スパーダ王国の聖女さまと幸運のシンボル
スパーダ王国の聖女エステファニア・ナダルは、自他ともに認める魔獣オタクだ。
魔獣たちの姿の美しさも、震えが来るほどの力強さも、その誇り高い生き様も、知れば知るほど胸をときめかせてくれた。
そんな彼女にとって、魔獣たちを理不尽な凶行に走らせるスタンピードは、この世で最も許しがたい事象である。
「イザーク! オスワルド殿下からは、まだ出撃の指示が来ないのか!?」
ミロスラヴァ王国で最初のスタンピードが発生してから、すでに数時間が経過している。
各地に配置されたアシェラ傭兵団の団員たちを通じて入ってくる情報は、どれも悲惨な状況を伝えるものばかりだ。
――ここ半年あまり、エステファニアは祖国で数多くの地脈の乱れに対応してきた。
しかし、スパーダ王国は元々地脈の乱れが発生しにくい土地であることもあってか、スタンピードは一度も経験したことがない。
もちろん、その恐ろしさについて話には聞いたことがあったけれど、聞くと見るとでは大違い、とはよく言ったものだ。
両手をきつく握りしめて震える彼女に、専属護衛のイザークが静かな声を掛けてくる。
「落ち着いてください、エステファニアさま。お気持ちはよくわかりますが、オスワルド殿下は現在、トゥイマラ王国の聖女、所属国なき聖女との交渉中です。あなたおひとりが無策のままに突っ走っても、この国全土を覆い尽くそうとしているスタンピードに対処するのは、不可能です」
「そんなことは、わかっている……!」
頭では、わかっている。わかっているのだ。
自分ひとりの力では、目の前で広がっている災厄に対して、ろくな働きをできないことくらい。
ミロスラヴァ王国への入国許可がないまま、専属護衛のイザークを脅すようにしてやってきたのは、スタンピードに蹂躙されている市街地を見下ろす山の中腹。
すでにアシェラ傭兵団が仮設の観測地点として陣を張っていたそこで、エステファニアは生まれてはじめてスタンピードによる災厄を見た。
もちろん、現場からは距離がありすぎて、その詳細を把握することはとてもできない。それでも、かつて大勢の人々が暮らしていたであろう場所が、黒く染まった魔獣たちに踏み潰されていく様は、凄惨の一言に尽きる。
(どうして、こんな……っ)
強く美しく、溢れるほどの気高さでエステファニアを魅了してきた魔獣たちが、おぞましい黒と赤だけの歪んだ姿となって、ありとあらゆるものを踏み潰していく。
彼らの体が放つ乱れた魔力は、まるで互いに共鳴し合っているかのように増幅し、大地を穢して、すべての命を拒絶する。
人が、死んでいく。
エステファニアが何もできないでいる間に、数え切れないほど多くの命が、魔獣たちの暴走に巻きこまれ、すべてを奪われて消えていく。
「……エステファニアさま。一度、テントにお戻りください。おそらく、これからかなりの長丁場になることが予想されます。この国の人々と魔獣たちをお救いになるためにも、できるだけ体力を温存しておくべきです」
イザークにハンカチを差し出されながらそんなことを言われ、エステファニアは自分が泣いていることにはじめて気付いた。
怖いのか。悔しいのか。悲しいのか。その、すべてか。
今まで生きてきて、こんなにも身を切られるような思いをしたことなんてない。
豪放磊落な王兄の一人娘として生まれたエステファニアは、スパーダ王宮の誰もから大切に愛されて育った。
聖女と認定されてからは、その威光を利用しようとする輩が現れたこともあったけれど、にっこり笑った母が父に「どうにかしてくださいませ」と言うだけで、面倒ごとはすべてきれいに消えていたのだ。
甘やかされて、愛されて。
