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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
60/239

出発の前に

「完成や!」


 一貫斎が声を上げる。

 レンズの製作につまずいていたが、直亮の計らいで得たオランダ製の顕微鏡のお陰で、どうにか形になったのだ。

 一年ちょっとで顕微鏡の完成を成し遂げた一貫斎は、やはり稀代の発明家であろう。

 もう一人、いや、もう二人の稀代の発明家が隣で喜んでいるのは愛嬌だ。 


 「一貫斎様、おめでとうごぜぇます!」

 「実物を見てからは早かったたいね。流石は一貫斎殿。」

 「じいちゃん、おめでとう!」


 嘉蔵と儀右衛門とお菊が、一貫斎と共に喜びを分かち合う。

 

 「では、一貫斎殿の顕微鏡で、早速微生物を見てみましょうか。使っても宜しいですか?」

 「勿論や。その為の道具やさかい。」

 「では、熊吉さん、培養液をお願いできますか?」

 「へぇ。少々お待ち下せぇ。」


 松陰が一貫斎より、出来上がったばかりの顕微鏡を譲り受け、観察の準備を始めた。

 培養室担当の熊吉に、微生物の培養液を持って来てもらう。

 プレパラートやカバーガラスといった小物は、随分早くから完成している。

 

 持って来てもらった培養液を数滴づつプレパラートに乗せ、顕微鏡にセットした。

 レンズを合わせ、ピントを調整する。

 現代のそれとは違い、ややぼやけた像しか結ばない。が、それでも流石は一貫斎。良い仕事をするものだ。


 「素晴らしいです! 流石は国友一貫斎殿! 本当にありがとうございます!」


 ”草根資金”を活用し、”えひめアイ”の開発、普及を図ってきたが、顕微鏡が完成した事によって、更なる活動が可能となった。

 目には見えないが存在している、という説明は、やはり心許ない。

 顕微鏡によって、確かに存在している、という確信が得られるのだ。

 その顕著な違いは、培養室担当の熊吉の態度であろう。

 それまでは、微生物というモノに、半信半疑ながら携わってきたのだが、目で見た事によって意識が大きく変わったのだ。

 まさに生き物を扱う丁寧さで、培養室の管理を行う様になった。

 当然、それは結果にも現れてくる。

 意味のない失敗が少なくなったのである。

 失敗しても、何故失敗したのか、を考える様になったのだ。


 そして、見えるという事は、様々な実験が検証可能になるという事である。

 今までは、様々に条件を変えるという実験の結果も、勘で判断する事が多かった。

 それが、目で見て判断できるのだ。これは大きな前進である。

 微生物が死滅、減少、増殖しているのか、視認出来るのである。

 可能になる事は数多い。

 それはつまり、今まで以上に忙しくなる事を意味するのだが、仕事の出来を喜んでいる一貫斎は、まだそれを知らない。


 「しかし、一貫斎殿も元気溌剌たいね。何か秘訣でも?」

 「せやなぁ。松陰さんの所で作る甘酒を毎日の様に飲みだしてからは、疲れも残らへんなぁ。野菜もえらい美味しゅうて、その野菜を使ったお漬物も絶品やし、食も進むんですわ。それくらいやろうかねぇ。」

 「納得したばい。確かに甘酒も野菜も美味か!」


 造成中の江向の試験畑では、ぼちぼち野菜も取れ始めていた。

 二宮尊徳に分けてもらった麻も試験栽培中である。

 医食同源ではないが、食べ物が健康に及ぼす影響は大きい。




 「嘉蔵さん、パンというモノをご存知ですか?」

 「へえ、全く知りません。」


 松陰が嘉蔵に聞いた。

 史実ではこの嘉蔵、パンの製造に挑戦し、失敗しているらしい。

 

 「パンというのはですね、小麦粉に酵母を混ぜ、練り、発酵した物を焼いたモノなのですが、これがとても美味しい食べ物なのです! パンがあればパン粉も作れ、そうなればトンカツ、そして最終目標のカツカレーが手に入るのです! どうです? 挑戦してみませんか?」


 松陰の個人的な欲望が先走っているが、固く焼いたパンは日持ちもするので、戦の携行食にも使える。

 

 「へえ、やれと言われればやりますが……。」


 以後、嘉蔵のパン作りが始まる。

 熊吉と協力し、パン作りに適した酵母を取捨選択し、発見、培養してゆく事になる。




 「人形作りは如何でございますか?」


 松陰は儀右衛門に作業の進捗状況を尋ねた。

 イギリス人をあっと言わせるべく、からくり人形を製作してもらっているのだ。

 儀右衛門が過去に完成させている人形であるので、再現は容易い。

 嘉蔵にも手伝ってもらい、作業を進めている。


 「問題なく進んどるったい。」


 儀右衛門の断言が心強い。

 



