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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
彦根藩への旅路編
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むつかしき殿様

 井伊直亮いいなおあきは近江彦根藩の14代藩主である。

 1794年、13代藩主直中の3男として生まれた。

 兄直清が病弱だった為、1812年に直中の隠居に伴い、藩主となった。

 1835年からは大老に任じられている。


 この直亮、洋書を買い入れたり蘭学者を登用したりと開明的な施策を取ったが、守旧派の家臣達には理解されず、”むつかしき殿様”との称号を得ている。

 むつかしき事を考えている殿様なのか、扱いがむつかしいのかはわからない。

 ただ、譜代大名筆頭として代々徳川幕府を支えてきた、由緒ある藩としての自負が家臣達にはあり、直亮の振る舞いを、伝統を重んじる格式高い井伊家にあるまじき行い、と捉えていたのかもしれない。


 そんな彦根藩の中にあって、直亮は浮いていた。

 大老に就任してからは江戸にいるしかないので、そういう意味では気が楽な直亮であった。

 それに、江戸には好奇心を刺激する西洋の知識が溢れていた。

 通常であれば江戸にいるはずの直亮なのだが、この度は所用があり、国許に帰っていた。

 そんな奇跡的なタイミングでの一貫斎の登城打診である。

 

 国友一貫斎とは、直亮が藩主になる頃からの顔見知りであった。

 彦根藩が一貫斎に注文したモノの出来が大変素晴らしく、直亮の好奇心を大いに刺激したのだ。

 直亮は直接一貫斎の仕事ぶりを称えたのだが、それが国友村の年寄4家の機嫌を損ね、一貫斎に迷惑を掛ける事となる。

 以後、藩主となってからは一層一貫斎に目を掛け、何これとなく手を差し伸べ、便宜を図ってきた。

 そんな直亮の期待に応え、一貫斎は気砲、魔鏡、万年筆、そして反射望遠鏡を作り上げたのだった。


 望遠鏡を作り上げた事を聞いた直亮は大喜びであったという。

 しかし、その望遠鏡完成の報も家臣達にはさっぱりで、直亮が何故喜んでいるのかさえ理解しようとしなかった。

 そもそも、望遠鏡という物自体理解しようとはしなかったのだ。

 その様な頑迷な家臣達に囲まれ、直亮の心は孤独であり、一貫斎の存在はそれを癒すものだった。


 そんな折、所用で国許に帰った際の、いとまを請う一貫斎の登城である。


 本来であれば、事前の申し出も無いのに、いきなりやって来て殿様と会う事など出来はしない。

 しかし、誰あろう直亮贔屓の、国友一貫斎からの暇の申し出という事もあり、ぞんざいに扱って後で直亮に咎められては大変だと、一貫斎来訪の報告を受けた家老が、直亮に確認にやって来たのだ。

 

 家臣には、幕府の沙汰の後没落した国友村の年寄4家と縁のある者もいた。

 その者らにとって一貫斎は憎い存在であり、直亮の西洋かぶれを苦々しく思う者にとっても、直亮と意気投合する一貫斎は何かと目障りな存在であったのだ。

 直亮の西洋かぶれを助長する存在と見なしていた。


 そんな一貫斎が長州藩に行くので暇を得に来たというのである。 

 邪魔をする必要が無い。

 むしろ熨斗を付けて送り出したい程だ。

 その一貫斎の目的は、顕微鏡なる、目に見えない物を見る道具を作るという依頼の為らしい。

 いい年をした爺が、余生を大事にしておれば良い物をと、理解不能な行動原理で長州藩まで行くという一貫斎に、家臣の多くは冷ややかな目線を送るのだった。

 



 「苦しうない、一貫斎。息災な様で何よりじゃ。」


 平伏する一貫斎に向け、直亮は告げた。

 言われて一貫斎も面を上げ、直亮に向き直る。

 

 「勿体ないお言葉にござります。」

 「して、そちは暇を得たいそうだな?」


 直亮は直ぐに本題に入る。

 堅苦しい時候の挨拶も不要だ。

 思い返せば、二人は一貫斎が二百目玉筒の製作を命じられてからの付き合いである。

 以後、一貫斎は新しい物を製作する度この城に登城し、出来た物を直亮に報告し、その後は西洋の道具などについて意見を交わし、殿様と藩お抱えの鉄砲鍛冶という枠を超え、友好を深めてきた。

