フレイムドラゴンの解放
大陸の南東に位置するミロスラヴァ王国には、大陸で最も標高が高いことで知られているラウリ山がある。
古くは、決して人が足を踏み入れること叶わぬ神域と言われていたその山頂が、アースドラゴンの番であるフレイムドラゴンの住処だった。
雪豹の姿をしたアースドラゴンに導かれ、そこを訪れたシークヴァルトたちが目にしたのは、純白の万年雪に覆われた斜面を埋め尽くす、一面の黒。
けたたましい獣の咆哮と、無軌道に放たれる歪んだ魔力。
先ほど制圧した市街地のスタンピードよりも、遙かに大規模な魔獣たちの暴走に、同行していたルジェンダ王国魔導騎士団第二部隊の隊長、エルウィン・フレッカーが舌打ちする。
彼は、愛用の魔導武器を起動させながらシークヴァルトに言った。
「シークヴァルト。俺たちは、麓のほうで魔獣たちと交戦しているミロスラヴァ戦力の援護に入る。親玉のほうは、おまえたちでどうにかしてくれ」
「了解」
第二部隊の面々が、あっという間に飛び去っていく。
オスワルドを介して入ってきている情報によれば、現在ミロスラヴァ王国の第八魔導騎士団が、人口密集地へのスタンピード侵攻を防ぐため交戦中とのことだ。
エルウィンがそちらの援護へ向かうことを迷わず選択できたのは、彼らがナギの護衛騎士であるシークヴァルトを信頼しているから、というだけではないだろう。
「にゃああぁあああ!?」
――この場に到着した直後から、ナギが騎乗したアースドラゴンが、その口からすさまじい衝撃波を放つたび、それを受けた魔獣たちがみるみるうちに正常化していっているのである。
正常化と同時に、みな気絶している様子なのが少々気がかりではあるけれど、再び暴走に加わる気配がないのはありがたいことだ。
ナギがその迫力に若干パニックになっているものの、雪豹の頭をべしべしと叩く余裕はあるようなので、おそらく大丈夫だろう。たぶんきっと。
「アースドラゴンさん! アースドラゴンさん! 気持ちはわかるけど、ちょっと落ち着いてー! 番さん! あなたの番さんのところに行くんじゃないのー!?」
「そっちこそ落ち着きなさい、小娘聖女。このスタンピードの中心は、アイツだもの。アイツとの繋がりを一時的にでも分断してやれば、人間の街のほうへ広がっている群れの勢いは、だいぶ弱まるはずよ」
へ、とナギが目を丸くする。
「つ、番さんより……人間の街のことを、考えてくれたの?」
「違うわ。アタシはただアイツに、あまり人間を殺させたくないだけ」
さらりと応じたアースドラゴンが、そこで何かに気付いたように顔を上げた。丸い耳が、ぴっと動く。
「……来たわ」
その言葉が終わるか否か、というタイミングで、斜面の向こうから現れたもの。
山の稜線が変わるほどの巨体と、禍々しく歪んだ魔力。
以前、ルバルカバ砂漠で見たアースドラゴンの本体よりも、わずかに大きいだろうか。
体のあちこちから黒い炎のように吹き上がる歪んだ魔力のせいで、その輪郭すら曖昧だ。
魔導武器を起動したシークヴァルトは、アースドラゴンに問うた。
「あの肉体、破壊して構わないか?」
「ええ。お願い」
ひどく静かに答えたアースドラゴンは、フレイムドラゴンが現れたときから、ただひたすらにその姿を見つめている。
魔獣たちの番に対する執着が、人間の夫婦関係における愛情と同じものなのかはわからない。
ただ、アースドラゴンは自らの番を救うために、聖女であるナギを頼った。
そこにあるのは、誇り高い大型魔獣が、『小さき存在』である人間に救いを求めることを迷わないほどの、強い想いだ。
シークヴァルトは、魔導武器をフレイムドラゴンに向けた。
「ナギ。目を閉じていろ」
「ハイ!」
素直に応じたナギが、雪豹の毛を掴んでいる手に額を当てるようにして丸くなる。
(……は?)