王家の血を引く者として、それなりにさまざまな努力はしてきたつもりだけれど、苦労らしい苦労などした記憶はない。
そんな自分に、これほどの凄まじい災厄を鎮めることなどできるのか――。
(……違う、だろう)
ぐっと、両手を握りしめる。
オスワルドの指示が出る前に、こうしてミロスラヴァ王国にやってきたのは、エステファニアのわがままだ。
周囲の誰もが止める中、いてもたってもいられずに自分の意思でここに来た。
なのに今更、臆病風に吹かれるのは、絶対に違う。
スパーダ王国の聖女を名乗る以上、その誇りにかけて、こんなところで泣き言をこぼすなど許されるわけがない。
エステファニアは、イザークから受け取ったハンカチで、勢いよく顔を拭った。
涙が止まったことにほっとしながら、顔を上げる。
「すまん、イザーク。少々、取り乱してしまった」
「はい。今回のスタンピードは、あまりに異常です。つい先日まで聖女さまが暮らしていらした土地で、同時多発的にスタンピードが発生するなど――」
眉根を寄せて言いかけたイザークが、ぱっとイヤーカフ型の通信魔導具に触れた。
「了解です。――エステファニアさま。オスワルド殿下より、出撃許可が出ました」
「そうか!」
恐ろしいという気持ちが、ないわけではない。
だが、エステファニアはたとえどんなことがあったとしても、イザークならば必ずどうにかしてくれると知っている。
ずっとそうだった。
美しい魔獣たちに会いたくて、少しでも近くで見てみたくて無茶ばかりするエステファニアに、イザークはこれまで擦り傷ひとつ負わせることはなかったのだ。
彼の言うことを聞いている限り、何も怖れることはない。
「エステファニアさま」
そのイザークが、真剣な眼差しで見つめてくる。
「参りましょう」
「ああ」
エステファニアは、差し出されたイザークの手を掴み、目を閉じた。
今回の現場は、あまりにむごたらしい状況であることが予測されるため、彼の許可がない限り目を開くことを許されていない。
――空気が、変わる。
転移先がどんな場所であるのか、エステファニアは知らない。
ただ、肌を突き刺すようなビリビリとした空気が感じられる。
思わず息を呑んだ彼女の耳に、低く落ち着いたイザークの声が届く。
「お願いいたします、エステファニアさま」
怖くない。
ただ、信じて歌うだけ。
自分を守ってくれるイザークを。アシェラ傭兵団の人々を。
そして、今まで聖女として歌ってきた自分自身を。
どうかこの土地に、温かく優しい日常が戻ってくるように――。
春の日差し 風に舞う鳥の羽
少しだけ眩しい 旅立ちの思い出
地図を広げて ランプを持って
未来への扉を開く鍵は いつだってきみの手の中に
歩きだそう 野に咲く花に挨拶をして
拾った枝は きっと夢への道しるべ
疲れたときには 一休みして
お日さまのようなきみの笑顔は いつだって幸せをくれるから
忘れないよ きみが光をくれたこと
ずっと 追いかけてばかりいたけれど
今はきみの隣で 手を繋いで
巡りゆく季節の中を これからも一緒に歩いていくんだ
もしこのとき、エステファニアが目を開いていたなら、彼女の護衛を担うイザーク以外のアシェラ傭兵団の団員たちが揃って愕然とするという、なかなか珍しい光景を見られただろう。
中でも、団長として最も多くの経験と知識を持つザインが、ひとつ息を吐いて感嘆の声を零す。
「これは……素晴らしい。エステファニアさま、この地でのスタンピードは完全に収束いたしました。少々、そのままでお待ちください」
そう言ったザインの気配が、遠ざかっていく。
エステファニアは、手を繋いだままだったイザークを、目を閉じたまま見上げて問うた。
「イザーク。スタンピードは、ここ以外でも発生しているのだろう? ここの魔獣たちが落ち着いてくれたのであれば、次の現場へ向かったほうがよいのではないか?」