 少なくとも一貫斎にとってはそうであった。

 直亮にとっても、ただ家業を継ぐだけでなく、新しい何かに挑戦する一貫斎の在り方は、非常に感銘を受けるモノであった。


 守旧派が多数を占めるこの彦根藩にあって、開明的な殿様の居心地は悪い。

 西洋の事物にかぶれるだけの愚物な殿様ならば、守旧派の意見も理解はできるが、直亮はそうではないのだ。

 名君とは呼べないかもしれないが、まず第一に藩の繁栄を考え、譜代筆頭として大老というお役目を恙無く果たしているのだ。

 西洋の知識に傾倒しているからといって、白眼視される謂れは無い。 

 そんな直亮に、長州藩に向かう事を告げるのは若干躊躇われた。


 「左様です。こちら、吉田松陰さんの依頼を果たそう思いましたんです。」


 一貫斎に紹介された松陰は、直亮に言う。


 「長州藩士、吉田松陰にございます。この度は、国友一貫斎殿に作って頂きたい物がございまして、足を運んで参りました。」

 

 松陰を見やる直亮。

 松陰の年の若さにも驚くが、より驚くのは一貫斎を訪ねてきたその目的だ。


 「西洋の器具”顕微鏡”であるか……」

 「左様にございます。」

 「儂は江戸で見た事があるが、その方はいずこで知ったのだ?」

 「はい。人づてに聞きましてございます。」

 「それだけで長州藩よりここ彦根、国友一貫斎を訪ねて来たと申すか?」

 「左様です。一貫斎殿ならば間違いがないと思いましたので。」

 「して、その目的は何だ? まさか好奇心だけと言う事もあるまい?」


 まるで尋問の様だと松陰は感じた。

 しかし、これはまさに尋問なのだ。

 藩の宝である一貫斎を連れて行こうというのだ、その人物の人柄も、目的も調べずに許可する事など出来はしない。

 それに、直亮にとって一貫斎は大事な存在である。

 年が年であるし、もし長州藩に出向くとあれば、これが今生の別れとなるやも知れぬと思えば、いくら一貫斎の願いだとしても、易々と頷く訳にはいかない。


 「”えひめアイ”の普及促進、更なる研究の為にございます。」

 「えひめあい、とは何だ?」

 「はい。」


 詳細を松陰が説明した。それに対し、


 「信じられぬ! 信じられぬが、顕微鏡で目には見えぬ小さき物を見る事も知っておる。微生物なるものは西洋の書物にも書かれておるし、あながち嘘とも思えぬな……」


 ルイ・パスツールが全ての発酵が微生物の活動によるものと発表し、自然発生説を否定する実験を行うのはもう少し後である。


 「その”えひめアイ”なる代物は、我が藩でも作れるのか?」

 「それは勿論でございます。委細はここに記しておりますので、もし宜しければお読み下さい。」

 「ぬ? 用意がいいな……」


 松陰の説明に興味を持った直亮は、松陰の用意した”えひめアイの作り方”なる小冊子を受け取り、開いてみた。


 「おお! 絵を用いて分かりやすいな! 酒、味噌を醸す麹菌? 鮒鮨を作り出す乳酸菌? 納豆を作る納豆菌? そして酵母菌であるか。材料も身近にある物ばかりであるし、これなら直ぐにでも始められそうだな!」

 「お気に召して頂けた様で何よりでございます。」

 「しかし、これで出来るなら一貫斎の発明も要らぬのではないか?」


 直亮は一貫斎に、なるべくなら手元にいて欲しい。


 「私が目指すのは”えひめアイ”のみに留まりません。いずれは餅に繁殖するアオカビを培養し、アオカビが作り出す”ペニシリン”を分離し、病気に苦しむ万民の役に立てたいと考えております。」