世に言う『ごめん寝』ポーズの可愛らしさに、一瞬シークヴァルトの魔力が乱れた。
アースドラゴンの耳が、ぴっとこちらを向く。まずい。
ひとつ深呼吸をして気を取り直したシークヴァルトは、改めてフレイムドラゴンに狙いを定める。
……今まで相手にしてきたどの魔獣よりも、大きく強い。
最強種であるドラゴンの中でも、おそらくかなりの上位にある個体だろう。
本来であれば、美しい朱金の鱗と黄金の角や爪で見る者を魅了するはずの魔獣が、こんなにもどす黒く歪んだ姿になっていることが哀れだと思う。
――固定した対象の魔力の流れから、その核の在処を算出。
決して核を傷つけないよう、しかし肉体は核を露出できるレベルまで破壊するために必要な魔力量と弾道を割り出すために、刻々と変化する対象の状態に合わせ、何度も演算を繰り返す。
(これは……キツい、な)
もしかしたら、この近くに融解寸前の魔導鉱石があるのだろうか。
先ほどからどれだけ演算を繰り返しても、次の瞬間には対象の数値が乱高下するため、なかなか弾道計算が定まらない。
対象をただ破壊するだけならば話は簡単なのだが、核を傷つけてはいけないという条件がある以上、下手を打つわけにはいかないのだ。
シークヴァルトの額に汗が滲みはじめたとき、通信魔導具にライニールの声が届く。
『聞こえるか、シークヴァルト! フレイムドラゴンを凶暴化させたと思われる魔導鉱石を確認! 防御フィールドによる封印の完了まで、あと五秒!』
「了解……!」
五秒後、フレイムドラゴンの魔力の揺らぎが、急激に鈍化した。
素早く再演算をしたシークヴァルトは、対象の魔力が再び変化する前に引き金を引く。
フレイムドラゴンの周囲を覆い尽くすように展開した魔導陣が一斉に輝き、巨大な肉体が爆散した。
完全に破壊された番の肉体を見ても、アースドラゴンは微動だにしない。宣言通り、強固な防御フィールドでナギと自身を守りながら、ただじっと目の前の光景を見つめている。
そんな魔獣の姿を横目に見ながら、シークヴァルトはフレイムドラゴンの核の反応がある場所に降り立った。焼け焦げた肉片に埋もれている漆黒の球体が、僅かも傷ついていないことにほっとする。
フレイムドラゴンの命そのものであるその核を拾い上げ、ナギの元へ届けようとしたときだ。
(え……?)
突然、脳裏に浮かんだ映像。
黒髪に金色の瞳の――若い、男。
(誰、だ……?)
レングラー帝室の特徴である、黒い髪と金色の瞳。
しかし、シークヴァルトはこの人物の姿を見たことがない。
これといった特徴のない、ごくありふれたシンプルな服装をしている。
その顔立ちは実兄のクロヴィスによく似ているけれど、まとう雰囲気がまるで違う。
クロヴィスはシークヴァルトの知る限り、非常に苛烈で繊細な人物だった。
ときに自身の激情に流されやすく、また周囲からの影響を受けやすい。
ある意味とてもわかりやすい、素直で幼いところのある人間だ。
だがこの青年の、男というには美麗過ぎる顔に浮かんでいるのは、まるでこの世のすべてに倦んだ老人のような、重く気だるげな表情。
ひどく億劫そうに、口を開く。
――浅薄。卑劣。姑息。無知。無能。愚かしさもここまで極まれば、いっそすがすがしいか。
――まあ、いい。
――しょせん、すべては暇つぶしだ。
冷めきった声でそう言った青年が、ゆるりと右手を持ち上げるのと同時に、金色だった瞳が鮮やかな紅蓮に染まる。
その直後、すべてが真っ黒に塗りつぶされ――。
「……っ」
衝撃に、意識が揺らぐ。
辛うじて片膝をついて堪えたものの、ひどい目眩に襲われ、胃を直接殴られたような吐き気を覚える。
頭が割れるように痛んで、まるで思考がまとまらない。
「シークヴァルトさん!? やだ、アースドラゴンさん、シークヴァルトさんのところに行って!」
少女のひどく焦った高い声。
柔らかな光。
甘い匂い。
一瞬で冷え切っていた体に感じる熱が、全身でぶつかるように抱きついてきた少女の体温だと認識するのと同時に、呼吸が楽になっていくのがわかる。
治癒魔術か。
否、違う。
これは――。
「だ……大丈、夫?」
「ナ、ギ……」
自分のものとは思えないほど掠れた声に、ナギが再び震える腕でしがみついてくる。
「い……いきなり、汚染痕が、ぶわって……び、びっくり、した……」
「汚染痕……」
ようやく、頭が動きはじめる。
(なんで、だ……?)