「はい、おっしゃる通りです。ただ、ほんの少しだけでもご挨拶を、と団長は判断されたようですね」
挨拶? と首を傾げたエステファニアに、イザークがいつもより柔らかな声で言う。
「スパーダ王国で、あなたが魔獣と対峙されたときの記録を拝見しましたが……。やはりあなたのお力は、魔獣たちに対して大変強い効果を発揮するのですね。驚きました」
「……そうなのか?」
思わず問い返すと、彼は小さく笑ったようだった。
「おや、ご存じなかったのですか? 歴代の聖女さま方の記録と比べても、あなたの『聖歌』が魔獣に与える効果は、群を抜いて高いものですよ。……お喜びください、エステファニアさま。この場において、あなたをお守りするために、我々は一頭たりとも魔獣を殺しておりません」
「……っ」
咄嗟に思いきり握りしめてしまったイザークの手が、そっと握り返してくれる。
「どうぞ。目を開いてくださって結構ですよ」
促され、目を開く。
何度か瞬いたエステファニアは、目の前に広がる黄金に戸惑う。
辺りに夕闇が広がっていく中、きらきらと視界いっぱいに広がるこれは――。
「ありがとう。黒の聖女。我らを助けてくれたこと、心から感謝する」
遙か頭上から響いた声に、ぱっと顔を上げる。
そこに、自分を見つめる巨大な猛禽の瞳を見つけたエステファニアは、その翡翠色の美しさに束の間見とれた。
黄金の羽毛が、わずかに残る夕日を受けて銅色に輝いている。
全身に震えがくるほどの荘厳ささえ感じさせるこの魔獣は、空に生きる大型魔獣の中でも屈指の美しさを誇る、ガルーダだ。
滅多に人前に現れることがないというその姿を認識した瞬間、エステファニアの理性は蒸発した。
「はぁああああああんっっ!!」
目の前の黄金に飛びこむと、柔らかな羽毛が全身を包みこんでくれる。
なんという心地よさ。
しばしの間、もふもふもふ、もふもふもふもふ、と黄金の羽毛の中で泳ぐように戯れていたエステファニアの襟首を、むんずと掴んで引き戻したのはイザークだった。
夢のような幸福感に浸っていたエステファニアは、恨みがましく彼を見つめる。
「イザーク……。何をするのだ、ひどいではないか」
「申し訳ありません、エステファニアさま。そういったお戯れは、すべてのスタンピードが収束してからになさってくださいませ」
いつも通りの口調で淡々と言われ、思わずぴょっと跳び上がる。
「そ、そうであったな! いやいや、決して忘れていたわけではないのだぞ!? ただちょっとばかり、このガルーダどのの羽毛の魅力に抗えなかっただけで……!」
「はい、存じています。この程度の時間のロスは想定内ですので、ご安心ください」
(うぅ……っ)
叱られないことが、逆に辛い。
しょんぼりと肩を落としたエステファニアに、ガルーダが再び声を掛けてくる。
「黒の聖女。我らは、そなたへの恩義を決して忘れぬ。そなたが我らの力を必要とするときは、いつでも呼ぶがいい」
それは、とエステファニアは大きく目を見開いた。
「ガルーダどの……。そなたの力を必要とすることがなければ、妾は二度とそなたと会えぬということか?」
「……む?」
巨大な黄金の猛禽が、首を傾げる。
その可愛らしい仕草に、エステファニアは鼻血を噴くかと思ったが、イザークが動いていないので大丈夫だったのだろう。
気を取り直して、先を続ける。
「妾は人の子ゆえ、そなたのような立派な魔獣の力を必要とすることなど、滅多にないと思うのだ。まあ、聖女として働く際には、そこそこ危険なこともあろうかとは思うがな。魔獣であるそなたを、地脈の乱れが強く出ている場に呼び出すわけにもいかぬだろう?」
「むぅ……」