 「何? いつの間にやら餅に増えるあの青い奴か?」

 「そうでございます。」

 「あれにその様な効果があるのか?」

 「そうでございます。しかし、それには顕微鏡で判別できた方が都合が良いのです。そして、その為にはそれに必要な道具も出てくるのでございます。」

 「成程、それで一貫斎に作って欲しいという訳か。」

 「左様にございます。」


 直亮は一貫斎を見た。

 一貫斎は楽しげに、松陰の言葉に頷いている。

 それは未知なる物への好奇心からか、頼まれた品に対する発明家の矜持からかはわからない。

 しかし、久方ぶりに見る一貫斎の楽しそうな表情に、直亮は一貫斎の決意の程を見た。

 頭の中は既に顕微鏡の事で一杯なのだろう。

 今すぐにでも作り出そうとしている様に感じられた。

 

 己の興味、好奇心に忠実に生きる一貫斎が羨ましいと感じながらも、直亮はあくまで一貫斎への心配から重ねて尋ねる。


 「ここ彦根で顕微鏡を作れば良いのではないのか?」


 それには一貫斎が答えた。


 「この松陰さんのやっておる畑を見たいんです。”えひめアイ”なる物の効果っちゅうモンをこの目で確かめたいんですわ。」

 「しかし、一貫斎、その方、体の方は大丈夫なのか?」

 「直亮様がワイの事を心配して下さっておるのは重々承知しております。えらいありがとうて涙が出ますわ。正直、最近はめっきり足腰も弱くなって、こりゃ、いつお迎えが来ても不思議やないなあと思うておりましたが、この依頼をやり遂げたいっちゅうのも強いんですわ。ここでやらなあ一貫斎の名折れやとね。」

 「そちがそこまで思うておる事に口を挟むのは余計な事であったな。」

 「いえ、直亮様のお心はこの一貫斎、十分心得ておりますよって。」

 「そうか。しかし、余の方も、いつまでも江戸におる訳でもないし、隠居したとして彦根に帰っても、そちがいなければ寂しくなるのう……」


 それが偽らざる直亮の本心であった。

 そんな所に松陰が口を出す。


 「ご心配には及びませんよ。いずれ蒸気船も建造する計画です。就航すれば萩彦根間の旅などあっという間になりますので。」


 これには直亮はもとより一貫斎も吃驚した。

 蒸気船なる物の存在は、オランダからもたらされる書物からある程度は知られていた。

 しかし、それこそ見た事も無いはずのそれを、建造する計画まで立てているというのだから、驚きを通り越して呆れるしかないではないか。


 「ちょ、ちょっと松陰さん? それはどういう事やの?」

 「ですから、蒸気船を作るのですよ。」

 「せやけど、アンタさん、蒸気船がどないな物か知ってはるの?」

 「やかんを熱すれば湯気が出ますね? 激しく熱すれば湯気も激しくなります。あの力を使うのが蒸気船です。原理は簡単でございますし、一貫斎殿程の技を持ってしたら、作り出すのは難しくないですよ。」

 「難しくないって、アンタ……」

 「くっくっく、あーはっは!」


 二人のやり取りを聞いていた直亮は突然笑い出した。

 西洋の知識や技術に憧れ、書籍を買い、蘭学者を登用したりもしたが、ここまで楽しくなったのは初めてである。

 目の前の少年は、見た事も無いはずの西洋の最新技術を、難しいものではないと断言するのだ。


 突然笑いだした直亮を何事かと見つめる一貫斎と松陰。


 「くっくっく。いや、済まん。思わず笑ってしまった。これは一貫斎、そちは必ず長州藩に出向かねばならんぞ。随分と楽しそうではないか! その”えひめアイ”なる物も、蒸気船を作るという計画もな! 退屈な江戸での勤めなど今すぐ放り出して、余もそちに同行したいくらいであるぞ! しかしそれは流石に出来ぬ望み。余には譜代筆頭として幕政を預かる責務と誇りがある。それにこの藩を纏める義務がある。けれども、あの者にとってはそうではないな……」


 一人合点した様に呟いている直亮であった。

 二人は訳も分からず直亮を見守った。

 そして、


 「二人に頼みたい人物がおるのだ。」


 そう言って、一人の人物を二人に紹介した。

幕府の大老が所用で藩に帰る事は無いと思います。

尤も、数年後には大老を辞任し、彦根に帰ってます。


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