第413話 ウサギの出産③ ~出産を終えて~
「母ウサギも赤ちゃんウサギも、どちらも大丈夫だよ」
待合室へと戻って来た幸也が微笑んで告げてくる。
それを聞いて、怜はその場に崩れ落ちそうになるほどの安堵を感じた。
背筋に張り詰めていた糸が、一瞬でほどけた気がした。
「本当……なんですね?」
陸翔が声を震わせて再度確認する。
「うん。もう命に別状はないから」
「良かった……」
隣で声を震わせる桜彩の瞳には涙が浮かんでいた。
「少し呼吸が浅かったけれど、処置が早かったのが功を奏したようだ。皆の迅速な対応のおかげだよ」
幸也は小さく頷き説明してくれる。
その言葉に怜は小さく息を吐いた。
胸の奥から何か熱いものがじんわりと込み上げてくる。
死と隣り合わせだった命が、こうして生き延びてくれた。
今度は助けることができた。
それだけで、世界が明るく思えた。
「本当に助かって、良かった……」
桜彩がぽつりとつぶやいたその言葉に、怜もそっと頷いた。
言葉にするにはまだ早い。
心がついていかない。
だが確かに助けることはできた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
病院の受付で診療費を支払い、処方された薬の説明を受ける。
普段なら面倒に感じるはずの事務的な流れさえも、今はありがたく感じるほどだった。
エントランスを出ると、外はすっかり暗くなっていた。
とはいえまだ熱気は残っており、少し湿った夏の空気が汗ばんだ額を撫でていく。
冷房の効いた室内から出たばかりの肌にすぐさま汗が浮かんでくる。
「無事でよかった、本当にありがとう、みんな」
幼稚園の経営者である陸翔の父が、怜の肩をぽん、と叩きながらお礼を言ってくれる。
母の方もウサギの入った段ボールを覗き込みながら、ほっとしたように笑っている。
「もし帰るのが大変なら、アパートまで送ってあげようか?」
そう優しく申し出てくれたのだが、怜は首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。アパートまでは歩いて十分くらいですし、少し空気も吸いたくて……」
「はい。私達は歩いて帰ります」
隣の桜彩もにこりと笑って怜の言葉に賛同する。
「そう。じゃあ気をつけてね」
「二人共、今日は本当にありがとう」
「じゃな、怜、さやっち」
「それじゃあね、れーくん、サーヤ」
車に乗り込む四人を見送りながら、怜と桜彩は自然と手を繋いで歩き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アスファルトの上を踏みしめる足音が、ゆっくりと静かに響く。
「……助かったね、ほんとに」
隣を歩く桜彩が、ふう、と息を吐く。
その表情は柔らかく、目元にうっすらと涙の痕が残っている。
「ああ。あの時、桜彩がいてくれて良かった」
もし隣に桜彩がいなかったら自分はあそこまで冷静に考えることができなかった。
しかし桜彩は首を横に振る。
「……ううん、私は何もしてないよ。怜が、ずっと動いてくれてた。私、ただ隣にいただけ」
「いや、桜彩が落ち着かせてくれたのが、どれだけ支えになったか……」
静かに歩きながら、怜はその時のことを思い出す。
手の中にあった命の温もり、汗ばんだ毛の手触り、苦しむ母ウサギの姿。
そして、八年前のあの出来事。
それら全部が、今も胸の奥で脈を打っていた。
曲がり角を曲がったところで小さな公園の入り口が姿を現す。
桜彩と共に中に入り、隣同士でベンチへと腰を下ろす。
「桜彩。聞いて欲しいことがあるんだ」
「うん」
隣に座る桜彩に真剣な表情で告げると、桜彩は優しく笑って頷いてくれた。
その笑みをみて、怜は決意を新たにその言葉を桜彩へと伝える。
「俺、獣医になりたい」
桜彩が顔を見つめてくる。
「怜……」
