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杉家にて

 清風、亦介、文之進を出迎えた杉家の家族は、当主百合之助、その妻滝、長男梅太郎、次男松陰、長女千代、次女寿、百合之助の母、その妹であった。

 そして松陰の一番弟子である三郎太、近所の百姓の倅だという熊吉、足軽の倅の金子重之助、何故か杉家に出入りしていたスズである。

 

 三郎太が杉家に出入りしているのは何の不思議も無い。

 何せ松陰の一番弟子なのだから。

 百姓の倅という熊吉は、松陰にというよりも百合之助の弟子であり、百合之助を助け畑の管理を良く行っていた。

 百合之助の畑の見事さに敬服した熊吉が、是非にと手伝いを申し出てきたのだ。

 その様な者達は多かったのだが、松陰の作っていた資材を理解し使える者が熊吉だけであったのだ。 


 金子重之助は、ご存知の方もいるかもしれないが、史実で松陰がアメリカ密航を企てた際お供をしていた、松陰より一つ年下の青年である。

 萩の商人の家に生まれ、足軽の家に養子に入ったのだが、酒と女に失敗し、江戸へ逃げ、そこで松陰と知り合い、アメリカ密航を打ち明けた松陰に、是非連れて行って欲しいと頼み込んだのである。

 重之助の印象を松陰はこう語っている。

 「人柄は弱々しく体も小さいが、その眼は輝き、不屈の精神を持っている事を感じさせる。アメリカ密航の企てを伝えると大いに喜び、私以上に熱心になってアメリカ渡航を願う様になった。」と。 

 しかし密航は失敗し、自首した二人は伝馬町の牢に繋がれる。  

 入牢生活で体調を崩した重之助は、萩での蟄居を命じられ、体調が回復しないまま故郷へと移送された。

 移送中さらに健康を損ね、それに追い討ちをかけたのが長州藩の決定であった岩倉獄への入獄であった。

 密航者という重罪者をだしてしまった長州藩が、幕府への気遣いもあって二人を入獄させたのだ。

 士分の松陰は野山獄へ、士分ではない重之助は岩倉獄へ繋がれたのであるが、比較的ましな野山獄の獄内生活に比べ、岩倉獄の環境は悪く、元より体調が悪かった重之助は回復する事なく、自宅蟄居に移る前に亡くなってしまったのだ。

 アメリカ密航に同行してくれた相棒とも呼べる存在の死に松陰は嘆き悲しんだ。


 萩での接点はないはずの松陰と重之助であるが、これも運命とでも呼ぶのであろうか、ポテチや柿の種に興味を持った重之助が玉木邸を訪れ、松陰と出会い感銘を受け、そのまま弟子となったのだ。

 松陰も、史実での重之助に訪れる悲劇を回避する為にも、喜んで弟子入り志願を受けいれた。

 何故なら、松陰に出会わなければ、松陰がアメリカ密航を打ち明けなければ、重之助は悲惨な獄死をする事はなかったはずだろうからである。


 スズに関しては、ハンバーグやポテチ、柿の種、水飴といった美味い物を作り出す松陰に感動し、その松陰大絶賛のカレーという未知なる食べ物への好奇心が爆発し、「あたし、おにいちゃんのお嫁さんになる!」と意気込み、押し掛け女房になっていた。

 士分である松陰とは結婚できないと諭す両親始め周りの説得に対しては、「だって、おにいちゃんがそんなの無くなるって言ったもん!」と取り合わない。

 実際に松陰は穢多の集落で、30年後には身分制度は無くなり誰とでも結婚して良くなる、と言っていたのだからスズが正しいのだが、あくまで30年後には、である。

 松陰は30年も待てない、と言ってはいたが、松陰が頑張った所でどうなるものかはわからない。

 

 それに、そもそも松陰には、夢の中に出てくる名も知らぬ女性という思い人があるのだ。

 駄々をこねるスズに手を焼き、松陰に謝った穢多の長に対してその事を伝えていたので、長もスズに語って聞かせた。

 松陰先生には思い人があると。これにはスズも諦めるだろうと思ったのだが、

 「めかけでいいもん! アタシはおいしいものをもっと食べたいもん!」

 スズの言葉に父である長も絶句し、母親は吹き出す始末。

 三郎太より事の顛末を聞いた松陰は、苦笑しつつもスズの食い意地もとい志に脱帽し、スズの好きに任せた。

 

 といってもスズはまだ6歳である。

 いずれ現実を知り、心変わりをするだろうと周りも判断した。


 そんなスズを可愛がったのが千代である。

 妹である寿はまだ赤ん坊であり、突然出来た年の近い可愛らしい妹分に歓喜したのだ。

 嫁修行と称して共に家事に精を出し、紙芝居の台本を話して聞かせ、スズの感想を下に話を練っていった。

 スズも千代をおねーちゃんと慕い、千代の話す物語に目を輝かせて聞き入り、文字も教えてもらい、更に仲良くなっていった。


 穢多の集落を訪れ、帰って来た松陰と梅太郎が纏う臭いに閉口した経験を持つ千代である。

 石鹸が完成し、更には松陰の提案で、町へと赴く際の衣服は、集落から離れたところで管理する方式が取り入れられてからは、彼らが放つ臭いは軽減した。

 スズと初めて会った時には以前の二人の臭いを思い出し、腰が引けていた千代であったのだが、石鹸の使用や衣服の管理といった彼らの苦労もあって、千代も気にせずスズと戯れる事が出来る様になっていたのだ。