たとえフレイムドラゴンが狂化魔獣となっていたのだとしても、シークヴァルトはその攻撃を受けたわけではない。先ほど、同じように凶暴化していたリンドブルムの核に触れたときだって、なんの影響も感じなかった。
なのに、フレイムドラゴンの核に触れた途端、ナギが一瞬で汚染痕だと判断できるほどの異常が、自分の身に起きたという。
それに――あの白昼夢は、いったいなんだ。
呆然としているシークヴァルトからおそるおそる離れたナギが、キッと眉根を寄せて振り返る。そして止める間もなく、すぐそばに転がっていたフレイムドラゴンの核を左手で引き寄せるなり、勢いよく右手を叩きつけた。
「ちょっとあなた! シークヴァルトさんに、何してくれてやがりますの!? そりゃあ、体をぐっちゃぐちゃの挽き肉状態にされたのは、ものすごく痛かったかもしれないけども! あなたを助けるためには仕方ないことだったって、わかってるよね!?」
べしべしべしべし、と核を叩きまくるナギは、相当にお冠のようだ。
彼女の細いウエストに長い尻尾を巻き付けたままのアースドラゴンが、なんとも言い難い表情でその様子を見守っている。
「恩を仇で返すとは、まさにこのことです! 怒ってますよ、わたし! ものすごく怒ってますからね! さっさと正気に返って、シークヴァルトさんにごめんなさいするまで、絶対、絶対許しませんから!」
ナギが大声で怒鳴りながらビシバシと叩き続けている間に、漆黒だったフレイムドラゴンの核が、見る間に鮮やかな朱金に変わっていく。
スタンピードの発生点が人里離れた山岳部だったこともあり、人的被害がほとんどなかったからだろうか。リンドブルムのときよりも、遙かに短時間で一点の曇りもなくなった核が、ふわりと浮かぶ。
その直後、目の前に現れたのは一頭の雪豹。
アースドラゴンが変じたものより、少し大きい。
銀色の瞳でナギを見つめた雪豹が、口を開く。
「金の聖女よ。我は――」
「ごめんなさいはっ!?」
何か言いかけたフレイムドラゴンを、肩を怒らせたナギがぶった切る。
一瞬の沈黙のあと、銀色の瞳がシークヴァルトを見た。
「……金の聖女の守護者よ。我が不甲斐なかったせいで、そなたに多大な迷惑を掛けたようだ。申し訳ない」
「ああ……いや、その。こちらこそ」
実際のところ、おそらく先ほどの現象は、フレイムドラゴンの意思によるものではない。フレイムドラゴンに詫びてもらう理由はないのだが、ナギの盛大なキレっぷりを見て、オトナの対応をしてくれているのだろう。なんだか、逆に申し訳ない。
フレイムドラゴンは、アースドラゴンに視線を向けた。
「すまない。心配をかけたな」
「別に。アナタが死んだら、アタシも追いかけていくだけだもの」
あっさりと応じたアースドラゴンが、フレイムドラゴンの首に自分の首を擦り付ける。
「時間がないから、アタシがアナタの眷属を鎮めるわ。いい?」
「ああ。頼む」
「うひゃあ!?」
アースドラゴンの尻尾に引き寄せられたナギが、慌てて柔らかな毛並みにしがみつく。
その目をシークヴァルトが塞ぐのと同時に、周囲に膨大な魔力が溢れた。
ほんの、一瞬。
寸前まで歪んだ魔力の満ちていた大気が澄み渡り、黒い姿で蠢いていた魔獣たちが元の色彩を取り戻し、停止する。
その様子を確認したシークヴァルトは、通信魔導具を取り出してルジェンダ王国の回線に繋いだ。
「こちら、シークヴァルト・ハウエル。フレイムドラゴンの正常化に成功。山岳部のスタンピードは完全に収束した」
『――了解。現在、エステファニアさまにより海岸部のスタンピードが収束。残り二カ所のスタンピードも、ウィルヘルミナさま、ディアナさまが対応中。間もなく、すべてのスタンピードが完全収束の見込み。シークヴァルト・ハウエルは、ナギさまとともに帰投せよ』
全体の指揮を執っているオスワルドの言葉に、ほっとする。
「了解。これより、ナギとともに帰投する。――ナギ、おまえの仕事は済んだか、ら……?」
通信を切り、ナギのほうを見たシークヴァルトは、そこに思いきり全身の毛を膨らませているフレイムドラゴンを見つけ、困惑した。
雪豹の姿をしたフレイムドラゴンが、同じ姿をした番に対し、銀色の瞳を爛々と輝かせて睨みつけながら、低い唸り声を上げているのだ。
(えー……。なんで自分を助けにきた番に、こんな超絶お怒りモード?)