「今まではさ、まだ将来の事なんてあまり考えられなかった。陸翔の幼稚園で一緒に働いたり、動物関係の仕事を考えてみたり。でも……今日、あのウサギ達を見て思ったんだ」
空を見上げ、これから目指すはずの遠い未来をうっすらと思い浮かべる。
「命を守りたい。あの時、俺の手で、命を繋ぐことができたって……そう思えたんだ」
目を伏せて、言葉を絞り出すように続ける。
「ずっと、胸につかえたままだったんだ。八年前、死んでしまったウサギ達を抱えたまま何もできなくて、ただ見てるだけだった。今日は助けることができたけど、でも皆に頼りっぱなしで。だから……今度こそ、自分の手で救えるようになりたい」
蝉の声が遠くに響く。
静かな公園の中、桜彩はしばらく黙っていた。
だがその表情は少しも迷っていなかった。
「そっか……」
桜彩の目に涙が浮かぶ。
「嬉しいよ。怜がその夢を見つけてくれたの」
桜彩はにこりと笑ってから、ふと目を細めた。
「実はね、私もちょっと思ったんだ。今日のことがあって」
「……え?」
「私も……獣医さんになりたいな、って」
怜の目が丸くなる。
桜彩は照れくさそうに笑いながら言葉を続ける。
「私はさ、怜のことが好き。絵を描くことが好き。怜と一緒に料理を作って、それを食べることが好き。蕾華さんや陸翔さん達と、四人で一緒に過ごすのが好き。でもね、今日見た命の輝きは、それとは違う感動だった。もし私も、誰かの命を救える手になれたら……それって、凄いことだなって思ったんだ」
人気のない公園の中、電灯に照らされた二人の影が寄り添って、まるでこれからの未来を重ねるように伸びていた。
「できるかどうか分からないけど、目指してみたい。だって、怜と同じ夢を見られるなんて……すごく嬉しいから」
桜彩の瞳が、まっすぐに怜を見る。
冗談ではない、本気の目で。
「桜彩……。ありがとう」
「こちらこそ……ありがとうだよ。私に、夢をくれて」
「……じゃあさ」
「うん……」
「一緒に獣医、目指そう」
そう、二人の未来を口にする。
桜彩の目が大きく開かれ、花が咲くような笑みが浮かぶ。
「うん。絶対に、一緒にね」
手を取り合うわけでも、抱きしめ合うわけでもなかった。
だが、それよりもずっと強く、お互いの心が重なり合った気がした。
遠い未来、もし獣医になることができたのなら、また命と向き合う日が来るだろう。
その時に、きっとこの決意を思い出す。
今日、ウサギ達と過ごした、かけがえのない出来事を。
「もし同じ大学に行けたら、毎日一緒に通えるね」
「そうだな。通学も一緒、勉強も一緒。もちろん、お弁当も一緒に食べる」
「ふふっ。楽しみだね」
桜彩の頬がほんのりと赤く染まり、嬉しそうに微笑む。
「勉強、辛いときはお互い励まし合おうな」
「うん。二人で一緒にね」
笑い声が公園の中に溶けていく。
「いつか、二人で小さな動物病院を開こうね」
「待合室には桜彩が描いた動物の絵を飾ろうかな」
「来る人が安心できる場所。そんな場所を作ろうね」
「それって、まるで夢みたいだな」
「うん。その夢を、未来で現実に変えようね」
優しく手を繋ぎ直し、アパートへと足を向ける。
「そういえば、夕食まだだったよな。お腹空いてきた」
「うん。あ、そうだ。特別な日だからさ、肉巻き作ろっ!」
「ああ、一緒にな。それじゃあスーパーに寄り道だ」
「うんっ!」
この先の未来にどんな困難があろうとも、きっと二人なら乗り越えられる。
そう思えるだけの夜風が背中を押してくれていた。
私用の為、次回投稿は木曜日を予定しています
前編はここで終了となります。
恋人となった二人が戻って来た日常での生活、そして二人が将来の夢を決めて、夢をかなえる為に共に努力していくことを決めました。
次話から後編(中編ではない)となり、怜と桜彩の両親編です。
期待を裏切らないよう頑張っていきますので、これからも応援をよろしくお願いいたします。
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