 そんな中、一際熱を帯びた漢達おとこがいた。


 「攘夷なんて無謀です!」


 大久保忠寛の声が家の中に響く。


 「いいや、開国なんて、駄目だっぺ!」


 それに負けぬ大声で、藤田東湖が吼えた。

 開国派と鎖国厳守派(攘夷派とも言う)の論争勃発である。

 

 「忠寛殿は熱いねぇ。」


 それを暢気に眺めているのは勝海舟。


 「忠寛も無駄な事を。頑迷な水戸学者に開国を説いた所で徒労にしか過ぎん。」


 どこまでも冷静に、東湖をばっさりと切り捨てるのは岩瀬忠震。

 東湖、分の悪い論争である。

 東湖の味方となりうる西洋嫌いは、頑固な玉木文之進くらいなのだが、あいにく江向には居ない。

 なので今は孤立無援である。


 「弥九郎! おめぇはどうだっぺ? 攘夷に賛成だっぺ?」

 「相手の力量もわからずに、おいそれとは言えんな。斬りかかった相手が鉄砲を持っておったら、空しく返り討ちだろう。」


 東湖に話を振られた弥九郎は、剣士らしく答えた。

 賛成者を得られず、東湖は松陰に縋る。 

 

 「松陰殿! 松陰殿はどう思うだら?」


 しかし、松陰は開国派である。それも積極的なという前置きがつく程の。


 「東湖殿は夷狄を討て、と言われますが、そもそも我らこそが夷狄だという事はどうなさるのですか? 中華の歴代帝国は我が国を夷狄と蔑み、蔑まれた我らが、今度は異人を夷狄と蔑むのですか?

 我らが夷狄ではない様に、彼らもまた、夷狄と蔑むべき存在ではないのではありませんか?」


 西洋人が今も世界で振舞っている蛮行は、野蛮と呼ぶべき、まさに夷狄そのものであるが、それはこの際おいておく。

 相手を夷狄と呼び、野蛮だと蔑むのは思考の停止である。

 人を見下し、蔑む、その心の浅ましさ、野蛮さに目を瞑っているに過ぎないのだ。  


 「それでも異人は危険だっぺ!」


 東湖の孤軍奮闘は続く。




 「ここで騎馬隊を投入し、撃破です。」

 「くそぅ! また負けた! いやぁ、蔵六さんは強いねぇ。まるで勝てねぇな。何か秘訣でもあるのかい?」

 「当たり前に考えるだけです。」

 「いや、その当たり前が何か聞きたいんだがなぁ……。」

 

 蔵六と戦棋を挟んだ海舟がぼやく。

 杉家に来た蔵六は、三郎太と重之助の遊んでいた戦棋に興味を持ち、教えてもらっていた。

 持ち前の頭脳を活かし、瞬く間に上達していった蔵六は、既に誰も勝てない程になっていたのだ。

 その秘訣が、当たり前に考える、である。

 蔵六にとっては当たり前でも、常人にはそうではない。

 英語も瞬く間に覚えた蔵六に、杉家に暮らす者皆、口をあんぐりとして眺める事しか出来ない。

 聞いた事もない外国語を覚える秘訣を聞かれ、「何度か読み書きすれば、大体覚えられます。」と答えれば、誰でもそうだろう。

 頭が大きい人は、中身も凄いのだろうか……。




 「おにいちゃんの嘘つき!」


 スズがむくれている。

 戦見学への同行を禁じられたのだ。


 「おにいちゃん言ったもん! 英語が出来たら連れて行ってくれるって言ったもん!!」


 それは三郎太、重之助に出した課題、英語学習の事である。

 のんべんだらりとしていては駄目だぞという事で、学習が捗っていない者は連れて行かない、行きたければ勉強してね、と二人に言ったのだ。

 その場にスズも居たのだが、元よりスズを連れて行くつもりは松陰になかったので、気にしていなかった。

 スズは、松陰が自分にも言ったと思い、必死で勉強し、見事試験を突破したのだ。

 むしろ、二人よりも成績が良いくらいであった。

 だが、松陰に同行を禁じられ、むくれてしまったのだ。


 「連れて行ける訳がないよ、スズ。いくら見学だけとはいっても、そこは戦場。何が起こるか分からないのだから。」


 松陰が説明するが、勿論スズは納得しない。


 「おにいちゃん言ったもん! 私にも言ったもん!!」


 まるで聞かないスズに、松陰もお手上げだ。

 それを見守る、ニヤニヤした顔の大人達。

 そんな彼らにイラッとしたが、今はそれどころではない。


 「千代! 千代もスズを止めてくれ! 千代からなら、スズも分かってくれる!」


 松陰は堪らず千代に助けを求めた。

 しかし千代はそれには応えず、

 

