だから、守る。
10年前、5歳だった頃の武藏進七郎は普通の少年だった。
父親である進六郎の都合で2ヶ月ほど都内の実家を離れ、ある田舎の町に滞在することになった。進六郎が忙しくて構うことが出来ないこともあり、当時はわんぱくで好奇心旺盛だった進七郎は山々を駆け巡った。
その最中で迷子になっていた女の子と出会い友達になった。その女の子こそが”まるちゃん”こと円佳であったのだ。最も、迷子になっていたと言っても家のすぐ傍の森にいただけなので大事には至らなかったが。
『ほらほらこっちだよまるちゃーん!』
『ま、まってよぉしんしちろーくぅん』
それから、進七郎は毎日のように円佳と遊んだ。
気弱な性格だった円佳は家から全く出ず、この田舎街出身でありながら周囲のことを全く知らなかった。そのこともあり、進七郎は自身の大冒険に円佳を巻き込んで遊んでいたのだった。
『まるちゃんカブトムシそっちにとんでったよーーーッ!』
『ぴゃあぁあああああああ怖いよーっ!』
『まるちゃんみてみてー! セミとったーーーッ!』
『ぴょきゃあぁあああ怖いよーーーっ!』
『まるちゃんはやくうみでおよごうよーーーッ!』
『ぴゃぴゃあぁぁああ怖いよーーーっ!』
毎日違う場所を冒険する進七郎について行っては何かしら怖い経験をしていた円佳。
それでもついて行くのは、数々の恐怖を上回る楽しさを進七郎がくれていたからだった。
『わぁ……きれい』
『きれいだろー! きのーのよる、りゅうせいぐんっていうのがみれるってニュースでやってたんだー!』
田舎町でただでさえ同世代の子が少なく、気弱な性格のために自ら友達を作ることも出来なかった円佳。
そんな円佳にとって進七郎の存在はとてつもなく大きかった。それこそ進七郎が真昼を照らす太陽や夜空に輝く星のように、希望とも言えるような存在になるほどに。
そして、ある時。恋心など知らなかったはずなのに、その言葉は綺麗な夕日に照らされながら出た。
『だいすきだよ、しんしちろーくん』
今にも泣きそうな顔で。心臓がかつてないくらいにドキドキしながら。自らの想いを伝えたのだった。
『え……』
5歳とは言え、円佳が告げた”すき”が友達としてのものではないことを心のどこかで理解した進七郎は何も言うことが出来なかった。
夕日が円佳の顔を照らし、涙で潤む瞳が一層輝きを増す。顔が赤いのは、夕日のせいだけではなかった。
円佳はそこから何も言わなかった。だが進七郎は分かっていた、円佳が自分の返事を待っていることを。
だからこそ伝えたかった。というより伝えなければ男が廃る。そのことを理屈ではなく心で理解していた進七郎は覚悟を決め、自分の答えを伝えようとしたその瞬間だった。
『グオオオォォオオオオォオオオッ‼』
けたたましい鳴き声と共に、二人の前に大型の猪が現れた。
体長2m、体重260kg。猪の中でも最大サイズのそれはとてつもない風貌と例えるしかなかった。何せ、牙を含めて体の至る所が血で染まっていたのだから。
実は進六郎がこの田舎町に来た理由はこいつだった。梅雨明けの時期ぐらいから農作物も動物も滅茶苦茶に食い荒らし回り、挙句の果てには狩猟すべく派遣された猟師3人をも惨殺した。
まさに魔獣と呼ぶべき存在が、目の前に現れたのだ。
『ッ……!』
瞬間、子どもながらに死の予感を覚えた進七郎。
自分でさえも恐怖を覚えるような存在を目にした円佳がどうなるのか。進七郎の予想は当たり、全身をカタカタと震わせてまだ何もされていないのに涙を流していた。
『にげてッまるちゃんッ!』
『で……もっ……』
『はやく! はやくッ‼』
『わっ、ぴゃっ……!』