 そして、そんなスズを一目見た清風も、その目尻を下げて可愛がった。

 「じーじ」とスズに呼ばせて喜び、亦介を始め居合わせた全員を呆れさせた。

 これは伯母上に報告せねば! と亦介が強く思ったのも無理はないだろう。

 

 さて、そんな杉家であったが、屋敷の中に入った途端、畑と同様、清々しい空気に溢れていた。

 微かに甘酸っぱい匂いが漂っている。


 「畑でも感じたのじゃが、この甘酸っぱい匂いは何なのじゃ?」


 ついに堪らず清風が問うた。

 

 「流石村田様、ご慧眼をお持ちでございますね。熊吉さん、壺を持って来てもらえませんか?」


 そう言って、松陰は、熊吉に頼み、屋敷の奥より壺を持ってきたもらった。

 その壺から何か液体らしき物を汲み取り、三人の前に持ってきた。

 お椀に入れられたそれは、薄い茶色をした液体で、嗅ぐと甘酸っぱい美味しそうな匂いを放っていた。 

 これが畑でも嗅いだ匂いの正体だと気づく。


 「これは一体何なのじゃ?」

 「えひめAIにございます。」

 「えひめあい?」

 「左様にございます。」

 「えひめあいとは?」

 「えひめAIとは愛媛県産業技術研究所で開発された『環境浄化微生物』の事です。アコヤ貝の斃死が続く宇和海の浄化や、工場排水、生活排水の発生源対策として使用できないかという目的で研究が始まり、開発されました。えひめAIには日本酒、味噌、醤油作りに欠かせない麹菌、パン作りには欠かせない酵母、ヨーグルト作りの乳酸菌、大豆を納豆に変える納豆菌を発酵培養した液体です。麹菌はデンプンを糖化し、他の菌の増殖の為のエサを作るべく使うので、原料に砂糖を使えば麹菌は必要ありません。全て食べられる物で作られており、安全、安心して使う事が出来ます。えひめAIという名は、開発者である曽我部義明さんが、環境童話『地球の秘密』の作者であり、1991年に僅か12歳で亡くなった坪田愛華さんの『地球への思い』に共感し、愛華さんの『愛』からとってつけたものです。けっして愛媛には愛がある、という駄洒落ではありません。因みに、麹菌は蒸した大豆を潰し、丸めて軒に吊るしておけば繁殖しますし、酵母菌は熟した柿やブドウの皮の表面に多いです。乳酸菌は牛の乳が手に入れば一番ですが、米のとぎ汁を放置しておいても採取できます。糠漬けを作る糠床にも多いです。納豆菌は熱に強いので、イネ科の葉っぱを乾かして、60度の熱湯にくぐらせれば雑菌を死滅させ、枯草菌の一種である納豆菌を得る事が出来ます。」