その様子に、同じように驚いて硬直していたらしいナギが、シークヴァルトの背後にそそっと隠れながら言う。
「えっと……。アースドラゴンさんが、さっきリンドブルムさんの核を丸呑みしてたでしょ? それに気付いたフレイムドラゴンさんが、めちゃくちゃ怒っちゃって。今すぐ吐き出せって言うんだけど、そうしたらこの辺にいる魔獣さんたちが、リンドブルムさんに魔力を吸い取られて死んじゃうかもだし……」
「……なるほど」
痴話喧嘩か。
シークヴァルトがまったりとした気分になって二頭を見つめていると、アースドラゴンがフン、と鼻を鳴らした。
「言っておくけど、その小さな体を維持するのが精一杯の今のアナタじゃ、リンドブルムを踏み潰すなんてできないんだからね。あとでちゃんとコイツの住処に置いてくるから、少しの間くらい我慢なさいよ」
「いやだ。今すぐ捨ててこい!」
物騒な唸り声まじりにそう言うフレイムドラゴンは、どうやらかなり嫉妬深い個体らしい。
まったく引く様子のない番に諦めたのか、アースドラゴンがため息を吐く。
ナギと同じブルーグリーンの瞳が、こちらを見た。
「悪いけど、ちょっと待っていてくれる? リンドブルムを、住処の谷に置いてくるわ」
「あ……うん。いってらっしゃい」
ナギがぎこちなく片手を上げるのと同時に、アースドラゴンが姿を消す。
それまで全身の毛を逆立てていたフレイムドラゴンが、しぼんだ。
ナギがぼそりと、「洗ったら、もっとしぼむのかな」と呟いたのは、とりあえず聞かなかったことにする。
一呼吸おいて、フレイムドラゴンの銀色の瞳が、シークヴァルトを見た。
「……金の聖女の守護者。先ほどそなたは、我の記憶に同調したな。そなたの魔力が我と同じく乱されたのは、そのせいだろう」
(え?)
息を呑んだシークヴァルトに、フレイムドラゴンは淡々と問う。
「そなたと同じ髪と目をしたアレは、いったいなんだ。ヒトの姿をしていながら、ヒトの理から外れたモノ。我の守りの魔術を破り、我の魔力を乱れさせ、浅ましき姿に堕としたモノ。そなたによく似た姿と魔力を持つアレは、いったいそなたのなんなのだ?」
――つい先ほど見た白昼夢を、思い出す。
あれが、フレイムドラゴンの記憶だというのなら。
「……フレイムドラゴンどの。貴殿は、融解寸前の魔導鉱石のせいで、その身の魔力を狂わされたわけではないのか?」
「融解寸前の……? ああ、何やら怪しげな人間たちが、我の住処の近くに置いていったものか? 我の守りの魔術は、あのようなものの影響を通すほど脆弱ではないぞ」
フレイムドラゴンがそう言ったとき、その隣にふわりとアースドラゴンが現れた。もう、リンドブルムの核をその住処へ置いてきたのか。仕事が早い。
ブルーグリーンの瞳をした雪豹が、意外そうな声で口を開く。
「アナタ、寝ぼけて守りの魔術を展開し損ねていたわけじゃなかったの?」
「……おまえは、俺をなんだと思っているんだ。そんなことをしたら、休眠期の間中、ずっと無防備な状態で転がる羽目になるだろうが」
フレイムドラゴンの一人称と口調は、番に対しては随分ラフになるようだ。
そうよねえ、とアースドラゴンが頷く。
「でもアナタって、ときどきそういう壮大なボケをかますところがあるから……」
「命が懸かっているときにまで、そんな間抜けを晒してたまるか!」
仲がよいのは大変結構なことだが、今はドラゴン同士の口喧嘩を見物している場合ではない。
シークヴァルトは、空転しそうになる頭をどうにか動かしながら、片手を上げる。
「その……フレイムドラゴンどの。残念ながら、オレも貴殿の記憶に見た男については、何も知らない。だが、あの男が貴殿の魔力を乱し、この地にスタンピードを起こさせたというのなら――」
それは、ヒトの姿をした災厄だ。




