第112話 二人だけの秘密の通話②
領峰学園は県内でも有数の新学校であり、当然ながらそれなりの学力を求められる。
怜と桜彩は普段夕食後に共に勉強をしているのだが、桜彩が実家に帰っている今はそれぞれの部屋で別々に勉強中だ。
ちなみに怜は成績優秀者であり、前期後期の中間、期末の計四回の定期試験で全て一位の座に輝いている。
桜彩の成績も優秀なのだが、理系に限っては怜の方が間違いなく上だ。
そしてこの日は桜彩の提案により、勉強しながら通話を行っている。
とはいえお互いに楽しく話しながら勉強している訳ではない。
怜も桜彩も勉強する時は集中して取り組むタイプだし、そこのところはスイッチの切り替えが出来ている。
会話をするのは基本的に分からない箇所を聞いたりする時くらいだ。
例えば――
『あ、怜。この問2-aなんだけど、これ分かる? 解説見ても良く分からないから教えて欲しいんだけど』
「ちょっと待って……。ああ、これか。オッケー分かった。桜彩はどこで躓いてるんだ?」
『えっとね、斜面との接触によるベクトルの変化が何でこうなるのか分からないんだけど』
「ああ、そこか。まず斜面から受ける力積が垂直方向のみだろ? だから力積のX軸とY軸の関係が……って分かりにくいか」
『あ、ごめんね』
物理の問題で詰まった桜彩が怜に解説をお願いしたのだが、ベクトルの方向と大きさについての説明を言葉だけでするのは難しい。
何とかいい方法がないかと少し頭を掻いてしまう。
「どうする? 写真撮って送るか?」
『うーん、スマホで画像を見ながらってことだよね。お願いしてる私が言うのもなんだけど、ちょっと分かりにくいと思う』
「だよなあ。あっ……」
そこで怜は一つの考えが頭の中に思い浮かんだ。
しかしそれをそのまま桜彩に伝えるのに少し躊躇してしまう。
『怜? 良い方法でもあるの?』
怜の沈黙を不思議に思った桜彩がそう問いかけてくる。
少し悩んだ結果、桜彩にその方法を話してみる。
「ビデオ通話なら説明しやすいかと思ったんだけど。ただ、その場合桜彩の室内が俺に見える事にもなるからさ」
『あ、それを気にしてたんだ。ありがとね。でも大丈夫。私は気にしないよ。それにアパートの方でも怜は私の部屋に入ったでしょ?』
前にアパートの方の桜彩の自室に入ったことはあるのだが、あの時は不審者騒動という事情があった。
さすがにそう何度も年頃の女子の部屋を覗くのは悪いと思ったのだが。
『大丈夫。私は怜に隠すようなことなんてないから。だから怜が見たいって言うんなら部屋の中を見せることだって問題ないし』
「い、いや、それは大丈夫だ。桜彩の部屋を見たいとかそういう事じゃなくて……」
焦ってしどろもどろになりながらそう説明するの怜。
しかし桜彩の反応は怜の思っていたこととは違う。
『ふーん。怜は私のことなんて興味がないんだ』
スマホの向こう側から不満そうな桜彩の声が聞こえてくる。
この場合、どのように答えるのが正解なのだろうか。
「い、いや、そういう事じゃなくてな……」
『ふふっ、冗談だよ』
どうしたものかと考えていると、クスッと笑う桜彩の声が聞こえてくる。
どうやらからかわれただけのようだ。
「む……。驚いたぞ」
『あはは、ごめんね。でもね、私は気にしないからさ。ビデオ通話に切り替えよう?』
「……そうだな、そうするか」
桜彩が気にしていないのならそれでもいいか、と考えを改める。
それによく考えれば蕾華ともビデオ通話でのやり取りは何度も行っている。
それを考えれば桜彩とやり取りするのも問題はないのかもしれない。
「それじゃあ切り替えるな」
『うん、私も切り替えるね』
二人共それぞれのスマホを操作してビデオ通話を開始する。
『あ、こっちのスマホに怜が映ってるよ』
「こっちのスマホにも桜彩が映ってる。問題ないな」
『うんっ!』
画面の中の桜彩が笑顔で頷く。
いつも見ているその笑顔に怜の心が温かくなっていく。
「でもさ、桜彩とこうして顔を見ながら話せるってのは嬉しいな」
『怜……』
「ほら、ここ一か月くらい、毎日桜彩の顔を合わせてただろ? だから昨日の夜から桜彩の顔を見れなかったから寂しかったんだ」
桜彩とは家族のような関係を築けていると思っている。
だからこそいつものように顔を合わせていないと寂しいし不安にもなる。
そしてそれは桜彩にも良く分かる。
『うん、私も。昨日みたいに怜と通話するのは楽しいんだけど、やっぱり顔を見ながらお話しする方が好きだな』
「ありがと。桜彩もそう思ってくれて嬉しいよ」
『そうだね。私も怜がそう思ってくれて嬉しいよ。お揃いだね』
「ああ、お揃いだな」
画面を通して二人で笑い合う。
そんな時間が心地好い。
「っとそうだ。そもそもビデオ通話にしたのは物理の問題の解説の為だった」
『あっ、そうだね。怜の顔を見ることが出来たのが嬉しくて、つい忘れちゃった』
桜彩のその言葉が更に怜を嬉しくさせる。
顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
それをごまかすように、怜はスマホをノートへと向ける。
「桜彩、これで見えるか?」
『うん、見えるよ』
「よし、それじゃあ解説していくな」
『はいっ。よろしくお願いします』
「まずはだな……」
ノートに問題の解説を図入りで書き込んでいく。
『えっと、じゃあ垂直方向のベクトルの分離は……こう?』