 「うむ、相分かった。儂には理解出来ぬ事がよーくわかった。」

 「心配なされるな伯父上、我らもさっぱり理解できてはござらぬ!」


 松陰の説明を理解出来ない三人であった。

 しかしそれも無理はない。

 当時、目には見えない微生物という生き物を、目には見えないけれども理解しろというのが無茶なのだ。

 とはいえ、そこは我らがご先祖様である。

 パスツールが微生物の働きで発酵が起こる事を突き止め、熱を加える事で微生物を死滅させる事を考え付いた。

 発酵の途中で熱を加える事によって、それ以上発酵が進みすぎて酒が酸っぱくなり、商品価値を失くすのを防ぐ事に成功したのだ。

 それが、我らがご先祖様は、パスツールがその手法を発見するよりはるか昔、経験で微生物の働きを理解し、火入れによって酸敗を防いでいたのだ。

 因みにそのパスツールは1822年生まれであり、松陰の8歳年上となる。

 彼の業績を称え、発酵を停止させる為に行う低温度での殺菌をパスツラリゼーション、低温殺菌法と呼ぶ。


 松陰もわかっているのでそれ以上は説明しない。


 「原理は兎も角、発芽させた麦芽を用いてお粥を甘くし、それに納豆、米のとぎ汁を放置した物、果物の皮を入れ、十分混ぜ合わせて甘酸っぱくなった物がこれでございます。」 


 発酵の順番としてはこうである。

 まず分解屋ともよばれる納豆菌が糖などを分解し、アミノ酸などを作り出す。

 次に掃除屋とよばれる乳酸菌が乳酸を作り出し酸度を下げ、雑菌の繁殖を防ぐと共に、納豆菌のそれ以上の分解を阻止する。

 そして最後に合成屋である酵母菌が各種アミノ酸を再合成し、必須アミノ酸、ホルモンなどを作り出すのだ。

 それらは植物に吸収されて成長に使われ、健康を保つのである。   

 発酵食品が体に良い効果を持つ事は、広く知られていると思う。

 人間の体に良い物は植物にも良い、のだ。


 また、発酵の良し悪しに関しては、納豆菌が働きすぎるとアンモニア臭がするようになってそれは失敗であるし、乳酸菌が働きすぎると酸っぱくなってそれも失敗である。

 酵母菌を上手く働かせて、甘酸っぱい匂いがするようになったら成功である。

 

 ここである事を疑問に思った亦介が百合之助に聞いた。


 「百合之助殿は、松陰殿の言っている事を理解できるのでござるか?」

 「いや、目に見えぬ生き物がいると言われてもさっぱり分かりませぬ。」


 当事者であるだろう百合之助でさえこうである。

 ましてや清風達に理解できるはずもない。


 「熊吉と言ったかの、お主は理解できるのかのう?」


 百合之助の答えに気を良くした清風が、百合之助の弟子だという百姓の倅熊吉に聞く。


 「いんや、目には見えん、小さい生き物がいると言われてんも、オラにはさっぱりわかんねーです。だども、おまんまがないと増える事はねーし、暑過ぎても駄目、寒過ぎても増えたり増えなかったりするんで、松陰先生の言う通り、生き物の働きだと言われて、よくわかるだす。」


 熊吉が言っているのは松陰の為した実験である。

 乾いた草を用意し、水しか入っていない容器と、微生物のエサとなる糖分の入った容器とを放置し、水しかない物には何も起こらない事を確認する。

 次に発酵中の納豆を用意し、片方は熱を加え、片方はそのままにする。

 熱を加えた物はそれ以上発酵が進まない。

 それらの実験で、目には見えないけれども、何かがいる、という事を体感した熊吉であった。


 「成程。その様な事が……」


 とはいえ、それを見ていない清風には理解できないのだ。

 しかし、それでは進まないので松陰も話を続ける。


 「この液を厠に入れれば臭いは消え去り、薄めて堆肥に混ぜれば上手に熟成でき、畑の土に撒けば作物は健康に育ち、作物の表面に撒けば病気を寄せ付けません。」

 「何と! それであの畑であったのか!」

 「そういえば、先程拝借した雪隠は、驚く程に臭いがござらんかったな。」

 「それだけであの様になるとは!」


 驚く三人である。

 しかし、文之進のそれだけ、という言葉に反応する松陰。


 「それだけでは勿論ありません。」

 「なぬ? まだあるのか?」

 「これなるは炭を焼く際に出る煙を冷やして出来る、木酢液なる液体です。」


 そういって松陰は別の壺を持ってきた。

 こちらは炭焼きから採れるとあって、焦げた臭いのする液体であった。


 「この木酢液ですが、作るのに少々時間が必要ですが、えひめAIと同様、様々な効果を持った液体でございます。唐辛子を漬け込んだ物には虫を殺す効果があったりします。」

 「成程……、流石は松陰殿じゃな……」

 「全く……。まるで理解が追いつかんでござる……」

 「ここまで進めておったとは……」


 三者三様に驚いていた。

 が、いい加減、驚くのも疲れる。

 しかし、松陰は容赦が無い。 


 「そして更に、穢多の集落で出た牛、馬の骨を畑に使っておりまする。骨を直接畑に撒けば野良犬が近寄るので、焼いて砕いて木酢液に漬け込み、畑に用います。また、彼らに作ってもらった石鹸で油を水に溶かして虫に撒く事により、虫を殺す事が可能です。更に」

 「あいや、待たれよ、松陰殿! 分かった、よーく分かった故!」


 堪らなくなった清風は松陰を止めた。

 一度に説明されても頭がついていかない。

 素晴らしい事をやっているのは、あの畑を見れば一目で理解できた。

 その理論なり方法を聞いても、百姓でもない自分達には理解も出来ないし、聞いても仕方無いではないか。

 慌てた様に止める清風に、松陰もやっと口を閉じた。

 それにほっとした清風。 


 「松陰殿が見せたい物があると言っておったのは、これで全てじゃな?」


 ややウンザリした様にも見える、驚く事に疲れてしまった清風が希望を込めて口にした。

 どうぞこれで終わりであってくれと。

 

 しかし、清風の思いは届かず、松陰はあっさりと告げる。


 「いいえ、まだございますよ。」

 「まだあるのか……」


 清風の心中を思うと同情を禁じえない。

「えひめAI」に関しましては、開発者の曽我部義明氏が特許取得をされていないので、そのまま使わせていただきました。

個人的に作ってみたいのですが、今の生活ですと利用する場所もないので断念しております。


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