第110話 離れて過ごすそれぞれの朝
ジリリリリリリリリリリ
「ん……もう朝か……」
いつもと違って久しぶりに目覚ましの音で目を覚ました怜。
リュミエールでのアルバイトは朝早い為、三十分ほど早くセットした目覚ましを停止して身支度を整える。
いつもの予定を三十分繰り上げてランニングを済ませた後、シャワーを浴びて朝食の準備を始める。
とそこで、準備した材料が多いことに気が付いてしまう。
「しまったな」
ここのところ毎日桜彩と二人で朝食を作っている為に、つい癖で二人分の朝食の準備をしてしまうところだった。
多く取り出した卵を慌てて冷蔵庫に戻す。
「……久しぶりだな、こうして一人で作るのも」
寂しそうにボソッと呟いてしまう。
今の生活が始まってまだそんなに経っていないのに、もう桜彩のいない生活というのが考えられなくなってきた。
(少し前に戻っただけなのにな……)
無言で卵を溶いてオムレツを焼いていく。
少し時間をおくと、フライパンの上に良い感じに焼けたオムレツが出来上がった。
「よし、完成。桜彩、皿を準備して……あっ……」
いつものように桜彩にお皿を出してもらうように頼もうとしてしまった。
「……参ったな」
今の自分の状態に項垂れながら、火を止めて一人でお皿を用意する。
そしてサラダとスープも完成させてパンと一緒にリビングのテーブルへと運び、椅子に座って手を合わせる。
「いただきます」
いつも通りの挨拶。
しかしいつもと決定的に違う点がある。
『いただきます』
いつも怜の耳に届いていた声が、今日は届くことはない。
その事実に怜は自分一人という事実を強く実感してしまう。
「うん、美味しい」
確かに料理はいつもと同じく美味しい。
だがそれも味だけを考えればの話だ。
「美味しいけど……なんだかなあ……」
怜は料理というものはシチュエーションによって美味さが変わると考えている。
高級な食材で手間暇かけた料理を一人寂しく食べるよりも、普通の味のファーストフードを皆と仲良く食べる方が好きな人間だ。
そんな怜にとって桜彩と一緒の食卓に慣れてしまった今、普段の食事がとても恋しい。
「本当に、少し前の状況に戻っただけなのにな」
桜彩と出会うまでの一年間は、陸翔や蕾華が遊びに来た時を除いて基本的には一人で食事していた。
ただその時に戻っただけなのだが、その時以上に怜の心は寂しさに襲われてしまう。
蜜の味を知ってしまった人間が蜜を取り上げられたとでも表現すれば良いのだろうか。
「別に永遠の別れってわけでもないのに」
永遠どころか実際にはたったの五日程度で一週間よりも短い。
しかし今の怜にとっては果てしなく長い五日間だ。
「桜彩……早く帰ってこないかなあ」
ボソッとつい思ったことが口をついてしまう。
それに気付いて慌てて口元を手で押さえる。
(って何言ってんだよ俺は! 桜彩が家族と仲良く過ごすのは喜ぶべきだろうが)
桜彩がこちらに引っ越してきた理由は友人に裏切られたトラウマによるもので、本来であれば両親と共に暮らしていただろう。
昨日の電話でも仲良く話していたようなことを言っていたし、帰省先の生活も桜彩にとっては大切なはずだ。
それを願望とはいえ自分の都合で早く戻って来てほしいなどと思ってはいけない。
「……でも、寂しいのは確かだな。なあ、お前もそう思わないか?」
つい目の前に座っている大きな猫のぬいぐるみにそう問いかけてしまう。
もちろんぬいぐるみは怜の質問に答えることなどない。
「……答えるわけないか。何言ってんだろうな、俺は」
何を馬鹿なことを言っているんだ、と思いながら寂しそうに朝食を食べ進めていく。
食事を終えると洗い物をしてコーヒーを淹れて一服する。
この時間も普段は桜彩との貴重な団らんの時間だ。
「桜彩、今頃何をしてるのかな……?」
もちろん怜のその問いに答える相手はいない。
そのまま怜はリュミエールへの出勤時刻まで一人で過ごした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おはよう、桜彩。早いわね。昨日はよく眠れた?」
「おはよう、桜彩。いつもよりも随分と早いな」
怜が一人寂しい朝を迎えていた一方で、桜彩は怜の起床時刻よりも少し遅い時間にリビングへと向かう。
キッチンでは桜彩の母、渡良瀬舞が朝食の支度を始めていた。
リビングでは桜彩の父、渡良瀬空がコーヒーを飲みながら朝のニュースを見ている。
三月までの桜彩は午前七時が起床時刻だったのだが、最近は六時半から怜と朝食の支度を始める為に一時間以上早く起きている。
その為自然といつもの時間に目が覚めてしまった。
「おはよう、お母さん、お父さん」
二人ににっこり笑って挨拶を返す。
その笑顔を見て二人も安心したように柔らかい表情へと変わる。
桜彩から新しい土地での生活について昨日色々と聞いているとはいえ、それでも親として心配が尽きることはない。
一晩経って大切な娘の元気がなくなっていたらどうしようと心配したのだが、どうやら杞憂になりそうだ。
「お父さんの言う通り、いつもよりも早く起きてきたわね。向こうでの生活が大変で疲れて早く眠っちゃったの?」
「ううん。ここ最近はずっとこの時間に起きるようにしてるから」
両親に心配を掛けないように首を横に振って答える桜彩。
「本当? なら良いのだけれど。ここはあなたの実家なのだから、無理はしないでね」
「そうだぞ。困ったことがあったら何でも言ってくれて構わないんだからな」
少し前までの桜彩について心を痛めていた両親としては、慣れ親しんだこの家くらいは桜彩の心が休まる場所であってほしい。
その為には何でもするつもりだ。
「大丈夫。最近は朝食を作る為に、早く起きるようにしているんだ」
「まあ!」
桜彩の言葉に舞が驚く。
転校するまでの桜彩は、数えるほどしか料理をしたことがなかった。
当然、朝食もパン等を買って簡単に済ませているもののだと思っていたのだが、予想以上にしっかりとしているらしい。
「でも大丈夫? あなたはほとんど料理をしたことがなかったでしょ? 怪我とかしてない?」
「大丈夫だよ。最初は失敗したんだけど、料理が出来る友達に色々と聞いているから」
「そうなの。良かったわね。素敵な友達が出来て」
「うんっ」
友人に裏切られたトラウマから、新生活では友達を作るのも苦労しそうだという両親の心配は良い意味で裏切られたようだ。
そんな会話をしている内に朝食が完成する。
パンとスクランブルエッグ、ソーセージ、サラダといった普通の朝食だ。
ちなみに姉の大学生である葉月はまだ用事が残っている為に三人で食卓を囲む。
「「「いただきます」」」
三人で手を合わせて食べ始める。
(え……?)
スクランブルエッグを口に運ぶと桜彩は少し違和感を感じて食事の手を止めてしまう。
「桜彩? どうかしたのか?」
「口に合わなかった?」
そんな桜彩の様子に気が付いた両親が心配そうな視線を桜彩へと向ける。
「ううん、なんでもないよ」
そう言って桜彩はパンを口へと運ぶ。
(…………そっか。お母さんの料理ってこんな味だったな)
いつもと違う味付け。
それに一瞬でも違和感を感じてしまうほどに怜の料理に慣れていたようだ。
それをきっかけとして、今は一人でいるであろう怜のことを頭に思い浮かべる。
(怜……、今頃何をしているのかな?)
若干上の空になりながら朝食を食べる桜彩を、両親は不思議そうに見つめていた。