進七郎は足が竦んで動けない円佳を押すと、強引に逃げさせた。幸いにも緩い下り坂となっていたおかげで、円佳はゆっくりではあるが足を動かして逃げることが出来ていた。
『しんしちろーくーーーーんっ‼』
最後に聞いた円佳の声は、涙の混じった悲痛な叫び声だった。
そこから進七郎の記憶はなかった。次に目が覚めた時は、もう既に田舎町ではなく都内の病院のベッドの上。生死の境を彷徨い怪我の影響で記憶の一部を忘れてしまっているという症状もあったものの、何とか一命は取り留めたのだった。
進六郎の話によれば『仕事は終わった。もうあの町に行くことはない』ということと、とりあえず”まるちゃん”は無事だったらしい。当然、進七郎は円佳と会うことを懇願するもそれは叶わなかった。円佳はあの事件以来、別の家に引き取られて苗字も変わってしまっていた。だから、探そうにも探せなかったのだ。
想いを伝えて、想いを受け取ることが出来なかった円佳。
想いを受け取り、想いを伝えることが出来なかった進七郎。
2人の思い出は、ここで一度幕を閉じ。そして──現在に繋がる。
「……嫌だ」
「喰わレんのが嫌ダってかァ? 残念無念なコとにそれハ叶わねェ願イなんだヨなァ、諦メなァ!」
「……違う」
「あァ?」
「私が嫌なのは……進七郎君をまた傷つけちゃうことだからっ……!」
円佳は叫ぶと、進七郎を庇うようにして千頭の前に立ち塞がる。涙を瞳いっぱいに浮かべ、今にも崩れ落ちそうなほど全身を恐怖で震わせながら、それでも強い決意の籠った表情を千頭に向けていた。
「もう絶対に……傷つけさせないっ! 進七郎君だけはっ!」
「デヒャヒャヒャアッ! 人間っテ本当に滑稽だヨなァ! 昔っからオレ様達に勝てる訳ねェのニ立ち向かっテくるンだからなァ! ナんでそンな死にかケのゴミクズを守るンだよォ!?」
腹を抱えて嘲笑る千頭に、それでも強いまなざしをぶつける円佳。
(なんでって……そんなの……決まってるよ)
その瞳の奥には昔自分に笑顔を向けてくれた進七郎の姿を。
忘れもしない夕日が綺麗だったあの時のことを、思い浮かべて。
「私は進七郎君が大好き。だから、守る」
進七郎は意識を失っている。それにも関わらず進七郎にも伝えるかのように、円佳は言った。
千頭は動きをピタッと止め、真顔のまま固まる。そのまま数秒ほど何も言うことはなかったが。
「ヴァッハッハッハッハッハッハッハッハァァァァアァァアアァア‼ 意味分カんねえヨマジでェッ‼ こんな時人間は腹いてェって言うンだろうなァ‼ カス同士仲良しコよしって訳だァアァアアァァァハハハッ‼」
やはり、円佳の決意を聞いても嘲笑は止まず。もっと酷い言葉までも浴びせて来る。
だが円佳は動じない。揺るがない。大好きな人が傍にいるから。
大好きな進七郎を、守りたいから。
「……さっきから聞いてる限りだと、私が目当てなんでしょ? だったら、私のことは好きにして構わない……でも進七郎君はもう絶対に傷つけないで……!」
「おォ? そっチから受け入レてくれルとは、話ガ早くて助かルなァ。じゃア、早速頂キまァすっト♪」
「っっっ……‼」
その瞬間、千頭は更に人外へと変化する。
顔の全体が四方に開かれ中の肉が避ける。見えてきたのは無数の牙のような鋭い無数の歯であった。
恐怖が全身を覆い、心臓の鼓動がさらに早くなる円佳。それでも──
「……あの時、守ってくれてありがとう進七郎君。ずっとずっと、大好きだったよ」
最期に円佳は進七郎に微笑んだ。
心の底から逃げ出したくても泣き出したくても、それでも進七郎の為に微笑みを向けていたのだった。
「ありがとう、まるちゃん。俺もまるちゃんが大好きだ。だから、守る」
──進七郎はその微笑みを目にすると、自分もまた微笑んで円佳にそう伝えていた。