「そう。後は公式の応用で解けるから」
『あっ、なるほど。ありがと、怜』
「どういたしまして」
桜彩が分からなかった問題が解けたので、ビデオ通話のモードを解除しようと指を伸ばす。
が、二人ともそこで手が止まってしまう。
「……問題は解けたけどさ、このままビデオ通話のまま話さないか?」
『うん、私もそうしたいって思ってた。それじゃあこのまま話そうね』
お互いに相手の顔を見ながらの通話を止めたくはない。
スマホをスタンドに立てかけて、顔が映るようにする。
『ふふっ、怜が映ってる。こうしてみると、いつもとあんまり変わらないかもね』
「だな。いつもはお互いに向かい合って勉強してるからな」
遠く離れていても、疑似的にいつものような感じを味わうことが出来る。
そんなささやかな幸せを噛みしめながら、二人は勉強を進めていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
勉強を終えた後は、二人で秘密の雑談をする。
特に秘密にするべき内容でもないが、二人だけの秘密というのがなんとなく楽しく感じる。
しかしそんな楽しい時間も終わりが訪れてしまう。
『あ、もうこんな時間だね』
「そうだな。名残惜しいけどそろそろだな」
『うん……そろそろ切らなきゃね』
「ああ。残念だけど……」
昨日同様、お互いにこの心地好い時間を終わらせたくないという思いから、通話の終了ボタンを押すのを躊躇してしまう。
通話だけで終わった昨日と違って、この日はお互いの顔まで映っているので尚更切りたくないという想いが強い。
切らなければいけないのは分かっているのだが指が動かない。
「そ、そう言えばさ、桜彩は昨日はどうだったんだ?」
『え、え? き、昨日って?』
「ほら、通話が終わる直前に両親の声がしたからさ」
いきなり部屋の外から桜彩の両親が声を掛けてきた。
それに驚いて、二人共通話の終了ボタンを押してしまったことを思い出す。
『う、うん。特に問題はなかったかな。お風呂が沸いたって言われただけだから』
「そ、そうか」
『うん。あ、それとね、大切なお友達が出来て良かったねって言われたよ』
昨日の母との会話を思い出す桜彩。
「そっか。だけどそれは俺もだな。桜彩と仲良くなれて本当に良かった」
『ありがと。私も良かったよ』
二人でくすっと笑い合う。
『でも、さすがにもう切らなきゃね。怜は明日も早いんでしょ?』
「ああ。明日もリュミエールでバイトがあるからな」
『なら早く寝なきゃね。名残惜しいけどおやすみ、怜』
「…………」
桜彩の言葉に、ふと怜は考え込んでしまう。
(おやすみ、か。俺はもう寝るだけなんだけど、桜彩は……)
『怜?』
桜彩としてはてっきり怜からもおやすみ、と返ってくると思ったのだが。
その桜彩の言葉で怜の頭が現実に引き戻される。
「あ、悪い。ちょっと変な事考えちゃって」
『変な事?』
きょとんとした顔で桜彩が聞き返す。
「ああ。その、な。ここのところずっと、俺が一日の最後に話す相手は桜彩で、一日の最初に話す相手も桜彩だったんだ」
『うん、私もそうだよ。私がそっちのアパートにいる時は、一日の最後に話すのは怜で、一日の最初に話すのも怜だよ』
それは桜彩も一緒だ。
いつも怜の部屋を出る時に『おやすみ』と言って、朝、怜の部屋を訪れた時に『おはよう』と言う。
それがいつものルーチンだ。
しかし今は――
「だけどさ、今の桜彩は実家だろ? だから桜彩の『おやすみ』って一日の最後に話す相手も『おはよう』って一日の最初に話す相手も俺じゃないんだなって思っちゃって」
自分でも何を言っているのか良く分からない。
もちろん今の桜彩には大切な家族が側にいることは分かっている。
ただ、なんとなくそれを残念に思ってしまった。
「……悪い、変な事言った。忘れてくれ」
『怜……。ううん、変な事なんかじゃないよ。多分その……私も怜の最初と最後の相手になりたいって思ってるからさ……』
なんとなく怜の言うことは桜彩にも分かる。
もうお互いがそれだけ特別な相手になっている。
『だからその……もしも怜が私と話した後で、美玖さんや蕾華さん、陸翔さん達と話してるって考えると私もモヤっとするし……』
一日の最初と一日の最後。
お互いに、自分がその相手になりたいと思ってしまっている。
「そっか。まあでも、桜彩がそう思ってくれるのは嬉しいな」
『私も。怜がそう思ってくれるのは嬉しいよ』
二人でふっと笑い合う。
おそらく恋人同士であっても気にしない人は気にしないだろう。
むしろ気にする方が変かもしれない。
しかし、二人にとってそれはとても大切なことになっている。
『そうだ。『おやすみ』の方は難しいけどさ、『おはよう』の方なら出来るよ。怜、明日の朝に電話掛けても良いかな?』
「それは構わないけど良いのか? 朝早いぞ?」
『うん。私も一日で一番最初に『おはよう』って怜に言いたいから』
それを聞いて怜の心臓が大きく跳ねる。
つまりは怜に対して家族よりも先に朝の挨拶をしたいということで。
そこまで大切に想ってくれる相手に心が揺すぶられる。
「桜彩……ありがと」
『どういたしまして。それじゃあ明日は朝五時に電話するね』
「分かった。待ってるよ。それじゃあ今度こそおやすみ、桜彩」
『おやすみ、怜』
名残惜しいがそこで通話を切る。
明日の朝の『おはよう』に想いを抱きながら。
次回更新は月曜日の予定です




