国許の苦労
出発した松陰一行を見送った清風は、早速松陰から頼まれた事と以前より温めていた計画を実現する為、動き出した。
まずは松陰に頼まれていた撫育方からの資金の拠出に目処をつける事だ。
一貫斎に発明を依頼するとなると、結構な資金が必要となるだろう。
そして明倫館の移転拡張である。
現在の明倫館は萩城三の丸にあり、手狭になっていたのだ。
最後に、越荷方の業務拡大である。
海上交通の要衝、馬関、現在の下関に、北廻り船の荷を預かる倉庫業、その預けた荷物をかたに銀を貸し出す金融業を為す越荷方は既に設置していたが、その業務を拡大するのだ。
撫育方は、毛利氏中興の祖7代藩主の重就が設置したもので、新たに検地して増えた年貢分を、以後継続して別会計としてストックしておく制度である。
藩主直属の組織であり、藩の家老といえども好きには出来ない資金であった。
撫育方から拠出される資金は、主に新田開発、産業開発、新港の建設、通商貿易業等に使われ、更なる資本の蓄積を続けてゆく。
借銀の増加で藩の経営は逼迫していたが、撫育方の資金は無きものとして考える様に、との重就の方針により、藩にいくらの借銀があろうが、返済にその資金が使われる事はなかった。
その様な撫育方の資金を使わせてもらおうと言うのである。
松陰の計画はとても素晴らしい物だと思う清風であるが、それとこれとは話が別なのだ。
因みに、撫育方のトップを撫育方頭人といい、数年前まで清風が担当していた。
藩政の実権を握ってからは撫育方頭人の座を、部下である坪井九右衛門に譲っていた。
しかし、いくら清風が元撫育方頭人であり、今現在は藩政のトップで、撫育方頭人が自分の部下であったとしても、撫育方の資金を好きに流用できる訳ではない。
その様な事を許しては他の者に示しがつかないし、不正の温床にもなる。
撫育方の資金を使うには藩主の許可も必要であるし、理由の無い使い道など出来はしないのだ。
史実では、桂小五郎、高杉晋作は越荷方のトップであったりする。
二人は、京での芸者遊びが有名であるのだが、それに越荷方の資金が使われた気がするのは穿ち過ぎだろうか?
その地位を使い、薩摩藩と密貿易をしたりしながらその仲を深め、倒幕の力を溜めた事は間違いないが、同時に芸者遊びも盛んにしたようだ。
明治新政府の公金着服、流用などは、この長州藩時代の悪習に端を発する気がする。
組織のトップがこうであったのだから、公金を流用できる地位にあればしなければ損である、位のものではなかろうか。
本会計とは別の会計があり、そちらの資金は潤沢。
撫育方の権限は強く、藩主直属。
この様な仕組みは腐敗を生みやすく、それが長年続けば当たり前になり、明治新政府にも受け継がれた、のではなかろうか?
長州藩主導の明治維新の負の側面であるかもしれない。
清風はまず、部下であり、共に藩政を司る坪井九右衛門の元を訪ねた。
因みにこの坪井九右衛門は、岸信介、佐藤栄作兄弟を輩出した田布施佐藤家の生まれで、坪井家の養子となっている。
「これはこれは、村田様、本日はいかがなされたのです?」
九右衛門は驚いた様に清風を迎えた。
城では常に顔を合わせている間柄である。
新年の挨拶などで九右衛門が訪れるならまだしも、清風がわざわざ九右衛門の屋敷を訪ねてくる事はまれであった。
「何も言わず、まずはこれを見てくれぬじゃろうか?」
そう言い、清風は懐から紙の束を取り出した。
「わかりました。」
九右衛門はそれを受け取り、黙って読み始める。
それは松陰の書いた、撫育方の資金を使って行う、民間慰撫に関する試み”草根資金”についてであった。
利潤の見込みが薄い為、商人からの投資など望めない事業や、慈善活動に近い事業に対して、撫育方からその資金を拠出しようという試みである。
いわば福祉事業への資金援助であった。
草の根無償資金の様なものである。
そして、その資金援助用件の第一号として、百合之助の畑で効果を検証し、既に相応の結果を出している”えひめアイ”の普及促進と更なる研究活動であった。
「面白いですな。天保の大一揆から10年、民の間には未だに不満が渦巻いております。それを慰撫する必要はありますし、申請者は誰でも良いというのは、中々に面白いですな。これを提案した吉田松陰なる者の着想は実に面白い。」
天保の大一揆とは、天保2年、1831年に長州藩で起こった巨大な一揆で、参加者は10万人とも言われている。
藩が設置した”産物会所”が、百姓の生産した物品を強制的に格安で買い取り、藩の御用商人に専売させた事に抗議し、一揆に発展した。
事の発端は、稲穂が出る頃に皮製品が田の周りを通ると風雨が起き、穂が実らないという迷信を信じる農民が、その時期に田の周りを見張っていた所、御用商人の駕籠に禁制の皮製品を見つけ、騒動となった事である。
御用商人が意図的に革製品を持ち込み、風雨を呼んで不作とし、米の値上がりを計ったと思い込んだのだ。
藩は一揆勢の要求を一部のみ、”産物会所”の廃止、年貢軽減を決めたが、首謀者は厳罰に処した。
それからも、各所で度々騒動は起こっている。
「勿論、提案されたものは厳正に審査する必要はあるでしょうし、不正に資金を着服しない様に監視もしなければいけないでしょうが、検討すべき策ですな。敬親様が最終的に判断する、というのも良いですな。提案が上手くいけば敬親様の名声も上がりますし、失敗した所で元々が慈善に近い趣旨の案件であれば、別段困りませんな。藩の借銀は膨大ですが、越荷方の成果は上がってきておりますし、撫育方の資金は潤沢です。効果のありそうな案件を厳選すれば、少ない投資で民間を慰撫する効果は高いですな。それに、この提案第一号は、既に効果が出ているというではありませんか。それを発展し、広げるだけだと。それなら有効性の確認も早いですし、誰もがこの”草根資金”のを納得するでしょう。」
九右衛門には好評の様だ。
清風も一安心である。
「しかし、敬親様が何と言われるか、ですかな?」
そこは清風もわからない。
ただ、藩主敬親は、藩政を清風に任せてくれている。
この様な提案を拒否する性格もしていないはずだ。
むしろ面白がってくれるのでは? と清風は見ていた。
「では、坪井はこの提案を実施して構わないのじゃな?」
「はい。後は敬親様のご判断にお任せします。尤も、敬親様なら寧ろ喜んで賛成して下さる気がしますが……」
九右衛門も清風と同じ様だ。
早速、機会を見て敬親に意見を具申しようと思う清風である。
それから二人は、手狭になった明倫館の移転候補地、新しい明倫館の在り方、越荷方の拡大する業務に関して協議を重ねた。
藩政の実権を握るトップ二人が話し合い纏まれば、余程の事が無い限りそれは即ちそうなると言う事である。
明倫館の移転先は、萩の三角州の中心江向に。
これからの明倫館は武士の子弟だけではなく、優秀ならば民間からも広く人材を募集して学問を積ませ、藩政を担う者を育てていく事。
越荷方の業務を拡大していく方向で進めていく事がつめられていく。
二人の意見をまとめ、敬親に具申する内容まで練り、その日は終えた。
九右衛門の屋敷を出た時には、既に日は傾き始めていた。
実りある話し合いが出来、心地よい疲労感に清風も満足げである。
因みに、清風の別宅と九右衛門の旧宅は同じ平安古町内にある。
そして後日、清風は藩主敬親に具申した。