そのとき、彼女の隣ではイザークが、「大型魔獣の中でもかなりの上位種を、役立たず呼ばわりしてるぅ……」と震えていた。
しかし、かねてから憧れの対象であったガルーダを前にしたエステファニアは、そんな彼の様子には気付かないまま懸命に続ける。
「それにな、ガルーダどの。妾は、そなたに自由に生きていてほしいのだ。いつか、この大陸からすべての災厄を消し去ることができたなら、そなたが美しい青空の中を悠々と飛んでいる姿を見せてほしい。妾がそなたに望むのは、それだけだ」
ガルーダの翡翠の瞳が、本当にきれいだと思う。
こんなにも美しい生き物が生きて動いていることが、ただただ嬉しくてたまらない。
少し考えるような間のあと、ガルーダがゆっくりと口を開く。
「なるほど。了解した、黒の聖女。だが、これほどの恩義を受けておきながら、何も返さぬというわけにもいかぬ」
そのとき、ふわり、とエステファニアの目の前に降ってきたのは、金色の羽。
彼女の顔ほどの大きさもあるそれが強く光ったかと思うと、何か白くて丸いものが浮いていた。
ゆるゆると、落ちてくる。
咄嗟に両手を持ち上げて受け止めたそれは――。
「……ネズミ?」
エステファニアの片手にも収まりそうなそれは、真っ白な毛並みにつぶらな黒い瞳の、極小サイズのネズミに見えた。ただし、尻尾はあるかないかもわからないような短さで、なんというか……胸がきゅんとするほど愛くるしい。
もしこの場にルジェンダ王国の聖女がいたなら、「いーやー! なんって可愛いジャンガリアンハムスター!?」と絶叫していたことだろうが、残念ながら彼女は現在ほかのスタンピードに対応中である。
エステファニアが、なぜネズミなのだろうかと困惑していると、ガルーダがどこか満足げな声で言う。
「愛いだろう」
「うむ。とても可愛いな」
それについてはまったく異論がないので、迷わず頷く。
「それくらいのサイズであれば、常にそなたの肩にでものせておけよう。それの一部にはそなたの魔力も組みこんでおるゆえ、そなたが喜べばそれも喜び、そなたが悲しめばそれも悲しむ。人生の道連れとして愛でるがよいぞ」
「おお!? このネズミ、妾にくれるのか!?」
たとえ愛くるしいもちもちの白ネズミにしか見えなくとも、これは紛れもなくガルーダの一部である。つまり、魔獣の一種。聖女であるがゆえ、通常魔術を一切使えないエステファニアにとって、魔獣と従魔契約をするのは、決して叶えられない夢だった。
従魔とは少し違うかもしれないけれど、幼い頃に焦がれていた『自分だけの魔獣』を期せずしてゲットしたエステファニアは、躍り上がりたい気分になる。
「うむ。それは、そなたが死ぬるまでそなたのものだ」
「あああありがとう、ガルーダどの! 一生、大切にさせてもらうぞ!」
狂喜乱舞するエステファニアを見ながら、イザークは呆然と呟いた。
「え……。なんでネズミ? そこはせめて、小鳥では?」
至極まっとうなそのツッコミに、ザインがものすごく微妙な表情を浮かべて頷く。
「カラーリングが金色ならば、少しはガルーダの眷属らしく見えたかもしれないが……。まあ、あまり目立つのもよくない……のかな?」
そんなふたりの困惑に気付く由もなく、エステファニアは満面の笑みを浮かべてガルーダを見上げる。
「それでは、妾は残りのスタンピードを鎮めにゆかねばならんのでな! 息災で!」
「うむ。そなたならば、どれほど荒れ狂う魔獣の群れでも鎮められよう。黒の聖女よ、そなたも息災でな」
その後、常にエステファニアの肩にのっているようになった白ネズミが、世の人々から『幸運のシンボル』として崇められ、さまざまなグッズ展開がされることになるのだが――それは、もう少し先のお話。




