの数分の記録映像。
だが、それがシークヴァルトに与えた衝撃は、とてつもないものだったようだ。
映像が切れ、スクリーンに映るものがミロスラヴァ王国の地図に戻っても、彼はしばらくの間瞬きもせずに固まっていた。
十五歳組の少年少女が息を詰めて見守る中、ようやく油の切れた機械のような動きでシークヴァルトが振り返る。
そして彼は、困惑しきった顔で素朴な疑問を口にした。
「アレ……誰?」
――なんということだろう。
十二歳の聖女に振り回されるレングラー帝国の皇帝陛下を、彼は自身の実兄であると認識できなかったらしい。