 「それはそうと松兄様。どうして梅兄様は良くて、私は駄目なのですか?」


 スズに輪をかけて、千代までそう言って松陰を困らせる。


 「兄上には戦の様子を絵に描いてもらわねばならぬから……。」


 言葉で説明するより、絵ならば早いし分かりやすい。

 そう思って、梅太郎にも同行をお願いしたのだ。

 それに納得がいかないのが千代であった。

 

 「それならば、私がお話しを作り、梅兄様に絵を描いてもらい、紙芝居にすれば尚更良いではありませんか!」


 中々鋭い事を言う千代である。

 しかし、千代もスズも幼い女の子。許可は出来ない。


 「お前達は幼い女子おなごではないか! 戦など見せにいける訳が無いだろ!」

 「菊姉様も女です!」「男も女もびょうどうって、おにいちゃん言ったもん!」


 松陰の言葉に即座に反論する千代とスズ。

 松陰も言葉に詰まる。


 「うっ! お、お菊さんには、イギリスの鉄砲、大砲を見てもらわねばならないのだ! それに、全てを覚悟しているから良いのだ! ねえ、お菊さん?」


 松陰に話を振られたお菊は、キッと二人に見つめられ、しどろもどろになりながらも、弁解した。


 「う、ウチは、自分の身を守る為に気砲も改良したし、使える様に練習したし、覚悟もしてると言うか……」

 「なら私達にも気砲を作って下さいまし! 身につけます! ねえ、スズ?」「うん!」


 薮蛇であった。


 「父上からも言ってやって下さい!」

 「困ったからと言って、すぐに人を頼るのは良くないな。」

 「ぐっ! は、母上!」

 「えっと、私は寿のオシメを代えないといけないわ。」


 援軍は無い。


 「船は長旅なのだぞ? 厠も無いのだぞ? 風呂にも入れぬのだぞ? あそこで雁首揃えた、むさい男達と一緒なのだぞ?」

 「むさいとは酷いねぇ」「オラって、爽やかだっぺ?」「どの口で言うのです?!」「青春ですなぁ」「もてもてで羨ましいですな」


 松陰にむさい男呼ばわりされた者らがそれぞれ抗議の声を上げる。

 松陰は更にイラッとしたが、無視だ。


 「戦では、流れ弾が飛んで来るかもしれないのだぞ? 当たれば痛いぞ? 死ぬかもしれないのだぞ? そんな危険な所へ、可愛いお前達を連れて行ける訳がないではないか!」


 松陰の泣き落としにも似た説得に、千代もスズも少し怯む。

 松陰はここぞと攻め立てる。


 「可愛いお前達が大切だから、連れて行けぬのだ! まかり間違っても、怪我などさせる訳にはいかぬのだ! 分かって欲しい!」 


 しかし、そんな松陰の説得もあまり効果はなかった。

 大勢が楽しげに語り合っているのを見ると、今回もそれを見送るだけなのは、二人にはもはや到底受け入れ難い。

 既に何度も松陰を見送り、寂しい思いをして来たのだ。

 女は待つのが役目だと言って、お菊が付いていくのは納得出来ない。ならば自分達も、となるのは当然であろう。

 かといって、お菊に残ってもらうのも却下である。

 鉄砲鍛冶のお菊には、イギリスの持つ武器を見てもらい、今後の参考にして欲しいのだから。


 「すまん、話が全く見えないのだが、お前ら何処へ行くつもりなのだ? 戦とは何処の戦だ? 戦が起こったなど、そんな話は聞いておらんぞ? 清国とイギリスの間で戦が起こったとは聞いたが……。まさか?!」


 才太が今更な事を聞いてくる。

 今までもずっと同じ屋根の下に暮らしてきて、一体何を聞いていたのか謎である。

 そこまで穢多の集落で、女達に囲まれる状況にうつつを抜かしていたというのか!


 「才太殿、あんたさんは、大物だねぇ……。」

 「大物なのか、鈍いだけなのか、ま、随分と幸せな事だ。」


 海舟と忠震が才太を評してそう言う。

 忠震の指摘通り、幸せであった才太。

 人生初のモテ期到来に、気分が絶頂になっていたのである。

 密航して戦を見に行こうなど、幕府を何と心得る! と一喝したい所であったが、今の今まで気づきもしなかった自分が言える言葉ではないと思い、自重した。

 そして、なし崩し的に同行する事になる才太であった。

次回、やっと船出です。



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